『一秒の復讐と、その後の婚約について』
tanaka azusa
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例えば長らく顔も知らない救世主、
王子様を待ち焦がれていたとして、
眉を顰めるような劣悪な環境と
己の心身を壊す元凶から
連れ出してくれると願ったとして、
それが血飛沫一つで叶ってしまったら?
特別な美しさや激しい痛みを伴う訳ではない。
ただ一生付き纏う鮮烈な白昼夢、とでも
言っておいた方がいいかもしれない。
無様さが時折り透け、
病葉の茂る、後はもう
轢かれるだけと心得た街路樹と
そんなに変わらないのかもしれない。
王子様を待つあいだに、王国より先に
わたしの身体が壊れた。
天井のシミは毎年ひとつずつ増えて、
名前をつける余裕もなく、
カビと同じ速度で広がっていった。
救世主の顔を想像しようとするときだけ、
首の痛みは少しだけ引く。
横顔しか知らない、夢のなかの人。
その夢は奇妙で、とんでもない速度で醒める。
何が起こっているのか分からないけどとにかく
横顔だけは王子様だってこと、血飛沫に塗れてるけど。
瞼の裏では何度でも繰り出すのに、
現実には一度も来ない。
それでも待つことには意味があると、信じて待つ。
わたしは自分の壊れかけた生活を
「序章」という名前で呼んでいた。
暴力の跡も、睡眠不足も、冷めたスープも、
いつか彼に説明するときのための伏線なのだと。
それを聞いた王子様は、きっと眉を顰めて、
「君はよく戦ったね」と、
教科書に載っていない声で言うはずだった。
その未来の声を信じるために、食いしばる歯は、
既に欠けている。
救いはいつも、未来形の文法でしかやってこない。
だから、あの日のことは、
だいたいの筋書きがもう決まっていた。
彼が扉を蹴破り、わたしの腕を掴み、
元凶の喉元にナイフか、あるいは正義の言葉を突き立てる。
わたしはそれを見て、ようやく泣き崩れる。
そういう「名場面」を、何百回も頭のなかでリハーサルしてきた。
実際に起きたのは、一秒の音だった。
パーン、と空気が裂ける。
血飛沫は思ったよりも小さく、
天井のシミとさほど変わらない大きさで壁に貼りついた。
元凶は、意外なほどあっさりと沈黙し、
部屋の温度が、ほんの少しだけ上がった気がした。
それで終わりだった。
長編だと思っていた復讐は、
序章どころか、冒頭の一文にもならないほど短かった。
「これで、君は自由だ」
王子様はそう言った。
台詞だけは、ほとんど想像通りだった。
ただ、声のトーンが、
思っていたよりもずっと事務的だった。
自由。
その言葉が、部屋の中にぶら下がる。
わたしは頷くことも、泣くことも、笑うこともできずに、
床に落ちた赤い飛沫だけを数えていた。
一、二、三。
十まで数える前に、足跡で踏み潰されて、形がわからなくなる。
「君は、嬉しくないの?」
王子様が訊く。
嬉しい、はずだった。
ここから連れ出してほしいと、何年も祈っていた。
世界から、元凶から、自分自身から。
けれど、待ち望んだ破壊が一秒で完了してしまったあとに残るのは、
嬉しさではなく、「さて、どうしよう」という空白だった。
長く引き伸ばされた緊張の糸がぷつんと切れたあとの、
手持ち無沙汰な指先のような感覚。
泣けばいいのか、笑えばいいのか、怒ればいいのか。
どの感情も、血飛沫よりも遅れて到着する。
玄関に山積みになった段ボールみたいに、
一箱ずつ開ける気力もないまま、ただ置かれていく。
「このあと、どうしたい?」
王子様は、立ったまま聞いてくる。
それはプロポーズの前置きみたいで、
プロポーズよりもずっと残酷な問いだった。
このあと?
このあと、とは。
復讐も救いも終わったあとの「生活」を、
わたしは一度だって具体的に想像していなかった。
結婚式より先に、日常なんて考えたこともなかった。
「結婚、する?」
彼は、ようやく言った。
赤黒い肉片が、
ひらりと床に落ちる光景を想像して、顔が歪む。
その瞬間、悟ってしまう。
この人はわたしを連れ出してはくれたけれど、
どこへ連れて行くかについては、なにも考えていなかったのだと。
わたしは笑うべきか、泣くべきか、怒るべきか、
どれも選べないまま、
代わりに「うん」とだけ答える練習をする。
喉の奥で、何度も発音しては飲み込む。
うん。
うん。
うん。
王子様と結婚をしたら、
この一秒の復讐は、
ふたりの馴れ初めになるのだろうか。
親戚の集まりで、笑い話として語られるのだろうか。
「ほら、ふたりの出会いってさ」と。
その未来を想像すると、
胃袋の裏側が冷たくなる。
わたしは王子様のほうを見ないまま、
壁のシミに視線を戻す。
さっきついたばかりの赤い点が、
いつか天井のカビと同じ色になるまでの時間を想像する。
もしも彼と結婚したら、
わたしはこの一秒を、永遠に説明し続けなければならないだろう。
なぜ助けてほしかったのか。
なぜ抜け出せなかったのか。
なぜ、いまもまだ、自由が怖いのか。
復讐を一秒で片づけてしまったことの代償は、
残りの人生で「言語化」を払い続けることかもしれない。
彼に、世界に、自分自身に。
ふと、思う。
もし本当に自由なら、
わたしはここで、「いいえ」と言えるはずだ。
彼と結婚しない自由。
王子様であることを、彼から取り上げる自由。
一秒の復讐よりもずっと静かで、
誰の血もいらない革命。
「ねえ」
ようやく、声が出る。
笑っているのか、泣きそうなのか、自分でもわからない声だ。
「今は、答えを出さなくてもいい?」
王子様は蒼白い首筋をひくつかせ
少し驚いたような顔をして、それから頷く。
その頷き方が、わたしの想像していたどのシーンよりも現実的で、
どの物語よりもみすぼらしくて、
恐ろしかった。
復讐は終わった。
救いも終わった。
残ってしまったこの空白を、
「結婚」という名目のエンドロールで巻くのは容易い。
でも、それを選ぶかどうかくらいは、
物語の外側に出た自分が決めたい。
窓の外は、まだ夜だ。
王子様の靴が、床の血を少しだけ伸ばしていく。
それは、わたしがこれから歩いていくかもしれない道の、雑で小さな地図みたいだった。
わたしは、その上を踏まないように、
そっと端を歩きながら考える。
指先は悴んで震えて感覚がない。
窓の外は、いつの間にか夜とも朝ともつかない色になっている。
カーテンの隙間から差し込む、どうでもいい薄明かりが、
床の血を、ただの汚れみたいな色に変えていく。
あのあと何を話したのか、ほとんど覚えていない。
救急車も、警察も、近所の視線も、
全部あとから付いてくる字幕みたいに遅れてやってきて、
気づいたときには、もう場面が変わっていた。
新しく借りた部屋の天井には、まだ一つのシミもない。
白すぎて、深呼吸をするときの肺の中みたいだ。
見上げているうちに、反対に息が詰まってくる。
目を閉じると、勝手に前の部屋の天井が立ち上がる。
長いあいだ見上げ続けてきた、あの汚れた面だ。
年季の入ったカビの輪郭と、その横に、あの日ついたばかりの小さな点。
どちらも、今の住所とはもう関係がないはずなのに、
脳だけは、いまだにあの部屋を「現在地」として扱っている。
その日から王子様と呼んでいた人の顔を、
ちゃんと思い出そうとすると、頭が痛くなる。
肌の色も、目の形も、声のトーンも、
どこか一つだけ、どうしても欠けてしまう。
代わりに、あの天井だけが、やたら鮮明に浮かぶ。
茶色い輪郭と、小さな点。
カビと血と、水漏れと時間。
彼は結局、わたしの人生に、
人ひとり分の居場所をくれたわけじゃなかった。
ただ一つ、シミを足しただけだ。
そう思ったら、
愛しているかどうかなんて、
どうでもよくなってしまった。
新しい部屋の天井を見上げる。
白くて、まだ何も知らない面だ。
わたしは指先で、空中に小さな円を描く。
前の部屋で見ていたシミと同じ大きさに。
そこに、彼の横顔を当てはめてみる。
うまくいかない。
彼は天井になるには、
まだ少し輪郭がはっきりしすぎている。
いつか本当にシミになったとき、
そのときに、答えを出せばいい気がした。
そういえば、と気づく。
わたしは一度も、彼のことを「人間」として想像したことがなかった。
ずっと、「来るはずの出来事」として待っていただけだった。
ちいさな事件はもう終わった。
残っているのは、ほんの小さなシミと、
その下で眠るわたしだけだ。
『一秒の復讐と、その後の婚約について』 tanaka azusa @azaza0727
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