2 京から江戸へと

 将監の命令に背いてから、ひと月半ほどが経った四月二十九日。目が覚めると、茶色の丸い、狸に似た妖、山囃子やまばやしが目の前にいた。両手に乗るほどの大きさの山囃子は、二本足で立って主膳を不安げに見ている。


主膳しゅぜん、おきた。死んでなかった」


 山囃子は、びんざさらをしゃがざしゃしゃがざしゃと鳴らしながら、嬉しそうに跳ねている。


 土御門家から逃げ、山囃子と共に京を出てから、ひと月半ほどが経つ。

 ようやく江戸に着き、江戸の町の中を歩いていたはずだが、いつの間に眠ってしまったのだろうか。そもそも、ここは、どこなのだろう。


 考えようとすると、京から江戸までの長旅の疲れからか、頭が鈍く痛んだ。ただでさえ寝起きは頭が働かないのに、頭痛のせいで、いつも以上に何も考えられない。


 起き上がる気力もなく、横向きに寝たまま、ぼんやりと山囃子を見詰めた。


 ふと、辺りに漂う墨の匂いに気付く。

 ようやく江戸に着いたと思っていた。だが、土御門家の屋敷に連れ戻されたのだろうか。

 土御門家の屋敷に漂っていた墨の匂いに似た匂いに混乱する。


 山囃子が踊っている向こう側を見れば、見慣れない土間があって、ますます混乱した。


「どこか痛むなら、薬を買ってくるが」


 頭上から覗き込んできた見知らぬ少年に驚いて身を起こす。急に動いたせいか、頭にずきりと激痛が走った。


「飲め。ただの水だ」


 素っ気ない物言いの少年から差し出された茶碗を受け取った。目付きが鋭い少年の歳は、主膳が仕えている将監と同じ十五歳か、少し上くらいに見える。



 ふと、主膳は汚れた衣服のまま、人の布団に横たわっていたと気付く。

 

 夜着と口を付けていない茶碗を横に置き、急いで布団から出た。


 早くお礼を言わなければ。板の間の上に端座し、少年を真っ直ぐに見た。


「寄辺野主膳と申します。この度は」


 お礼の言葉を続けようとした時、老翁が家に入って来た。

 思わず主膳は言葉を飲み込む。


 老翁の顔の皺を見る限り、六十歳は過ぎているだろう。

 

 老翁の口元には、笑みが滲んでいた。一見すると、親しみやすそうに見える。だが、背筋は真っ直ぐに伸び、立ち振る舞いにも隙がない。さらに眼力の強さも相まって、話し掛けにくい感じがした。


 老翁は身形も良く、見るからに新しい、銀鼠色ぎんねずいろの小袖と金青色こんじょういろの羽織を纏っている。老翁が戸を閉める時、羽裏に描かれた、斜め上を向く猪や兎、虎などの動物の姿が覗いた。


 老翁は主膳と目が合うと、僅かに目を見開いた。だが、すぐに苦々しい顔になり、少年に呆れを多分に含んだ、じっとりとした目を向けた。


丹弥たんや、ついに人を攫うようになったか。絵のために猫や鶏をどこぞから持ってくるような奴だ。いつかやるとは思っていたが」


「師匠、攫ってきたのではありません。行き倒れていたから、捨て置けず、拾ってきたのです」


 救ってくれた少年の名が丹弥だと、主膳は知った。


 丹弥に謂れのない人攫いの罪を被せるわけにはいかない。丹弥への思い違いを正すため、主膳は急いでお礼の言葉を続ける。


「寄辺野主膳と申します。この度はお救いいただき、ありがとうございます」


「男だったか。何か事情があって男の服を着ている娘かと思ったよ」


 丹弥に師匠と呼ばれていた老翁が、穏やかに微笑みながら言葉を返す。

 老翁から丹弥に目を移すと、驚きに目を大きくさせていた。いつかの夜に見た梟を思い出す。


「細っこいし、色が白いし、この間、師匠が描いていた女みてえな顔をしているから女かと思っていた」


 丹弥が驚き入ったような声で老翁の思い違いに同意する。横では老翁が困ったような顔をしながら腕を組んでいた。


「男だろうが女だろうが、行き倒れていようがいまいが、拾ってきたのは違いない。今頃、親御は生きた心地がしないだろうよ」


 板の間に腰を下ろした老翁が穏やかな笑みを主膳に向ける。


「弟子の不始末は師匠が責を取ろう。必ず親御の元へ帰すから、安堵しなさい。その前に、迷惑を掛けた詫びに何か一つ望みを叶えようか。何か欲しいものは、あるかな」


 助けていただいたのに、これ以上、何かしてもらおうなんて厚かましい。主膳は慌てて平伏へいふくした。


 せっかくのご厚意をどう断ろうか。思案していると、山囃子が急にびんざさらを鳴らし始めて驚きに頭が真っ白になる。


「こいつ、絵のにおい。こいつに描いてほしい」


 たんったんっと山囃子が跳ねながら望みを口にする。


 土御門家から逃げた主膳が江戸を目指したのは、山囃子の願いを叶えるためだった。

 仲間の絵を描いてほしい。そんな山囃子の願いを叶えるため、江戸で絵師を探すつもりだった。


 丹弥との会話からうすうす気付いていたが、老翁は絵師なのだろう。弟子を取るくらいだから腕は確かなはずだ。


 まさか、こんなにも早く絵師と出会えるとは。


 歓喜しつつも、老翁にお願いしていいのか、逡巡する。


 助けてもらった分際で妖を描いてほしいとお願いするなんて厚かましい。そう思う一方で、この機を逃したら次は、いつ絵師に会えるのだろうと不安が頭を擡げる。


 今いる場所が江戸のどこかすら、わからない人間が、他の絵師を見付けられるだろうか。見付ける前に、また行き倒れるかもしれない。今、拾ってくれたのは良い人だったが、次は、わからない。


 様々な不安と、僅かに残る頭痛が熟慮する気力を奪っていく。絵を描いてほしいと頼んでもいいのではと自分に甘くなる。


「身のほどを弁えず、厚かましくもお願いしますが、妖の絵を描いていただけますか」


「妖か。わかったよ。狩野かのう如川じょせんの名に誓って、俺か弟子が必ずや描くよ」


 もしかして、優れた絵師を数多く輩出している狩野家の方だろうか。老翁の名を聞いた主膳は、驚きに一瞬、息が止まる。


 京にいた頃、禁裏や寺などで狩野家の手に成る絵を見掛ける度、目を奪われていた。


 二年ほど前、将監と訪れた寺で見た屏風絵を、特によく覚えている。金地の屏風には、春夏秋冬それぞれの季節の松の姿が一本ずつ描かれていた。


 屏風を目にした時、一瞬、将監を忘れて絵に見入ってしまった。将監の目なのだから、常に将監のことを考えていなければならないのに。己の未熟を恥じたから、よく覚えている。


 もし、将監の目では、なかったら、あの屏風絵をいつまでも見ていたかもしれない。


 人の心を奪うほどの絵を描く狩野家の方か、教えを受けた弟子に描いていただけるなんて。主膳の心が望外の幸せに躍る。山囃子も描いてもらえる嬉しさにびんざさらを鳴らしながら踊っていた。

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