第三章 錨の錠

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 資料にあった通りだとするとこの辺り――そう考えた那岸なぎし将次郎しょうじろうの目の前には、ぼろぼろになった船が幾つも浮いている。元フェリー船らしきものがほとんど。小船は二つ。

 言うなれば廃船の墓場。

 そのうちどれが目的の船なのか、彼にはわかっていなかった。

 将次郎の目の前の海はどこまでも青く、黒さもあり混濁している。その上に廃船。

(これが綺麗になったらダメなんかな。汚してるのって、俺たち人間やもんなぁ)

 世の理として、このような海と澄んだ海の双方が必要なのかもしれない。濁った所にも命はある。どうなんだろうと思いながら、将次郎は、既に入っていた船の階段を上がっていった。

 カン、カン、カン。

「あっちかな」

 ブーツの音と、寝ぼけたような声。実際、ヘリコプターの中で寝たが、身体からだのスイッチがうまく切り替わっていない。その感覚の中で、欠伸あくび交じりのような声を上げつつ、将次郎は甲板にきたのだった。

 後頭部をきながら、船から人工の大地へと架けられた橋を渡る。

 まだ四つほど調べ残っている。二つ調べ終えて次が三そう目。つまり全部で六つの船。一ていの小船には魔物はいなかった。さっきのフェリーの廃船にも。

(猿の魔物なんて、大体出没しよるけどなぁ……魂術こんじゅつを使った? どんな能力なんかな)

 使えないかどうかはさておき、魂術を使わない魔物もいる。平和的なモノも存在する。

 想像を膨らませながら、また中型の廃船へと。

 もう日は傾き過ぎていた。船内まで照らされることはそんなにない。

 暗がりの中を少しずつ、警戒しながら進む。

 行けば行くほど暗闇に近付く。

 揺れる暗闇。上下の感覚と重力はあるのに、そこはまるで宇宙。

 そこで、将次郎は、さっきまでとは違う感覚を得た。

(いる)

 将次郎の魂素こんそが、彼自身の感覚に、脳に訴えた。『魂力こんりょく』を受けていることを脳に伝える。魂素を使用した時に発生する第六感的な威圧力――魂力。それを、肌の全面のわずかに外部に、風の壁のように受け取る。熱気や冷気のように。

 一寸先は闇。二つの意味で緊張する。

(一階にはおらん、か)

 一階を一回りした将次郎は二階に上がった。

 そこは実際、デッキと床の高さが同じ階だった。

(ん? 強くなったかな)

 皮膚を覆う威圧感が若干、大きくなった。そのまま進んで行く。

(魂術……こんな所で何に使うんかな)

 歩を進める度に、床とブーツの当たる音が響いた。

 集中を高め持続させながら将次郎は進んだ。

 何事もなく数歩進んでから、彼は、守護体しゅごたいの召喚をした。

 黒い天使。地にちたというのでもなく、その色が普通だとでも言いそうな。

 黒い薄衣。黒い肌。漆黒の翼に漆黒の髪。天使の輪もあるが、頭の上のそれも黒。だが怖さはない。美しく荘厳さに満ちている。

「用心してくれよ」

『おう』

 彼は、前を見え、その守護体に背後を任せ、前進した。

 そして発見した。

 影の中にいてよく見えないが、恐らく猿の形をしている。その輪郭がぼんやりと――

「目の前だ、『リン』」

『あ?』

「もう後ろの確認はいいけん、戻って」

『あっそ。じゃ、頑張ってね』

「ふふ、言われんでも頑張るよ」

 リンとの会話が途絶える。それは即ち、彼の中にリンがということ。

 そうなると、彼は見つけた存在へと何気なく近付き、手を差し伸べた。

 人間の子供くらいの大きさだった。

「おさーるさん、おいでー。別に何もせんけんさ」

 彼は素早くそれとの距離を詰めた。そして残り数歩という所まで行き、握手する時のような手を伸ばした。

 すると、その猿は、

「キキキッ、キキッ」

 と鳴き声を発しながら、若干、後ろへと身を引いた。

(人を避けた――魔物が?)

 パンドラの箱から出たという魔物にも、善良な存在や野生的でしかない存在とがある。応じる者は柔軟である方がいい。矢川やがわ正継まさつぐの任務対象の赤狼あかおおかみなんかは野性的な例だ。

 将次郎は、最悪殺すという選択肢を頭の奥へ引っ込めた。

「なあ。もうちょっとこっちに来てくれんか。ほら。少しでいいけん。ねっ」

「キキッ、キイッ?」

 まだ少し離れている。この距離感で、自分が立ったままではどうだろうと彼は考えた。敵意があるように見えるのではないかと。

 もっと近くに来てくれないかと何度も示されると、猿は、気付いて首を傾げたり声を上げたりするものの、まだ逃げ腰だ。

 将次郎は、今度は座った。そして胡坐あぐらき、手を前へと差し出した。

「なぁんもせんって。ほら、おいで。……人が怖いんか?」

「……キィ?」

「なあ。俺って怖いか? どうよ」

「キ?」

 段々と彼の方へと寄る。ただし、何やら大きな物を抱え、鉄の音を伴っていて――しかも、ある程度近付くと、それ以上、将次郎の方へは、なぜか来れないようだった。

 実際、腐れてがれた鉄のような何かが、猿の周りに数多く落ちていた。金属っぽい音はそれかと思われた。

(……? 何だ?)

 思いながら、徐々にハッキリとしてくるその全体像に目をやる。半分以上がまだ陰ってはいるが、ようやくすべてをみ込めた。

「可哀想に――」

「ンキッ」

 猿は手首に手錠を掛けられていた。そしてそれは手すりに通されていた。抱えていたのは手すりの柱だった。それ以上近付けない訳だ。

 さっきの声は警戒心を解いたが故の、会話の返事。あるいは語り掛けだ。

 魔物は普通喋れない。人型だと違うが。まあ特殊なモノも存在するが……人に宿り再構築されれば人語での会話が可能。守護体としてのあれは言語能力の人格、霊的な付与をもたらされたが故のようなもので、実質、念話だ。

 将次郎は話したいと思ったが、返って来るのは鳴き声のみ。辛抱強く対応することにした。

 宿せる魔物はひとり一体。故に自分に取り込むのも無理。――洲田すだ悠汰ゆうた蒼天そうてんを宿し、紫眼しがんを左目として同化させているが、そんな同化による宿し方を、彼は知らない。しかもこれはほとんど誰も知らないことだった。今後研究が進めば違ってくるが――兎に角――

 だから語り掛けるのみ。

 彼は立ち上がり、その猿へと自分の方からまた近付いた。

「キッ」

 猿は腕を上げようとしたが、上がらなかった。手錠が手すりを通して足首につながっているからだ。そしてその鎖は手すりのどこからも外れない。

(ったく痛くないんか? 無理すんなっての)

 彼は仕方なくまた座り込んだ。但し、猿のそばで。

 彼の目に、大きな猿の顔が映る。くりくりとした赤い目。闇と影のあいだから彼を覗き込んでいる。

(かぁわいっ!)

 そうは思った将次郎だが、誰も見ていないのに誰かに聞かせるように「ごほん」と咳払いをした。自分を叱咤しった。別に可愛いと思って良いのだが、判断を鈍らせないためだった。

 そして気持ちを整理し、彼は猿の後ろをよくよく観察した。

 そこには、幾つもの傷があった。船の壁や床、手擦りそのものにも、傷。赤く染まった残痕。

 猿の魔物がねぐらにしているとは思えない――

(仲間は? いないのか……気配はないよな……)

 さらには、手錠をされてここへ逃げてきたとも思えない――状況からしてここに留め置こうとされた、彼にはそうとしか思えなかった。

(誰がこんな)

 だがひとまずはと――彼は真っ黒な魂玉こんぎょくを創造した。目の前に。

「切断する黒、その中心を閉じよ」

 そう唱えた彼の魂玉の中から、念力で引っ張り出されるように、抽出されるるように――出現したのは、天使の輪。

 一本の線が曲がって円形に閉じた形――黒い輪。将次郎の魂術能力。その黒さは闇以上であり、光にもなると彼は信じた。要は使い様。

 意識を集中させ、回転させる。輪の黒さが更に黒くなるような、それでいて周囲まで闇の色を増やしているような、そんな気配の中で――実際夕闇も迫っていて――彼は急いでそれを猿の手足を繋いでしまっているモノへと向けた。

 手錠に触れたその円の刃は、鋭い音を立ててソーのように鎖を断ち切った。

 すると、猿の手足が開放されて。

「キッ!」

「俺でよかったな、猿」

 心底にあった嬉しさを言葉にした彼に、猿は更に近寄った。そして彼の服を触り、指を触り、安全だと知り、思い切り飛び付いて、最後には彼の肩の上に乗ってそこを定位置とした。

「キキ」

「はは、そこからだと、広く見渡せるなぁ」

 体調は一メートルにも満たない。四捨五入するとそうなるという程度。

(小猿か。親の猿は、もう……?)

「一緒に行くか?」

 自然と問いかけていた。

 返事が人語ではないから意味はなかったが、そもそも彼の中で彼自身が答えを出すための問いでしかなかった。生かすという選択以外ない。そうでなければ、もうこの任務の結末に納得が行かない。

「キ」

 反応があったが、それを彼は可愛いと思うだけだった。

 同じ静寂の道を辿る。足音と鳴き声と共に。水や風、鉄屑の音は、彼らを外へと送り出した。

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