顔を見ずに結婚を申し込んだら、職場の上司(クールな執事様)だった件
@Yuzukigumi
本編 (一話完結)
「私と結婚してください! できれば早めに子供がほしいですっ!!」
一世一代の勇気を振り絞って壁の影から走り出ると、私はぎゅっと目をつぶって頭を下げ、一思いに言い切った。
目の前にいるのは見ず知らずの男性だ。
清潔感があって、立ち振舞いと所作が美しかっただけで選んだ、どこの誰ともわからない人。
迅速に子作りに協力してくれる人、父親としての役目を果たしてくれそうな人であれば誰でもよかった。
――そのはずだったのに。
「……マリーさんではないですか?」
頭の上から困惑混じりに降ってきたのは、明らかに知った人の低音。
ずばり私の名前を言い当てていることから、ひどく嫌な予感がした。
恐る恐る顔を上げて目に入ったのは、やはりその人だった。
「あ、アラン様……!?」
同じユーストン公爵家に勤めているが、私はメイドでアラン様は旦那様からの信用厚い筆頭執事。
もちろんメイド長より偉い。つまり私の上司の上司に当たるお方だ。
伯爵家の次男という高貴な出自で、首席で貴族学園を卒業するなど頭脳も明晰。表情こそ乏しめで寡黙だけれど端正なお顔立ちでメイドの間には隠れファンも多い。
そんなお方にとんでもない申し込みをしてしまったことに気がついて、頭から一気に血の気が引いた。
(う、嘘でしょ。どうしてアラン様が結婚相談所の前にいるのよ!? そもそもいったいどうしてこんなことに……?)
受け入れがたい現実を前にして、私は逃げるように今この瞬間に至るまでのことを思い出していた――。
◇
ことの起こりは私がお仕えしているユーストン公爵家の一人娘アイリスお嬢様がめでたくご懐妊されたことに始まる。
お屋敷に入って十年間ずっとお嬢様のお世話をさせていただいている私は感激のあまり涙を流し、公爵ご夫妻とお嬢様に「まだ生まれていないのに、マリーは大げさね」なんてたしなめられたが、嬉しいものは嬉しかった。
あんなに小さかったアイリス様が婿をお迎えになりご結婚されたときも号泣してしまったが、今回はもっと感慨深さが混じった涙だった。
お子様が生まれるまでにまだ半年以上あるが、いてもたってもいられない。赤ちゃんが快適に過ごせるように、さっそくお屋敷をすみずみまで磨き上げることにした私は、その日公爵ご夫妻のお部屋の前にある照明を磨き上げていた。
すると、中からボソボソとお話声が聞こえてきたのだ。
「……マリー…クビ……」
「賛成よ…」
「…乳母…探さないと……」
途切れ途切れではあるが、会話の内容を察してしまった私は目の前が真っ暗になった。
お子様がお生まれになるから、ご夫妻は私に暇を出し、代わりに乳母を雇い入れるおつもりなのだ。
公爵様は日ごろから質素堅実を旨とされ領民に富を還元なさるお方だから、ライフスタイルの変化を機に人員の整理があってもおかしくない。私はまったく力のない子爵家の末娘だから、クビにしても貴族の人間関係がこじれることはなく、そういう意味では最適なのだと想像がついた。
ショックのあまり危うく梯子から落ちそうになったが、たまたま通りがかった執事のアラン様がとっさに支えてくれて転落しないで済んだ。
「大丈夫ですか、マリーさん」
アラン様は片手で軽々と私を支えてくれているが、眉間にはシワが寄り、表情はいつものクールなままである。仕事を増やして迷惑をかけてしまったことにハッとして、慌てて床に降り立った。
「すみません、アラン様。考え事をしていたら足を滑らせてしまいました」
「あなたが働き者なのは知っていますが、休息も大切ですよ。身体を大事にしてください」
「はい。最後まできちんと勤め上げられるよう、体調管理を徹底します」
「……?」
アラン様は小首をかしげて見事な銀色の瞳を細めたけれど、私には取り繕う余裕がなかった。
手早く梯子を脇に抱えると、「失礼します」と言って逃げるようにその場を離れたのだった。
それから数日、私はほとんど誰とも話さないで悩み続けた。
公爵ご夫妻のお考えは理解できる。無駄にお金を使うことはよくない。人員の整理は合理的だ。
一度は自分のクビを受け入れる覚悟だったが、でもやっぱり、アイリスお嬢様との思い出が詰まったこのお屋敷を離れるのは辛い。
お嬢様は、恐れ多いことを承知で言わせていただくと妹のような存在だ。家で末っ子だった私は本当の妹のようにアイリス様のお世話をさせていただき、そしてアイリス様も私に懐いてくださった……と思う。ご結婚なさる前後も恋のお話をたくさん聞かせてくださったし、お式で使った大切なブーケを私に下賜してくださった。
もうアイリス様は子供ではないが、それでもやはり心配になってしまう。悩みを抱えたときはお力になりたいし、幸せに暮らすお姿を自分の目で確かめ続けたい。
(――やっぱりクビなんて嫌だわ。どうにかしてお屋敷に残れる方法を考えないと!)
そうして悩み続け、私はある一つの画期的な結論を導き出したのである。
「そうだわ! 私が乳母を兼ねればいいのよ!」
自分も妊娠して子供を産めば乳母として仕事を続けられる。
もともと子供は大好きだ。仕事一筋で行き遅れているという状況ではあるが、いつかは自分も子供を産んで家庭を持ちたいという夢は胸の奥に抱き続けていた。
(仕事に必死で後回しにしてきたけれど、今がそのタイミングね)
問題は誰とするかということだ。
マリー・アンジェル二十八歳。
貴族令嬢としては立派な行き遅れで、実家の子爵家は貧乏子沢山で旨味のない末端貴族。
学園で同級生だった子たちを頭に浮かべてみるが、皆二十歳になる前にすべからく結婚してしまっている。
私は思わず頭を抱えた。
(困ったわ。あてがないとなると、誰かに紹介してもらうとか……?)
仕事で困ったことがあったなら、筆頭執事のアラン様を頼れば的確に指示をいただけたけれど。
やる気と根性だけが取り柄で容姿も平凡だということは自分でも理解している。そんな行き遅れ部下の縁談の世話など、ただでさえ多忙なアラン様もお嫌だろう。
(そうなると、うーん……。……あっ! クリスティナがいたわ!)
学園で仲良くしていた女友達をもう一人思い出した。
クリスティナは生徒ではなく食堂で働いていた平民だ。仲良くなったきっかけこそ思い出せないが、彼女のウイットに富んだ話が面白く、放課後よく二人で街に出て遊んだ仲だ。
成人になるとクリスティナはもっと稼げる仕事に就くと言って食堂を辞めていった。その後も時折手紙のやり取りをしていたが、自分も公爵家に就職して互いに忙しくなり、今は年に一度年始の挨拶を送る程度のやり取りが続いている。
「たしか同じ王都に住んでいたはず」
引き出しから手紙を引っ張り出し、改めて差し出しの住所を確認すると、やはり王都のアドレスが書かれていた。
「よかった、それほど遠くない区画だわ。次の休日にさっそく訪ねましょう」
そして訪れた次の休みの日。
クリスティナの手紙の差し出しの住所に向かうと、そこにはドドンッと大きな娼館が建っていた。
きらびやかな館は別世界のようで、見上げると胸がドキドキとして圧倒される。
「……知ってはいたけど、ここに来るのは初めてね」
そう。クリスティナは成り上がりを夢見ていて、自ら進んで娼婦になったのだ。
私には想像もつかない世界に飛び込んでいった友達。辛くないのか心配だったが、彼女の手紙から伝わってきたのは弱音ではなく、花の道で一番になるという強い決意だった。
それからは私もその夢を一緒に応援し、ナンバーワンに上り詰めたと報告があったときはすごく嬉しくて誇らしい気持ちになって、お祝いの品を送ったのだっけ。
入口で名前を伝え、クリスティナへの取り次ぎを伝える。
夜に仕事をしていることを考慮して昼過ぎに来てみたが、もしかしたらまだ就寝中だろうか。
気を揉みながら待っていると、「お部屋まで案内します」とボーイが戻ってきた。
「マリー! 久しぶり! 元気そうね!」
「クリスティナも変わりなくて安心したわ。すっごく綺麗ね! さすがナンバーワンだわ!」
数年ぶりにハグを交わし、近況などを報告し合う。
そしていよいよ本題に移り、いい男性がいれば紹介してほしいことを伝える。
クリスティナは黒曜石のように黒々とした目を見開き、長い睫毛をパチパチと瞬かせた。
「ようやくマリーも結婚を意識するようになったかと思ったら。種だけほしいって大胆なのね」
「ち、違うわクリスティナ。さすがにそれは子供に対して申し訳ないもの。私のことは好きにならなくて構わないから、結婚して子供を授けてくれる人を探しているの。父親として役割を果たしてくれたら言うことないわ」
「うーん。種だけならたくさん紹介できる男がいるんだけどね。顔がいい男、頭がきれる男、閨がうまい男。よりどりみどりだけども、責任を取る男となるとあたしには難しいわね……」
「そう……」
「あなたが探している男は『マトモな男』だもの。娼館じゃなくて、結婚相談所をあたってみなさいな」
「結婚相談所?」
聞いたことのない施設だった。
聞き返すと、クリスティナは呆れたように煙管の煙をフーッと吐いた。
「仕事一筋でお屋敷から出ないから知らないのね。少し前に、六番街にできたのよ。結婚を希望しているけれど縁に恵まれない人を引き合わせる場所よ。貴族の利用者はほとんどいないだろうけれど、登録できないってわけじゃないから、相手が平民でもいいなら試してみたら?」
「身分にこだわりはないわ」
とにかく一秒でも早く妊娠しなければいけないのだ。
実家は長兄が継ぐし、きょうだいは六人もいるからそのうち一人が平民と結婚しようが両親は気にしないだろう。子供にとって良い父親になってくれさえすれば、身分はなんだって構わない。
「ありがとうクリスティナ。さっそく登録に行ってくる」
「はーい。もし結婚式をするんであれば呼んでよね」
「もちろん! クリスティナは大切な友達だから。じゃ、また手紙書くから!」
入口まで見送りに出てきてくれたクリスティナに手を降ると、彼女も笑顔で振り返してくれた。
◇
結婚相談所に駆け込むと、よほど鬼気迫った表情をしていたのか、受付の上品なマダムが「あらあら。こんなになるまでよく頑張ったわね。もう大丈夫よ」と温かい紅茶を出してくれ、すぐに登録の手続きを進めてくれた。
身分証の提示があり、思ったよりちゃんとしている施設であることに安心する。いちおう子爵の娘だということがわかるとマダムは「あらあら」と二度驚き、奥から大量のお茶菓子を持ってきてくれた。
マダムの目に自分はどう映っているのだろうと一瞬不安がよぎったものの、なりふり構っていられない状況なのは確かなので口をつぐんだ。
「ではマリーさんのプロフィールをもとに相性が良さそうな男性をお調べします。一週間後にまたいらしてね。候補を見ていただいて気に入ればデートの場を設けます。お嫌でなければ何回かデートを重ねていただいて、双方前向きであればご結婚を前提にお付き合いを初めていただく流れになりますからね」
「……えっと。そうしますと、結婚までには最短で三か月くらいはかかる感じでしょうか?」
「よほど順調なカップルですと、そうですねえ。当相談所の平均ですと、一年ほどかけてお相手の方を知っていくことが多いです。やっぱりねえ、こういうところを利用される方は真面目で慎重派だったりするものですから」
「いっ、一年……!?」
声を上ずらせるとマダムが不思議そうな顔を浮かべる。
だめだだめだ。一年後にはお嬢様の子供が生まれている。すでに自分はクビになったあとだ。
一年どころか一か月でも長い。相手を見つけても子供は授かりものだから、少しの時間さえ惜しい。
「……わかりました。では一週間後にまた来ます……」
なんとかそう答えて相談所を出たものの、鉛を背負ったように全身が重たくて、私はドアの前で立ち尽くしていた。
結婚相談所で真面目にやっていたら、いい人とは出会えるかも知れないけれど、お嬢様とは離れ離れになってしまう。
それで自分は幸せになれるんだろうか。
改めて自問自答し、やはり答えが『NO』であると確信する。
それであれば、婚活なんてしないでクビになるまで全身全霊で勤め上げたい。辞めた後においおい考えればいい。中途半端が一番嫌いだった。
私はぐっとこぶしを握り締める。
(……これが最後の手段よ。これでダメだったら、覚悟を決めてクビを受け入れましょう)
私は相談所の隣の建物の影に身を潜めた。
(相談所に入ろうとする男性に結婚を申し込むわ。私の事情をありのままに伝えて、受け入れてもらえないか交渉するしかない!)
まさに捨て身の作戦だった。
優しいマダムと相談所に迷惑をかたくないのでチャンスは一度きりと決める。次に現れた男性に声をかけよう。断られたら、あるいは勇気が出なくて声をかけられなかったら、それが運命だと思って諦めよう。
そうして道路を観察し続けていると、手前の道路で荷物を抱えたお婆さんが転倒した。紙袋からゴロゴロとりんごが転がって道路に広がる。
「あっ、大変!」
馬車道にまでりんごが転がってしまい、お婆さんはあたふたしているが、通行人は面倒そうな顔をして見て見ぬふりをして通り過ぎていく。
助けに行こうと腰を浮かせると、私と反対側の道路の方から男性が駆け寄ってきてお婆さんに声をかけた。
男性はお婆さんを近くのベンチに座らせると素早い身のこなしでりんごを拾う。車道に出てしまったものも慣れた手つきで通行中の馬車を停止させ、あっという間に拾い集めた。
お婆さんは背中を丸めて感謝を伝え、りんごを一つ差し出したが、男性はスマートに断って何事もなかったかのように再び歩き出した。
(優しい方ね。見事だったわ)
この人はきっと仕事でも無駄なく動き、仲間を助け、優秀な成果を出しているに違いない。知りもしないのにそう思ってしまうほど見事な動きだった。
出る幕がなかった私は再び壁の影に戻り、ひょこっと顔を出す。
するとその男性が道路を渡り、相談所の方向へやってくるではないか。
さっきは遠くてよく見えなかったが、ハリのあるシャツとスラックスを着こなし清潔感がある。背筋もピンと伸びてしゃんとしているし、引き締まった身体つきは健康そうだ。
顔だけは長めの前髪が邪魔をしてよく見えないが、薄い唇とシャープな顎からは整っていそうな雰囲気が出ている。
こんな人でも相談所を利用するのが意外だったが、きっと人それぞれ事情があるのだろう。……私みたいに。
(あの方に声をかけるわ。誠心誠意説明して、なんとか理解してもらえますように!)
ごくりと唾を呑む。
足にぐっと力を込め、男性が相談所のロータリーに入ってきたところで勢いよく飛び出した。
「私と結婚してください! できれば早めに子供がほしいですっ!!」
◇
「……マリーさんではないですか?」
聞き覚えのある声で名前を呼ばれ、私は弾かれたように顔を上げた。
うすうす感じていた嫌な予感は的中し、目に前には困惑の表情を浮かべた上司が立っていた。
「あ、アラン様……!?」
疑問系になってしまったのは、普段お屋敷で目にする姿とはあまりに違うからだ。
仕事中は執事服を着て前髪をきちっと分けているから、私服で前髪をおろしているとまるで別人である。アラン様は三十二歳だと聞いたことがあるが、今の風貌だと二十代半ばほどに見えた。
そうと知って見ていれば背格好や雰囲気で気づけたかもしれないが、いまや後の祭り。上司にとんでもない申し出をしてしまったことに気がついて背筋に震えが走る。
「あの……その……。すみません、今のは忘れてくださいっ! 大変失礼しましたっ!」
いたたまれなくなって去ろうとした私をアラン様は引き止めた。
「……マリーさんにも事情があるんでしょう。僕で良ければ話を聞きますから、ひとまず場所を変えましょう」
アラン様は呆れた様子を見せるわけでもなく、さっきお婆さんを助けたように、紳士的に近くの公園にエスコートしてくれた。
私服ということはアラン様もお休みだったはずなのに。そんな貴重な日に手を煩わせてしまい重ねて申し訳ない気持ちになる。
並んでベンチに腰を下ろすと、気まずい沈黙が流れる前に私はすべてを打ち明けてしまうことにした。
このままではクビになってしまうこと。
乳母としてなら屋敷に残れる可能性があること。
そのために結婚を焦っていたこと。
罪を自白する犯人の気持ちってこんな感じなのかな、とどこか他人事のようにも思えた。
失敗して迷惑をかけてしまった今、私の中にあるのは後悔と諦めだけだった。
「――馬鹿なことしたって思う一方で、私にとってお嬢様と公爵家は人生も同然なんです。見苦しくてもやれるだけのことはやりたいと思いました。いつかは自分も家族を持ちたいと思っていたので、それなら今がタイミングだと……」
「……マリーさんの話はわかりました。頑張り屋で思い切りがいいのはあなたの長所ですが、相手が誰でもいいというのは考えものです。世の中にはろくでもない男がいますから、もっと自分のことを大切にしてください」
「……はい」
「あなたが変な男と結婚してしまったら、アイリスお嬢様も悲しまれると思いますよ」
アラン様の諭すような口調はわたしの心に優しく沁み込んでいき、いかに自分が軽率で愚かだったかをじわじわと思い知らされた。
子供にとって良い父親であれば十分だと考えていたけれど、仮に妻を虐げたりたくさん愛人を囲ったりするような性格であったなら、私が夢見ていた素敵な家族とは程遠いものになってしまう。
そのうえお嬢様に私のことで心配をかけるなんて絶対にあってはならないことだ。
私はすっかり気持ちが落ち込んでしまい、打ちのめされたような気分になっていた。
「アラン様まで巻き込んでしまって申し訳ありませんでした。お話を聞いていただいて自分の軽率さを痛いほど感じています。……私はもうお屋敷の寮に帰りますから、アラン様も休日の続きに戻ってください。相談所に行かれようとしてたんですよね?」
ところがアラン様の返事はない。
無視をするような人ではないので不思議に思って隣を向くと、顔にかかるさらさらとした銀髪の隙間からのぞく頬がうっすらと色づいているように見えた。
「アラン様?」
もう一度声をかけると、彼は小さく唇を噛み、ゆっくりと睫毛を持ち上げた。
「俺は、ずっとあなたのことが好きでした」
「えっ」
アラン様の一人称が仕事モードを外れて『俺』になった驚きに重なったのは、まるで信じられない告白だった。
びっくりして端整なお顔を穴があくほど見つめる。
彼はちょっとはにかみを浮かべながらも、真剣な眼差しを私に向けてくれている。
(アラン様はふざけてこういうこと言う人じゃないけれど……何かの間違いとしか思えないわ)
十年前に私が公爵家で働き始めたとき、すでにアラン様は執事として働いていた。それから毎日のように顔を合わせているけれど、会話は仕事のことのみで最低限だ。アラン様は責任のある仕事をたくさん抱えるようになり、いつからか眉間にシワを張り付けるようになった。古株となりつつある私は性格を知っているので彼の心労を密かに気にかけているものの、日が浅い使用人の中にはアラン様を怖い人だと認識している子も多い。
「わ、私たち、仕事以外の話をしたことないですよね? どうしてですか?」
「最初は君の仕事ぶりに惚れたんです」
アラン様は淀みなくまっすぐにおっしゃったけれど、ますます分からない。私より優秀なメイドは他にもいるし、突出したスキルがあるわけでもない。
「そんな。当たり前のことをしているだけで、大したことはしていません」
「当たり前のことを当たり前にできる人間はそう多くありません。面倒だからと自己流でやるようになったり、ついていけずに辞めてしまう使用人を俺は数え切れないほど見てきました」
公爵家の使用人ともなれば高い水準での仕事が求められる。
「使用人の恥は公爵家の恥」だとまとめ役であるアラン様は常々おっしゃり、丁寧に教育をしていたけれど、昔は確かに「向いていないみたい」「きつい」と言って辞める子も多かった。
「君は俺の指導に食らいつき、できるようになるまで何度も練習していましたね。コツを聞きに来たこともありました。そうして業務が一通りできるようになると、次はお嬢様や奥様の好みに合わせてアレンジができるようになりました。それもできるようになると、更に先回りをして皆が快適に過ごせるように業務外のこともやるようになりました。お嬢様の専属メイドに召し抱えられるまでになったのは、間違いなく君の努力によるもので、誇るべきことです」
アラン様の言葉を聞いて、じわっと目の奥が熱くなった。
誰かに認めてもらいたくてやっていたわけではない。私には学園の同級生が持っていたような華々しい才能がないから、地道に頑張ることしかできないのだ。ただ必死だっただけ。
でも、それをしっかり見ていてくれた人がいたなんて。
「働きすぎじゃないかと心配しましたが、君は健康管理さえも徹底していたので、俺は本当に驚いたんです」
私みたいなのはせめて仕事に穴を開けないようにと、確かに健康には人一倍気を使っていた。が、どうしてアラン様がそのことを知っているのだろう。
不思議に思ったものの、そういえばと理由に思い当たった。
早朝お屋敷の周りをランニングしているときや、風邪の予防薬を煎じているときに、「何をしているのですか?」とアラン様に声をかけられたことがあったっけ。
不審に思われているのかと慌てて「健康のためにやってるんです! 一日でも長くお仕えしたいので!」と早口で説明したあと、あろうことか私は激マズの煎じ薬をアラン様にも一包押し付けたのだ。
指先で袋をつまんでものすごく疑わしい顔をしていたアラン様だったけれど、優しいのでそのまま持ち帰ってくれた。飲んだのかどうかまでは知らないが、翌年以降、私が薬を煎じているとどこからかアラン様も現れて飲んでいくようになったっけ。
「君が生き生きと働いてくれるから使用人たちの雰囲気も明るくなりました。俺が怖くて心が折れてしまった者をフォローして、別の仕事を割り当ててくれていたことも知っています。いつの間にか君の仕事ではなくて、君自身を目で追うようになっていたんです」
アラン様の耳の端は赤くなっていて、私まで顔が熱くなってくる。
「今日は君の誕生日でしょう。俺も休みを取って一緒に外出に誘うつもりでした。いえ、気持ちを伝えるのは時間をかけて距離を縮めたあとにしようと思っていましたが。ところが朝女子寮に行くと、もう出かけたあとだと。……恥ずかしながら、男と出かけたのではないかとどうしても気になってしまって、メイドたちに外出先を訊ねました。店の名前を聞いてそこに行くと、その、そういう店で驚いたのですが、受付で事情を話すとクリスティナさんが降りてきてくださいました。相談所に向かったことを知り、急いで追いかけたところだったんです」
「そうだったんですね」
誕生日だったことも忘れていたし、アラン様が私を誘おうとしてくれていたことも今聞くまで青天の霹靂だった。
まるで実感がわかなくてふわふわした気持ちでいると、アラン様はふっと恥ずかしそうに微笑んだ。
「誰かのものになってしまう前にこうして話せてよかったです。俺はマリーさんが好きなのだと改めて実感しました」
一言一言丁寧に紡がれる言葉に、優しく細められる瞳。
誠実な人柄が溢れ出していて、私の身体はぜんぶが心臓になってしまったみたいにドキドキと脈打っていた。
公園の木々の向こうには溶けるような夕陽が広がっている。
これは夢なのではないかと思えるくらい非現実的で、頭がぼうっとしてきたけれど、アラン様が私の頬に優しく触れる感触で意識を引き戻される。
「マリーさん。俺と結婚してください。必ず大切にして、幸せにすると誓います」
「アラン様……」
――この胸の高鳴りが恋なのか、今の私にはわからない。
でも、今胸の中に芽吹いている気持ちを大切に育んでいけば、きっと私たちは温かい家族になれる。
そんな揺るぎない確信を持てた瞬間、自然と頬がほころんで、彼の大きな手に自分の手を重ねていた。
「ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
◇
翌日、公爵ご夫妻とお嬢様に婚約の報告をしに行くと、御三方は満面の笑みを浮かべてこうおっしゃられた。
「ようやくくっついたのね。おめでたいこと続きで嬉しいわ」
「いつアランが動くんだろうとやきもきしていたよ」
「おめでとうマリー! お似合いだと思っていたわ」
「……ようやく、というのはどういう意味でしょうか?」
アラン様が特に突っ込まないので私が代わりにお訊ねすると、奥様はウフフと口元に手を当てた。
「アランがマリーを好いていることは屋敷中が知っているわよ。まったくマリー、あなたは仕事一筋で鈍感なんだから。アイリスのために尽くしてくれて感謝しているけれど、そろそろ自分の幸せも考えなさいな」
そ、そうだったの?
動揺した私は旦那様やお嬢様、部屋に控えるほかの使用人たちを交互に眺めた。
みんなまったく同じ神様のように穏やかな笑顔を浮かべていて、奥様の話は本当なのだと察しがついた。
当のアラン様も屋敷の中では見たことがないような蕩けた表情で私を見つめている。ううっ、なんだかすごく恥ずかしい。
とはいえ、これで私は近いうちにアラン様の妻となる。皆からお祝いされて気が抜けた私はついポロっと本心を漏らしてしまった。
「よかった。これでクビにならずに済むわ」
「……クビって、何の話かしら?」
「わわっ」
慌てて口元を抑えるがもう遅い。
奥様が小首を傾げ、旦那様が私を見つめ、お嬢様が「どういうこと?」と悲しそうに眉を下げたため、私は説明せざるを得なくなった。
「……申し訳ございません。先日公爵様のお部屋の前の廊下の照明を掃除していた際に、お話声を聞いてしまいました」
「そんな話をした覚えはないけれど? そうよねあなた?」
「ああ。マリーの働きぶりにはいつも感心しているくらいだ」
何かが変だと思いつつも私は正直に答えた。
「途切れ途切れではありましたが、マリーですとかクビ、乳母を探すという言葉が聞こえました」
「……乳母を探す? もしかして、
公爵様が指摘すると、奥様は「ああ、そういうことだったのね!」と納得した表情を浮かべた。
「誤解よマリー。あのね、あたくしたちは贈り物の話をしていたの。ほら、もし男の子が生まれたら馬を贈る習慣があるでしょう。それで、気の早い話ではあるけれど、『あ
「そ、そうだったのですか。申し訳ございません。私の早とちりでした」
なんと、すべては私の聞き間違いだったのだ。
断片だけ拾い上げてパニックになってしまい、自分はもうクビなのだと思い込んでしまった。冷静に後の文脈も確かめていれば誤解だとすぐに分かったはずなのに。
もう二十八といういい年になのに、定期的にこういう先走ったミスをやらかしてしまう。
情けなくてうなだれていると、ふわりといい香りがした。
「マリーをクビになんてしたら、いくらお父様とお母様でも許さないわ!」
なんとお嬢様が私の隣に来てハグしてくださっていた。
なにに代えてもお守りすると決めたお嬢様に自分が守られるという事態。胸の中では嬉しさと不甲斐なさがないまぜになっていた。
公爵ご夫妻はそんな一人娘の行動にほほえましいお顔を浮かべていらっしゃる。
「ははは。もちろんだ。マリーがここで働いてくれるという限り、私たちから辞めてもらうことはないよ」
「そうよ。こんなに信頼できるメイドは他にいないもの。乳母は別で雇うに決まっているじゃない」
「マリー。これからも側にいてね。あなたはお姉さまのようでもあり、一番の親友なのよ」
「もったいないお言葉、身に余る光栄でございます」
いつの間にかアラン様も私の肩をそっと支えていてくださっている。
私はこんなにも温かい方々にこれからもお仕えできること、妻となれる幸せを改めて噛み締めながら、深々と頭を下げたのだった。
◇
そんな一騒動があったおよそ一年後、お嬢様は無事に元気な男の子を出産なさった。予定日をかなり過ぎたとあって、まるまると大きく玉のような赤ちゃんだった。
母子ともに健康ということをアラン様から聞いて、私は大きく胸をなでおろした。
「お嬢様が大変なときにお側にいられなくて申し訳ないわ」
「予定日はマリーが産休に入る前だったのですから気にすることはありません。それより今は自分の身体を大切にするときです。アイリス様も、ご自分のお子様と俺たちの子供を一緒に遊ばせるのをそれは楽しみにしていましたよ」
アラン様は私の頬にそっと口づけると、愛おしそうに私の膨らんだお腹を撫でた。
私たちは結婚してまもなく新しい命を授かっていた。
クビ問題が解決したので子供は急がなくてもいいと思っていたのだけれど、アラン様が十年近く溜め込んでくれていた愛情は私の想像以上に深いもので、お嬢様のあとを追うようにして懐妊となった。
年の離れたお兄様しかいないアラン様は賑やかな家族に憧れていたそうで、二人、三人と子供が増えたときでも快適に暮らせる家を屋敷の近くに購入し、産休に入ったタイミングで私は寮から引っ越したのだった。
「不思議だわ。一年前のあのときは何一つ上手くいかなかったのに、今はすべてが丸く収まっているのだもの」
そう。私は無事に出産を終えしだい、お嬢様のお子様の乳母を務めることになっていた。
「マリーが乳母なら何も心配いらないわ」と公爵家満場一致での決定だったと聞いている。
自分の子供とお嬢様の子供が幼馴染になれるなんて夢に見た世界である。
「何一つだなんて。俺と結婚したこともですか?」
すねたようにアラン様が私の肩に頭をもたれかける。とはいっても一切重みを感じないところに彼の優しさを感じるのだけど。
あの日アラン様に告白されて胸の中に芽吹いた気持ちは日に日に大きくなって、今では大輪の花を咲かせている。こんな私を奥さんにしてくれて、そしてもうすぐお母さんにしてくれることには感謝しかない。
彼の絹糸のように繊細で美しい銀髪をそっと撫でながら、私は懐かしい気持ちになる。
「あのとき顔を見ないで結婚を申し込んでよかったです。アラン様だとわかっていたら、声をかけませんでした」
「そしたら、君はどうしていたの?」
「声をかけるチャンスは失敗なしの一度きりと決めていました。私は寮に帰って、クビになる覚悟を決めていたと思います」
「そうですか。じゃあ、どちらにしろ俺を選んでくれていたのかもしれませんね?」
遅かれ早かれアラン様は私に気持ちを伝えるつもりでいてくれたようだから、言われてみればそういうことになったのかもしれない。
雲の上の存在だと思っていたアラン様だったけれど、人生ってわからないものだ。
「アラン様。ありがとうございます。愛しています」
素直な気持ちを伝えると、アラン様は驚いたように澄んだ銀色の瞳を見開いて、すぐにはにかみながら破顔した。
このはにかんだクールさが残る笑顔も私が大好きな表情の一つだ。
「ありがとう、マリー。俺も愛しています」
一年前には想像もつかなかった幸せな日々。
一年後も、今の私には想像できないくらい幸せな毎日が待っているだろう。
確かな予感を抱きながら、私はありったけの愛を込めてアラン様に口づけたのだった。
(了)
顔を見ずに結婚を申し込んだら、職場の上司(クールな執事様)だった件 @Yuzukigumi
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