第2話 フェンリルとの死闘

 昼間だというのに、森はひどく薄暗かった。高く伸びた樹々の枝葉が空を覆い、わずかな陽光すら遮っている。湿った土と獣の気配が濃く、鼻を突くようなけもの臭が漂っていた。


 ハンスは慎重に足を運びながら、山のふもとに口を開けた洞窟へと近づいていった。そこが、最初の洞窟だった。老婆から託された地図と、奇妙な布切れ一枚を頼りに、ここまでやってきたのだ。


 洞窟の前に立ち、耳を澄ます。森のざわめきが止んだかのように、しんと静まり返っていた。


 次の瞬間――洞窟の闇から、巨大な白い影がぬっと姿を現した。

 全身を覆う毛並みは雪のように白く、瞳は氷の刃を思わせる蒼。牙はナイフのようだ。


「……フェンリル」


 その名を呟いた瞬間、空気がさらに張り詰める。伝承の獣――人を喰らい、神々ですら恐れたという狼が、目の前にいる。


 ハンスは背の袋から、途中で仕留めておいた兎の死骸を取り出し、獣の方へ投げた。

 フェンリルは鼻を鳴らし、一息に飲み込む。その口は大きく開き、兎などすぐに消えていった。


 しかし、餌を与えたところで懐く気配はない。犬のように尻尾を振るわけもなく、むしろ逆に低い唸り声をあげ、牙を剥きながらじりじりと迫ってくる。


 ハンスの額に汗がにじむ。

 彼は覚悟を決め、腰に差していた布――老婆から渡された「魔法の布」を手に取った。これを用いれば、魔獣の力を抑えられる。だが失敗すれば、命はない。


 突然、視界から白い巨体が消えた。


「――っ!」


 反射的に右へ飛ぶ。風を切る音とともに、鋭い牙が背後を掠めた。すかさず布を放り投げるように広げ、影の中へかぶせる。


 獣の身体が布に包まれ、もぞもぞとうごめいた。怒りと困惑の唸りが洞窟前に響き渡る。しかし次の瞬間――布の中からひょっこりと顔を出したのは、つぶらな瞳をした小さな白い子犬だった。


 尻尾をぶんぶん振り、まるで遊んでほしそうに跳ね回っている。


「……成功、したのか」


 安堵した瞬間、不意に左足に激痛が走った。

 倒れ込むと、ふくらはぎから鮮血が溢れている。どうやら変化の直前に噛まれていたらしい。慌ててかばんから布切れを取り出し、止血しようとしたその時――


 子犬がぺたりと舌を伸ばし、傷口を舐めた。


「やめろ、汚れる……っ」


 だが、驚くべきことに痛みがすっと引いていく。血も止まり、肉が塞がっていくのがわかった。信じられない光景に、ハンスは息を呑む。


「癒やしの力……?」


 子犬はきょとんとした顔で見上げ、また尻尾を振った。


 洞窟の奥に、小さな火打箱と銅貨の入った木箱が置かれていた。火打箱を開けてみると、中には丸い火打石が二つ収められており、それぞれの表面には精緻な魔法陣が刻まれていた。


 その夜、ハンスは洞窟の奥で焚火を起こした。炎に照らされる子犬は丸まって眠っている。まだ警戒は必要だが、この小さな姿を見ると、かつての恐ろしい巨獣とは思えなかった。


 ふと子犬の体を撫でると、温かな体温が掌に伝わってくる。彼女は女の子だった。


「……アッダ。今日からお前はアッダだ」


 ハンスは静かに名を呼んだ。子犬――いや、かつてフェンリルであった存在は、耳をぴんと立て、嬉しそうに一声鳴いた。


 こうして、奇妙な旅の相棒が生まれたのだった。

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