第5話 氷と桜、黄昏の邂逅


 夕刻。

茜色のグラデーションが空を覆う頃、蓮花は訓練場に続く渡り廊下で巡回任務を続けていた。


 眼下の中庭には、夕陽を反射して黄金色に輝く甲冑の聖騎士たちと、濃紺の着物に刀を携えた侍たちが入り混じっている。


(……本当に、ここは侍の国でも騎士の国でもないんだ。両方が並び立ってる)


 そんな感慨に浸っていた蓮花だったが、次の瞬間、背筋に冷たいものが走った。

 

 ──ピリッ。

肌を刺すような、物理的な痛みを伴うほどの殺気。

右からは、絶対零度の氷河のような冷気。

左からは、静電気を帯びた雷雲のような重圧。

 相反する二つの巨大な気配が、角を曲がった先で衝突しようとしていた。

蓮花は息を殺し、そっと壁の陰から様子を伺う。

そこにいたのは、二人の女性。


 氷の聖騎士団長、エル・ケレウス。

 桜嵐一閃流師範代、カエデ・ソメイ。


 二人はただ回廊ですれ違おうとして、足を止めただけだ。武器も構えていない。

だというのに、二人の間の空間だけ重力が歪み、蜃気楼のように揺らいで見える。


(な、何この空気……! 近寄れない……!)


 蓮花が冷や汗を流し、身動きが取れなくなる中、カエデの背後では場違いなほど呑気な声が響いていた。


「姉さん! ねえっ姉さんってば! 今日の夜ご飯、城内の特別食堂で食べれるん?

あの『特製・赤ワイン煮込み』! また食べたいんよさ! 肉、肉ーっ!」


リシャだけは、いつも通りだった。

一触即発の空気などどこ吹く風、無邪気にカエデの着物の袖を引っ張っている。


(リシャさん……空気読んで……! 今にも斬り合いが始まりそうなのに!)


「……あなたが、桜嵐一閃流の師範代、カエデ・ソメイ」


先に口を開いたのはエルだった。

氷のように冷たく、しかし美しい声。

カエデは静かに一礼し、表情一つ変えずに答える。


「はい。祖父ツルギの名代として参りました。聖騎士団長、エル・ケレウス殿。お噂はかねがね」


 互いに礼節は尽くしている。

だが、その言葉の裏には決して交わらぬ信念の火花が散っていた。エルは涼しげな瞳を細める。


「先程、城門警備の侍と親しげに話していたわね。……あれは貴女の“弟子”か何か?」


エルの質問は刺すように鋭かった。

蓮花はビクリと肩を震わせる。


「いいえ。ただの偶然の縁です。ですが──良い目と、良い体幹をした子でした」

「……ふん。魔力の欠片もない者に、よく言うわね」


蓮花の名前こそ出さなかったが、何を言っているかは明白だった。

カエデの眉が、わずかに動く。周囲の大気がバチリと音を立てた気がした。


「魔力の多寡(たか)で剣の価値を決める……それが聖騎士団のものさしですか?」

「事実よ。魔力のない剣士など、上級魔獣の前では砂塵同然。

 “あなた方のような”前時代的な東方武術は、魔法文明においては骨董品(アンティーク)に過ぎないわ」


 蓮花は息を飲んだ。

面と向かって流派を愚弄されたのだ。

だが、カエデは微動だにしなかった。

ただ、その青い瞳に静かな雷光を宿して言い返す。


「骨董品であろうと──刃が届くなら、それで十分です」

柔らかな声だが、その奥底には揺るぎない芯があった。

「聖騎士団長。魔力が使えぬなら、魔力を持つ者を斬れない……というわけではありませんよ?」


エルの長いまつ毛が、僅かに震えた。

その瞬間だけ、氷の仮面の下にある激情が揺らいだように見えた。

エルの手が、無意識に魔剣の柄に触れる。カエデの親指が、鯉口を切る構えを見せる。


「……興味深いわね。では、ここで少し“力比べ”でもしてみる?」


 キィィィン……。

二人が動いたわけではない。だが、蓮花の耳には幻聴のような鋭い金属音が聞こえた。

廊下の窓ガラスに、ビシッと亀裂が入る。


(だ、ダメ! この二人がここで本気になったら……城が壊れる!)


蓮花が思わず飛び出そうとした、その時。


「やーめやめ! ここでやったら床が抜けるし、私の晩ご飯がなくなるんよさ!」


パンッ! と乾いた破裂音が響いた。

リシャが二人の間に割り込み、強引に両手を打ち鳴らして「気」の流れを断ち切ったのだ。


「だいたい、二人とも顔が怖いんよ!

姉さんはもっと柔らかく笑ったほうが美人だし、エルさんはたぶん怒ってると肩こるタイプなんよ!」 


「リシャ……控えなさい」

カエデが呆れたように殺気を解く。

対するエルは、虚を突かれたように瞬きをした。


「…………肩は、こらないわ」

 ボソリと、エルが真顔で反応した。


(は、反応するんだ……!)

蓮花は思わずズッコケそうになる。


だが、そのリシャの突飛な一言で、張り詰めていた臨界点は霧散していた。

リシャは「天然」を装っているが、絶妙なタイミングでの介入。

やはり彼女もまた、達人なのだ。

リシャは満面の笑みで、エルとカエデの手を強引に握る。


「ね、ね、今日はさ! 交流会でも開けばいいんよ!

美味しいご飯食べて、侍と騎士の文化、もっと仲良くしていくべきなんよさ!それが平和への第一歩なんさ!」


「リシャ。私は別に──」


「やるのよさ! 決まりなんよさ! さあ食堂へ行くのよさー!」


天真爛漫というより、もはや局地的な暴風。

氷と桜の衝突を、リシャという嵐が理不尽にかき消していく。

エルは抵抗を諦めたのか、小さく息を吐いた。


「……あなたの妹、随分と賑やかね」

「はい。手が焼けるほどに。……ですが、場を和ませる才能だけは、私以上です」


 カエデは苦笑し、リシャの頭をポンと軽く撫でた。

そのままリシャに連れられ、カエデたちは食堂の方へと歩き出した。

エルもまた、ため息交じりに執務室へと戻ろうとする。

そのすれ違いざま。

エルが、柱の陰に隠れていた蓮花に気づき、足を止めた。


「……そこにいたのね」


蓮花はビクリとして直立不動になる。

エルは蓮花を一瞥し、誰にも聞こえないほどの小声で告げた。


「……あなた、運が良かったわね。

あの師範代、強いわよ。魔力反応がないのに、背筋が凍るような『死』の匂いがした」


蓮花は驚いて顔を上げた。

あのプライドの高いエルが、他人を──しかも魔力のない侍を認めるなんて。


「エル様から見ても……ですか?」

「ええ。同族(バケモノ)の匂いがするわ。

……いつか、本当に戦う時が来るかもしれない。……その時は、精々私の邪魔をしないことね」


 エルはそう言い捨て、冷たい香水の香りと共に去っていった。

だがその声色は、最初に出会った時のような「無関心」ではなく、ほんの少しだけ「警告(アドバイス)」の色を帯びていた。

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風と桜の境界譚 氷室 常硯 @shinoyuri

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