風と桜の境界譚

氷室 常硯

第1話 山風の少女、城へ

 

 山間の朝霧は深い。

鳥のさえずりさえ湿った大気に吸い込まれていくような静寂の中、少女の吐く

息だけが白く形をつくっては消えていた。


風間 蓮花(かざま れんか)、十五歳。

深い濃紺の袴に身を包み、腰には父の形見である無骨な打刀を差している。

背の布に染め抜かれた家紋が、山頂を吹き抜ける風にひらりと翻った。


(──集中)

蓮花はそっと目を閉じ、視覚を捨てて森のざわめきに意識を沈める。

肌を撫でる冷気、土の匂い、葉擦れの音。


魔力探知などできない。だからこそ、五感を研ぎ澄ます。


『影風流(かげかぜりゅう)の剣は風の如く在れ。目ではなく、肌で感じ、

影となって穿(うが)つべし』


 ──父の教えが、脳裏に蘇る。

 

 ヒュッ。

大気が揺らぎ、数枚の木の葉が頭上から舞い落ちてくる。

 カッ!

 蓮花が動いた。

抜刀の音すら置き去りにする神速の一閃。

宙を舞う木の葉は、その軌道を認識されるよりも早く、鮮やかに両断されていた。

 だが、動きは止まらない。


「……っ!」

着地と同時に懐へ手を伸ばし、三枚の手裏剣を指の間に挟む。

流れるような投擲。

 

 シュッ…キンッ キンッ キンッ

十メートル先の杉の幹。刻まれた三つの的、それぞれの中心に深々と刃が

突き立つ。

侍の剣術と、忍の隠密術。

相反する二つの型を一つに昇華した古流──影風流。

しかし、試練は終わらない。

蓮花が微かな殺気(気配)に眉をひそめた刹那、仕掛けられた縄が弾け飛び、

巨大な丸太が振り子のように襲いかかった。


(正面から受ければ、刀が折れる……!)

魔力強化(ブースト)を使える騎士なら叩き斬るだろう。

魔法使いなら燃やすだろう。

だが、蓮花にはそのどちらもない。

ゆえに──彼女は迷いなく腰のポーチから黒い球体を取り出し、足元へ叩きつけた。

 

 ボンッ!

爆ぜる白煙が視界を覆い隠す。

丸太がその白闇を突き抜けた時には、もう蓮花の姿はそこにはない。

煙が晴れるより早く、彼女は頭上の太枝へと飛び移っていた。


「影風流──烈風刃(れっぷうじん)!」

高所からの落下速度を乗せた、強烈な一撃。

 

 ズンッ──!

重い破断音が静寂を破る。

真っ二つにされた丸太が、鈍い音を立てて左右に転がった。


 残心。

刀身についた木屑を払い、静かに鞘へ納める。

カチン──澄んだ音が鳴り、張りつめた空気がようやく緩んだ。

「ふぅ……。少し、踏み込みが浅かったかな」

額の汗を拭い、蓮花は小さく息をつく。

まだまだ無駄が多い。もっと速く、もっと静かに。

里のみんなを守るには、父のような強さには、まだ遠い。

そう独りごちた、その時だった。


「──見事だ」

野太い称賛の声が、霧の奥から響いた。

蓮花は弾かれたように振り返り、反射的に柄へ手をかける。

だが、霧の中から現れた姿を認めると目を見開き、慌てて姿勢を正した。

「そ、祖父様!? ……それに、その方は……」

杖をつく祖父の傍らに、一人の男が立っていた。

鋭い眼光に、腰には大小の刀。その身から滲む、百戦錬磨の気配。

胸の紋章を見れば、王都の『城主直属侍隊』の隊長格であることは一目で分かる。

男は、両断された丸太と、的を射抜いた手裏剣を交互に見つめ、感嘆の息を漏らした。


「魔力強化を一切使わず、純粋な身体操作のみでこれほどの威力を出すか。

剣の冴え、体術、暗器、隠密……すべてが高い次元でまとまっている」

男はゆっくりと蓮花に向き直る。

「風間 蓮花と言ったな」

「は、はい!」

「我々は今、王都を守るための“新しい風”を探している。

魔力に頼った騎士や魔術師ではない。技と胆力で、裏から戦局を支える『本物』をだ」


男の鋭い視線が、蓮花を射抜く。

「魔力を持たぬがゆえに極限まで研ぎ澄まされたその牙──城主直属侍隊(遊撃班)に欲しく思う。どうだ。我らと共に、王都へ来ぬか?」

蓮花は息を呑んだ。


 侍隊への入隊。

それは亡き父が果たせなかった夢であり、蓮花自身が幼い頃から焦がれた場所。

しかし同時に、生まれ育った里を離れる寂しさが胸をかすめる。

蓮花は、隣に立つ祖父へ視線を向けた。

祖父は何も言わず、ただ静かに、深く一度頷く。

その目は──「行け。お前の道は、ここには収まらない」と語っていた。

(私は……もっと広い世界を知りたい。そして、多くの人を守れる力が欲しい)

迷いは、朝霧と共に消えた。

蓮花は隊長をまっすぐ見据え、深々と頭を下げる。


「──謹んで、お受けいたします。

 この風間蓮花、命に代えても王都の盾となりましょう」


 雲間から陽が差し込み、木漏れ日が蓮花の青い髪を鮮やかに照らす。

山里の小さな剣士が、歴史の影で語り継がれる物語の舞台へ

 ──その第一歩を踏み出した瞬間だった。

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