04-2


 わたなはそこで考えるのをやめた。だからわたなは笑顔を作った。


「楽しいです」


 すると、わたなの表情を見ていた判場が、不可解そうに首をかしげた。


「……そうでもなさそうだが」


 わたなは少し驚いた。


「いや、そんなことは……」


 そんなに表情に出ていただろうか。それとも、この人が特別察しやすいだけか、わたなの動揺をさらに見て取ったのか、判場は心配そうに尋ねる。


「何か学校に問題があったりしたか? 何か言われたとか? 何か嫌なことがあったんなら……」


 とんでもない勘違いを生んでいそうだったので、わたなは慌てて訂正した。


「ああ、そういうんじゃないんです、ただ単に、なんかつまんないなってだけです。友達もいるし、勉強もできてるし、いじめとかもないです。けどただ、なんか違うなって思うことがあるってだけで……ほら、よくある話じゃないですか?」

「ああ、なるほどな」


 そう説明すると、判場は納得して軽くうなずいた。

 こうやって言葉にしてみると、わたなはますますそれが普通のことに思えてきて、そういう思春期じみたことを自分の口から説明させられていることが恥ずかしくなってくる。


「だから、別にそういう感じの話じゃないんです。心配させてすみません」

「いや、俺こそ早とちりしてすまなかった」

「いや、謝ることじゃ……」


 微妙な雰囲気が流れる。ちょっとした間が開いたあと、何を思ったのか、判場が意外な言葉をこぼした。


「……俺は高校に行ったことがない」


 何の話だろうかと思って、そのまま聞き返した。


「え、そうなんですか?」


 判場は言った。


「中学の途中で商売にハマった。机に座っているのが馬鹿らしくなって、行かなくなったんだ」


 なんというか、わたなの中で、イメージと実態がピタリとハマる音がした。さっき服に詳しいとか言っていたが、やっぱり何か事業をやっているのだろう。


「商売? どういうのですか? 服に詳しいって言ってましたけど……」


 判場はにやりと笑って片目をつむった。


「内緒話をしてやろう。俺がガキの頃、三十年以上前は、信じられないほど低品質な偽ブランド品が、そこらじゅうにあったんだ。知ってるか?」

「まあ、はい。今も場所によっては、よく売ってますよね」

「あんなのかわいいもんだ。靴、服、バッグ……今と違って正規品がどんなものかを知るやつが少なかったから、適当にロゴのワッペンを作って、それを縫い付けてそのブランドのものだって言い張れば、大勢騙せた」

「偽造品を売っていたんですか?」

「いや。さすがに中学生がブランド品を売ってたら誰が見ても怪しいし、警察に捕まったら言い逃れできないからな」

「じゃあ、何を?」

「俺たちが売っていたのは、ブランドロゴのワッペンだ。いろんなブランドのロゴをいろんなパーツに分けて、それを個別に売るんだ。捕まっても『俺たちはただいろんな形のワッペンを売ってただけで、それをロゴに見えるように配置したのはシャツを作ってる奴らだ』って言ってな」

「はあ……すごい経験ですね」


 目の前の男が過去の犯罪の手口を堂々と語っているのに、どういうわけか、咎めたり嫌悪したりする気持ちが全く沸いてこなかった。

つい三十年前の倫理観が今とは遠く離れていたということはもちろんあったが、自分よりも年下の子供でさえもそんなことをしていた時代があったと言われても、ほとんど別世界の話を聞くような感覚しかしなかった。

より端的に言うならば、わたなは目の前の男が生きていた自由な世界を想像して、好奇心をかき立てられていたのだった。

 判場は言った。


「あの頃のこの街で生きるガキの想像力からしてみたら、途方もないほどの金が手に入った。親父は俺に真面目に勉強させようとしていたから何回もぶん殴られたが、結局は家を飛び出して、商売一本で生きることにした。それからいろいろあって、今はこんな家の一つや二つなら軽く貸せるくらいにはなった。だがなぁ……」


 判場はそして、遠くに目をやる。


「それでもたまに、商売をしないで大真面目に勉強してたら、今頃どういう人間になっていたんだろうと思うこともある」

「……でも、それで私はあなたに助けられたんじゃないですか」


 わたながそうフォローすると、判場はふっと笑って首を振った。


「慰めてほしいわけじゃない。人間誰だって、違う自分を夢見ることはあるってことだ。俺は今の生き方が一番俺に合ってると思っているが、それでも別の人生があったんじゃないかって思うことはある。そしてそれは、誰でも考えることだってことだ」


 わたなは思った。つまりはそれがこの男の言いたかったことなのか。わたなの気持ちはやはり普通のことで、誰にでもある衝動で、今に疑問を持つのは良いけれど、どうしたって〝もしも〟を想像することはやめられないんだと。


「……そうですね」


 何かが気勢を削がれたような心地になって、わたなは視線を下ろしたが、判場は続けた。


「自分の今に迷うのは当たり前のことだ。特に十代のころはそうだ。俺はかなり急いで自分の人生を決めちまったが、本当なら子供は、自分がどうなりたいか、どうなれるのかを、不安に邪魔されずにゆっくり考えるべきなんだ。だけど親がいないだとか、金がないだとかで、そんな当たり前のことを考える余裕がなくなった子供もいるわけでな。俺はそういう子らに余裕を作るために、こういう家を作ったりしてるわけだ。もし君がこれからもそうして迷うことができれば、俺は嬉しいね」


 そしてわたなは、自分がちょっとばかり思い違いをしていたことに気付いた。つまり、判場はわたなを肯定したかったらしい。迷うことを当たり前だと言って叱るのではなく、その当たり前を奪われかけたわたなが、また当たり前のことをできることを、そうであるべきだと言いたかったらしい。

 あまりにも立派な判場の言葉。こんな施設を運営する人間は、そんなことを考えているのか。今まで出会ったことのない人間に出会った気がして、わたなは少し感銘を受けていた。

 だが、それはそれとしてわたなには、判場の言葉があまり心に響かなかった。

 なぜだか、微妙に、ほんの少し、的を外している気がした。

 わたなはふと思って、言った。


「私のやりたいことって、何でしょう。私は、どうなりたいんでしょう」

「そう焦らなくても良いと思うが」

「考えたいんです」


 わたなが言うと、判場は質問を並べた。


「趣味はないのか? 欲しいものは? 尊敬する人はいるか?」

「あります。けど、ないです。本当に心が躍るようなことは。これに人生を捧げても良いって思うようなものは。この人のようになりたいって人は。判場さんが商売に出会ったような喜びは、私にはありません」


 判場はそんなわたなをたしなめる。


「ないと言い切るな。まだ出会ってないだけかもしれない。それか、もう出会ってるのに、出会ったことに気づいてないってこともある」


 わたなは首を傾げる。


「気づかないなんてことがあるんですか?」


 判場は肩をすくめた。


「そんなやつばっかりだ。やりたいことがすぐそこにあるのに、そこに進むには今の自分を捨てなきゃいけないなんてとき、人はビビって無意識に見て見ぬふりをするもんだろ」

「……」


 わたなは顔を下げた。



 思った。

 そんなものでいいなら、〝それ〟はずっとそこにある。

 だけど〝それ〟に身を任せたら、私はどうなる?

 今の自分を捨てるどころじゃない。捨てて、〝それ〟を得た後に何も見えない。ただ衝動だけがあって、衝動をどう形にするべきなのかもわかってない。この衝動が私に何を求めているのかも、うまく理解できていないのに。

 そんなの、ただの自殺衝動だ。


 でも。


 わたなは顔を上げた。


「ありがとうございます。ちょっとだけ、モヤモヤが晴れた気がします」


 判馬もここが切り上げ時だと思ったのか、立ち上がった。


「ああ。俺はたまに様子を見に来る。時間があるときには相談にも乗ってる。気楽に声をかけていい」


 わたなは頷いた。


「はい。そのときはよろしくお願いします」


 そして判場はふらりとホームから出て行く。

 わたなは玄関でその背を見送りながら、思った。

 きっとこの人は、ただ若者の人生相談に乗っただけだと思ってるんだろう。

 自分の言った良い言葉が、私の心にどんな時限爆弾を置いていったのかも、わかっていないんだろう。自分の中にある〝それ〟の存在を、これまでよりずっと強く意識させられてしまった私が、どんな気持ちでいるのかもわからないんだろう。

 恩義と怨念。

 その両方が、わたなの心の中にあった。

 わたなは部屋に戻ると、ノートを机に広げ、携帯を手に取った。

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