間取りの傷――前住人の生活が、私の体を乗っ取る

ソコニ

第1話『角の使い方』

 段ボールを積み上げたリビングで、私はコーヒーを啜った。

「灯、本当にありがとう。助かるわ」

 友人の麻衣が笑顔で言う。彼女の新居は駅から徒歩十分、築三年の1LDK。間取り図を見せてもらったとき、私はすぐに動線を頭の中で引いた。玄関からリビング、キッチン、寝室へ。標準的で、無駄のない設計。

「家具の配置、どうしようか迷ってて」

「じゃあ、ちょっと見せて」

 私はインテリアコーディネーターとして独立して五年になる。建築士試験に二度落ちた後、この道を選んだ。図面は読めるが、設計はできない。その中途半端さが、今の仕事には向いていた。

 リビングはすぐに決まった。ソファの位置、テレビボードの向き。麻衣の夫の健太も「さすがプロだね」と感心してくれた。問題は寝室だった。

「ここなんだけど」

 麻衣が角を指差す。窓際の、壁と壁が作る直角の空間。

「ここに何を置いても、なんか……落ち着かないのよね」

「落ち着かない?」

「うまく言えないんだけど。ベッドサイドテーブル置いてみたんだけど、夜になると気になっちゃって」

 私は角に近づいた。採光は問題ない。湿気も感じない。壁紙も新しい。しかし——。

 床に、細かい擦り傷があった。

 私は膝をついて、床を撫でた。フローリングの表面に、無数の浅い傷。一方向ではない。ある種の軌跡を描いている。

「これ、前からあった?」

「え? 何が?」

 麻衣が覗き込む。

「床の傷。ここ、何か引きずってたみたいな……」

「そうなの? 気づかなかった」

 内見のときは気づかなかったのだろう。この部屋は中古だが、リフォーム済みと聞いていた。しかし床の傷は、リフォーム前のものではない。新しい。

「前の住人、どんな人だったか知ってる?」

「不動産屋さんは何も言ってなかったわ。事故物件とかじゃないし」

 私は立ち上がった。

「とりあえず、ここには軽いものを置いたら? 観葉植物とか」

「そうね。それがいいかも」

 麻衣は安心したように笑った。私も笑顔を返した。しかし、胸の奥に引っかかるものがあった。

 その日の夜、私は自宅で間取り図を広げた。麻衣の部屋の図面。角は、図面上では何の変哲もない。ただの直角。しかし、あの傷は何だったのか。

 人は無意識に、空間を「使い分ける」。リビングでは寛ぎ、キッチンでは動き、寝室では休む。その使い方が、床に、壁に、ドアノブに痕跡を残す。それを読むのが、私の仕事だった。

 あの角の傷は、何かを「引きずっていた」痕だ。毎日、同じように。では、何を?

 翌日、麻衣から電話があった。

「灯、ちょっと聞いてほしいことがあって」

「どうしたの?」

「昨日の夜、寝室で変な音がしたの」

「音?」

「角のあたりから。布を引きずるような……」

 私の背筋が冷えた。

「健太も聞いた?」

「ううん。私だけ。気のせいかもしれないけど」

 私は少し考えてから言った。

「今夜、もう一度行ってみてもいい? 家具の配置、ちょっと確認したいこともあるし」

「ありがとう。助かるわ」

 その夜、私は麻衣の部屋を訪れた。健太は出張中で、麻衣も実家に泊まると言っていた。鍵を預かって、一人で入る。

 リビングは静かだった。段ボールはほとんど片付いている。私は寝室に向かった。

 角を見た。観葉植物が置かれている。その下の床を、私は懐中電灯で照らした。傷は、昨日より増えている気がした。

 私は観葉植物をどかして、角に座り込んだ。壁に背中を預ける。ここに、何があったのか。何が、引きずられていたのか。

 そのとき、音が聞こえた。

 壁の向こうから。

 布を引きずるような、擦れる音。

 私は息を止めた。音は遠くから聞こえる。廊下の向こう、隣の部屋——いや、違う。音はもっと近い。壁の、向こう。いや、壁の「内側」から聞こえている。

 音が近づいてくる。ゆっくりと、一定のリズムで。引きずる、止まる、引きずる、止まる。

 私は立ち上がろうとしたが、足が動かなかった。音は、今、壁のすぐ向こうにある。

 私は震える手を伸ばして、壁に触れた。

 その瞬間、音が止まった。

 完全な、静寂。

 私は自分の呼吸音だけを聞いた。荒く、速い。落ち着こう、と自分に言い聞かせる。気のせいだ。配管の音か、隣の部屋の生活音か——。

 そのとき、壁の向こうから、呼吸音が聞こえた。

 私の呼吸と、同じリズムで。

 いや、違う。私の呼吸に、「合わせている」。

 私は息を止めた。しかし、向こうの呼吸は続いている。ゆっくりと、規則正しく。まるで、眠っているように。

 私は壁から手を離した。後ずさる。角から離れる。しかし呼吸音は、まだ聞こえている。壁の向こうで、誰かが眠っている。

 私は寝室を出て、リビングに戻った。震える手で、スマートフォンを取り出す。麻衣に電話するべきか。いや、何と言えばいい。壁の向こうで呼吸が聞こえた、と?

 私は深呼吸をして、もう一度寝室を覗いた。

 角は、何も変わっていない。静かで、何もない空間。ただ、床の傷だけが、月明かりに照らされていた。

 翌朝、私は不動産会社に電話をした。前の住人について、何か情報はないか、と。担当者は少し考えてから答えた。

「特に問題のある方ではなかったですよ。ただ、退去のとき、部屋の角に妙なこだわりがあったとは聞きました」

「こだわり?」

「角に、何も置かないでくれ、と。次の入居者に伝えてくれ、と言われたそうです」

「それ、麻衣さんには伝えてないんですか?」

「いえ、特に契約上の問題ではないので……」

 私は電話を切った。角に、何も置かないでくれ。それはつまり、角を「空けておいてくれ」ということだ。では、何のために?

 私は麻衣の部屋の間取り図を、もう一度見た。角の位置。寝室の、窓際。そこは、ベッドの横。誰かが眠る、すぐ隣。

 前住人が出て行った今も、そこは毎晩使われている。

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