第17話 おバカ貴族と風紀委員長
二人は浴場から姿を現すと、待機していた八人の召使いが素早くその体を拭い、用意されたドレスに袖を通させた。
エディスがバラ園をギロリと見据える。満開の薔薇たちが、まるでこの決戦の場を荘厳に飾るかのように咲き誇っていた。エディスはカサルを連れ、数人の使用人を伴い、陽光穏やかなバラ園へと足を進めた。
口論の第二ラウンド、開始である。
白い陶器製の丸机に向かい合ったエディスは、執事セバスチャンに厳かに命じる。
「セバスチャン、お茶会開始の宣言をッ!」
「お茶会開始ィイイ!!」
執事の絶叫によって、戦いの火蓋は切って落とされた。
今回のテーマは、『カサルがエディス嬢にやったことは責められるべきことか否か』。
先行はカサルが奪取した。
「で? お前がいう『経験』とやらで、何が変わったというのだ、ミス・エディス」
風呂上りで艶々とした肌に化粧水を塗りながら、悠然とカサルは問う。エディスに油断があれば論破し殺すつもりで、彼は言葉のナイフを研ぎ澄ませる。もちろん顔には微塵も罪悪感の色はない。
「お前はいつも言っていたな。『個人の自由な意志に基づかない行動に、倫理的価値はない』と」
カサルは首肯しつつ、紅茶を口に含む。
ミャーザーの受け売りであることは言わない。だが、人形から人間になった自分がまず一番に掲げた思想であり、ある種彼の決意表明でもあった。
「そしてこうも言ったな。『道徳とは普遍的な法則に従うことであって、結果によってその善悪が変わるようなことがあってはならん』と」
「それはそうだろう。道徳が結果で左右されたら、『勝者こそが正義』の世界になる。弱肉強食がまかり通るのは獣の世界だ。人間の在り方じゃない」
「何度でも言ってやる」と、カサルは首を回しながら答えた。
「だがカサル、現実はどうだ。レテシアはお前の言葉を信じて不正を働いた。彼女の自由な意志が、結果として国を欺き、多くの人々に不信感を与え、その末路が逮捕だ。これがお前の言う『倫理的価値のある行動』の結果だとでもいう気か?」
エディスはそう言うと、机の上に用意された巨大なショートケーキにフォークを突き立て、一口で頬張った。
カサルもまた、スコーンにクロテッドクリームをこれでもかと盛り付け、勢いよくかぶりつく。
互いの視線が交差し、火花が散った。
長期戦を予感した両者の脳が、無意識のうちに糖分を求めて躍動していた……!
「それはレテシア嬢が、我の言葉を正確に理解していなかったに過ぎん。我はただ、仕組みの不備を指摘したまでだ」
カサルは肩を竦める。一切の責任を回避するようなその態度に、エディスの感情は更にヒートアップしていく。
「そうやって常に責任を個人の解釈に押し付け、未来の結果から目を背ける! それがお前が示す姿勢の欺瞞だ!」
「ではなんだ、ミス・エディスはどんな未来が来るか完璧に予測し、その結果に責任を持てと? ───無茶を言うな。貴女には
カサルは皮肉を込めて紅茶を飲もうとしたが、自らの言葉がツボに入ったのか、こほ、と軽く咳き込んだ。それがエディスの怒りを買うには十分な煽りだった。
「神などとは思っていない。だが、知性ある者ならば、自分が社会に与える影響ぐらい把握して、その結果に向き合うべきだろう。特にお前、そんなに悪知恵が働くヤツが法の不備を指摘するだけで、悪用には見て見ぬフリなど……それは許されないだろうが! お前は神などではない。強いて言えば、人間を惑わせる悪魔だ」
エディスに悪魔と言われて、少しシュンと顔を曇らせるカサル。でもやっぱり自分に責任があるとは微塵も思えなかった。
「それは『知識の悪用』に対する責任であって、『知識そのもの』に対する責任ではない。……そんなことを言っていたら、どんなヤツからでも犯罪の着想は得られるだろう」
「だがお前は、その知識が悪用される可能性を知っていたはずだ。いや、悪用されることを予期していたからこそ、その弱点を指摘したのではないのか?」
(……蛇の道は蛇、ということか)
カサルは紅茶を飲む手を止め、しばし沈黙した。
エディスの指摘に、ある種の真実が含まれていると悟ったからだ。彼は確かに、その未来を予測可能だった。しかし、だからといって彼の中にある根本的な問題意識が解決されたわけではない。
「予期と責任は別ものだ。予期は知性が行う作業であり、責任は行為の結果に付随するもの。我は行為はしていない。ただ、口にしただけだ。口にするだけで罪か?」
「お前の言葉はそれだけ重いんだ! そこはしっかりと自覚を持て。お前がマッチを擦ったから山火事が起きた、それが事実だ!」
エディスはテーブルを叩く。
彼女が伝えたいのは、善悪論ではない。カサル自身の、人並み外れた影響力そのものだ。
「お前の思想は、常に『逃げ』の口実を与えてきた。自己の行動の責任を未来の不確実性に転嫁し、常に自らを無垢な傍観者としていようとする。お前のその傍観者気取りこそが、最も質の悪い悪意なのだと気づけ!」
彼女の言葉に、カサルは見るからに機嫌を悪くした。
感情的になることは避けようと思いつつも、出るのはもう溜息しかなかった。確かに自分は、小さな火種に油を注いで大火にする、最悪の傍観者だったのかもしれないと、理解してしまったからだ。
「はぁ……簡単に悪さができるアイデアを軽々しく口にするなと。凡人が真似したら不幸になると、そう言いたいんだな」
久しぶりに自分が苛立っていることにカサルは気づいた。そのせいか、いつにも増して口が悪くなっているような気がした。
「これからもそうだ。お前は絶対的なルールに則って動く…………お堅い堅物なのかもしれん。だが、それに憧れて真似しようとする人間がいることも知れ。そしてそう言うヤツの面倒も見るのが、お前の責任の取り方だ」
エディスは極限まで言葉を選んだ。ココでカサルに向かって「善悪で動く機械みたいに無機質なヤツ」と言ったら、彼は二度と自分の目の前には姿を現さないだろう。
エディスは勝負に勝った以上、死体蹴りをするような趣味も持ち合わせていなかった。
だから先にエディスが彼に謝った。
「カサル、辛く当たって悪かった。私がお前の賢さに甘えている部分もあるんだ。……お前にはいつも高い理想を押し付けてしまう。すまない」
そう言って、エディスは机から立ち上がると、大きな体でカサルを抱擁した。
五秒、十秒……どれくらい抱きしめていたか。
ふと、その幸せな時間の中で、カサルの顔を見ようと胸に抱かれる彼を見ると、そこには呼吸困難で白目を剥きかけているカサルの姿があった。
「あ、すまない!」
エディスは慌てて手を離す。
カサルは椅子に崩れ落ち、ゼーゼーと荒い息をつきながら、涙目でエディスを睨みつけた。
「はぁ、はぁ……! くそっ、こうなることも予測できただろうが……!」
「ついな。習慣とは恐ろしいものだ」
「……次やったら、このドレスに吐くぞ」
カサルは吐き気を堪えながら、震える手で紅茶を口に運んだ。
論戦には負け、アレルギーでも負けた。
今日のところは、この不条理な侯爵令嬢に白旗を上げるしかなかった。
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