第16話 おバカ貴族と元許嫁
「お前が生きていると知って、一番がっかりしているのは、恐らく私だろうな」
シソーラ侯爵令嬢は大きなバスタブに足を伸ばしながら、平然と酷い言葉を彼に投げかけた。
湯気で曇る浴室の中、鈍い金属音が響く。それは、カサルの首に嵌められたミスリル製の首輪と、そこから伸びる鎖が、エディスの手元で遊ばれている音だった。
当のカサルは、彼女の正面で湯船に顔の半分を沈め、ぶくぶくと泡を出しながら、その視線から逃れるようにして体を縮め、何とかその場をやり過ごそうとしていた。
「なぜ喋らない? お喋りなパピー」
エディスはカサルの身長ほどもある長い足を伸ばし、その指先で彼の背中を軽く抓った。まるで飼いネコを愛で、玩ぶかのように。
カサルは苦痛の表情を見せることなく、濡れた金髪をかき退け、湯船の淵に腕を組み、そこに頭を乗せた。
「沈黙は金だ 」
ミスリルの首輪を嵌め垂れた彼は、僅かな抵抗を示すようにそう呟くが、それが返ってシソーラ侯爵令嬢の嗜虐心に火をつけた。
「雄弁を語れば銀にはなると語ったナルシシストをお前は覚えているか、カサル」
彼女は首輪のリードを引っ張り、湯船の端にいるカサルの顔をコチラに向かせた。
「生憎と記憶力は悪い方だ、ミス・エディス」
彼がそう言い返すと、エディスはバスタブのお湯を掬い上げ、ピシャリ、と彼の背中にかけた。
「お前のせいで、また私は友人を失ったんだぞ。少しは反省したらどうだ?」
エディスがそう言うと、カサルはまたかと悲しげな顔をする。
「誰が捕まった?」
「男爵家のレテシア嬢だ」
エディスが言うレテシア嬢とは誰だったか、カサルは記憶を辿る。確かに記憶の片隅に、そんな人物がぼんやりと存在していた。
「ああ……よくお茶会に顔を出していた、貴族の中でも努力家で有名なあの子か。聡い女だったが、あまりうまが合わなかった」
カサルは消えかけていた彼女のことを思いだしながらエディスの話に耳を傾ける。
「お前の『貴族は怠惰であるべき』という姿勢は、今も変わっていないようだな」
「そこまでは言っていない。ただ……努力をせず手に入れられるもので満足しろ、とは言ったが。それで? そのレテシア嬢が何をした?」
「貴族ランキングの違法操作。お前が以前、お茶会で話していた内容だ」
エディスの言葉に、カサルの頭の中にあの日の光景がぼんやりと思い出される。
貴族ランキング。資産、影響力、生産力の各項目を五段階評価の星で受け、その合計が高い貴族が模範とされるシラク―ザ王国の新しくできた評価制度だ。カサルは当時、その制度がいかに愚かであるかを、紅茶を啜りながら小馬鹿にしていたのだった。
特に問題視したのは、資産の項目。毎年ランダムな月の頭に調査員が派遣され、領地の純資産で評価されるという、その
「それじゃあ、調査員が一度来た領地は、その資産を他の貴族に貸し出せば、実際には何もしなくても相手に大きな恩を売ることが可能だな」
カサルがそう笑うと、「あら、本当に?」と当時の貴族令嬢たちの「オホホ」という嬌声が、彼の記憶に鮮やかに蘇った。
「いやあれは、『道徳的に人を騙すようで良くない』という話をしていたのであって、推奨した覚えはないが?」
カサルの話に眉を
「実際にそれを実行したレテシア嬢は、しばらく国に見つかることもなく、初の男爵位で資産と影響力の評価で三星分を記録した。国は彼女の不正を暴くことができなかったのだ。こんなことはこの制度が導入されて初めてのことだったからな」
ピチャッ、ピチャッ、ピチャッ、と今度は三回、エディスはお湯をカサルの顔に飛ばした。顔に水しぶきを受けながらも動じないカサルに、彼女は満足げな表情で話を続ける。
「国は、彼女がしたことが悪だと認知していたにも関わらず、まだそれを罰する法が未整備だったせいで、彼女を拘束出来なかったのだ。私の父もえらい目に合った」
エディスの父、シソーラ侯爵は法務省の重役だった。だから法に穴があったとなれば、休暇などできない立場にあった。そして彼女もまた、学園で似た役割を担う存在として君臨している。
なのでカサルは、お茶会と言う場で、シソーラ侯爵の娘であるエディスの前で、彼女の父親が作った制度の不備を面白おかしく指摘していたということだ。それを気に入ったエディスの心の広さたるや。
身分の違いもあって、正面切って啖呵を切る馬鹿な人間が彼女の前に今まで現れてこなかった、という偶然も重なって今のカサルは存在していたと言っても過言ではなかった。
「───風紀委員長として、非行に走ったレテシア嬢を止められなかった自分を悔いているのか? 」
カサルの言葉にシソーラ侯爵令嬢は浴場の天井を仰ぎ見る。そして彼女はそこで、純粋なカサルへの怒りだけではなく、助けることの出来なかったレテシア嬢への後悔や無力感を自分が感じていることに気がついた。
「……結局一番重い王命によって彼女は逮捕されてしまったからな。見せしめ、という意味合いも大いにあるが……しっかりと法が整備されていれば、今頃彼女は……」
「悲しい話だ」
カサルも自分のお茶会仲間が一人、また消えてしまったことを知り悲しんだ。
「……ああ。しかし本当に悪かったのはレテシア嬢だったと思うのか? 」
「今の話を聴く限りは。間違っても
エディスの言っているのはとんでもない言いがかりだと、カサルは少し怒りを覚えた。自分は国の法律の不備を、紅茶を飲む間の「雑談のネタ」に使っただけだ。
それを利用され、犯罪に使われたからといって、自分が悪役に仕立て上げられるのは、腑に落ちないどころの話ではない。
「そんな
「だがアイデアを出したのはお前だろう」
「発明家は全員悪人か?」
「しかしお前は、『これが悪い』と一から十までその悪性を説明しておきながら、そうやって問い詰められた時には、『こう逃げる』という方法も、一から十まで話すではないか」
それはレテシア嬢に訊かれたから答えたのであって、自らベラベラと話したのではない、とカサルはエディスに抗議する。
「それは
カサルは酷く面倒臭そうに欠伸をした。それが
「前々から、お前のその思想が気に入らんのだ。これまでにも多くの人間が馬鹿なお前の姿勢に感化され、悪の道にそれていった」
「ミス・エディス、このままではまた以前と同じ話をすることになるぞ」
彼女とは、過去に数え切れないほど同じ話を繰り返してきた。彼女の身の回りで悪いことが起きるたび、カサルは何かと理由をつけて邸に呼び出され、こうして説教を受けてきたのだった。
「以前は百歩譲って私の負けだと言ってやってもいい。だが今は違う。お前の考えを否定できるだけの経験を積んできた。お前の悪の思想は、私が正す!」
エディスの言葉に、カサルは頭がクラクラした。湯の熱で上せ気味なのもあるが、彼女の底なしの頑固さには心底辟易する。
「勝ち負けや相手を悪だと思っている思考がそもそも危うい気もするが……まあ、いい。好きなだけ話せ」
「良い心がけだ。今日は寝かせてやらんから覚悟しろ、カサル」
興奮で顔が上気しているエディスは、彼に繋いだリードを持ってバスタブから上がると、口論を行うための支度を始めた。
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