第6話 おバカ貴族と秘密の工場

 カサルの誕生日から二週間が過ぎようという頃。


 彼はまた、街へ赴いていた。


 その足取りは、馬鹿の仮面を剥ぎ取ったかのように鋭く、かつての神童が覗かせるかのような無駄のなさで、人通りの少ない路地を選んで進んでいく。


「踊り子は何処だ~」


 口ではそんな俗っぽい言葉を吐きつつも、彼の足は迷わず人気のないバーの裏口へ。そこは陽光が届かぬ薄暗い空間で、カサルはドレスを脱ぐと、慣れた手つきで作業着に着替え、油で汚れた帽子を目深に被った。


 泥と油にまみれたその姿は、彼を知る貴族たちがすれ違っても、誰一人として「あのカサル」だと認知できない完璧な変装であり、彼が演じる「道化」の裏側に存在する、もう一つの顔であった。


 そして彼はその足で、街の商業区の端に位置する巨大な廃倉庫へ向かう。

 地上からは何の変哲もない廃墟に見えるが、こここそが彼にとっての真の活動拠点であった。


「……追跡者なし」


 周囲の確認を終えると、彼は倉庫の中央に静かに立った。


 革のブーツの踵で、特定の順序で床を叩く。カチン、という乾いた音と共に、地下に合図を送る微細な風が起動する。床の一部が仕掛け扉となって音もなく開き、その下には深淵へと誘う階段が現れた。


 階段を下りた先に広がっていたのは、地上の貧相な倉庫からは想像もつかない、驚くべき秘密の工場だった。


 地下水道の一角を、カサルが独力で拡張・改装した巨大空間。


 そこはまるで異界の工房であるかのように、整然とした機械群が並び立ち、静かな駆動音を奏でている。

 照明や動力は全て電気で賄われており、それらは地下深くで絶えず回転する巨大な風力タービン──カサルの魔法を動力源とする永久機関によって生み出されていた。


 地上ではようやく蒸気機関の次に「魔導機関」が発明され、産業革命だと騒がれている昨今。

 人々が機械による大量生産の可能性に気づき始めた時代に、彼は既に食料生産の半自動化システムを構築していたのである。


 カサルは、その光景を見渡しながら珍しく感慨にふけっていた。


「後は地上の農地から種子を転送するパイプラインさえ完成すれば、完全自動化か……」


 道化となってから、既に九年の歳月が流れた。

 彼の本来の知性と能力は、誰にも知られぬよう、この秘密の地下空間でひっそりと研鑽され続けてきた。こここそが彼にとっての修練の場であり、唯一息ができる聖域であった。


 しかし、今日はその聖域に、異物が混入していた。


「わ~、すっごいなぁー」


 背後から響いた間延びした声に、カサルの思考が凍結する。

 即座に距離をとり、振り返った彼の目に映ったのは、あってはならない人物の姿だった。


「マリエ……なぜ、ここにいる」


 そこに立っていたのは、記憶に新しい銀髪の空賊、マリエ・リーベだった。あの脱出不可能と見られた監視付きの病室から、どういうわけか逃げ出したらしい。


「えっへへ。コレ見てよ」


 マリエは無邪気な笑顔で、今日発行されたばかりの新聞を差し出した。


 一面には『空賊リーベ取り逃がす』という見出しが躍り、白黒写真には、彼女が追跡者をあざ笑うように投げキッスをしている姿が写っている。


 カサルはマリエの奇行を無視し、最も合理的な疑問を突きつける。


「そんなことより、どうやってこの場所に入った。入り口のセキュリティは完璧だったはずだ」


「んー? なんか風が入ってくる穴があったから、そこから」


 マリエは天井付近にある、直径十センチにも満たない排気ダクトを指差した。


 あんな隙間から人間が入れるわけがない。だが、目の前に彼女がいるという事実が、常識の崩壊を証明していた。


(……軟体術か、あるいは身体変形か。どちらにせよ只者ではない……のか? )


 カサルは警戒レベルを最大に引き上げ、作業着のポケットに隠した工具に手をかけた。


「……強引な女だ。つけてきたのか?」


「うん。どうしてもお話したいなぁ。って」


 体をくねくねさせながら照れるマリエ。その警戒心の無さが演技か天然か分からない以上、油断は死に直結する。


「───で? ストーカーがオレに何の用だ。目的を言え」


 いつもの道化口調ではない、冷徹な発明家としての声。

 だがマリエは動じず、真っ直ぐに彼の目を見つめた。


「異端核を返して」


「ああ、アレか。あれならもう分解してしまった」

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