第-6話 おバカ貴族とお茶会
ミャーザーとの出会いから、更に一年という月日が流れた。
それはカサル・ヴェズィラーザムにとって、人類という未知の領域を深く探求した期間であり、同時に、一つの結論へと至るための猶予期間でもあった。
「カサルさん、コチラにもご挨拶しにいらして」
「はい、母上」
その日、日頃の勉学に勤しむカサルを労うため、母ジュディスが主催する茶会が、ヴェズィラーザム伯爵邸の広大な庭園で開かれていた。
煌びやかな貴族たちが集い、華やかな笑い声が飛び交うその席には、当然のようにミャーザーの姿もあった。彼は貴族たちの馴れ合いには一切加わらず、庭園の片隅で、相も変わらず酒瓶を傾けていた。その姿は、この完璧な世界における異質な影絵のようであった。
カサルは、そんな影法師へと静かに近づいた。顔には、これから為される行動への、確固たる決意が宿っている。
「お世話になりました、先生。……今日にしようと思います」
彼の声は、わずかな感情の震えもなく、春風のように温かく穏やかであった。その言葉の奥に隠された意味を、ミャーザーは瞬時に理解したようだった。
弟子が去っていく後ろ姿を見送りながら、ミャーザーは酒瓶を深く傾ける。彼の瞳には、この完璧な人形が、ようやく自らの意思で動き出すことへの、僅かな寂寥と、そして期待が入り混じっていた。
「暫しの別れか……残念だ。また会おう、小さな友よ。クッカッカッカッカ………」
カサルは、その足が運ぶ一歩ごとに、幼少から最も崇拝する両親が常に口にしていた言葉を、心の中で反芻させていた。
『
それは、彼の人生を支配した絶対的な規範であった。
弱き者に施しをすることは、貴族である彼にとって当然の義務であり、それが彼の
しかし、あの日に出会った弟の瞳は、その完璧な定義を崩壊させた。
「豆のスープしか食べることを許されない弟を前に、施しを受けているのは、一体どちらなのか」
その問いは、彼の知性を一年間も苛み続け、解を得られぬままプライドを蝕んでいった。そして、ようやく彼はその問いに対する答えを手に入れようとしていた。
(コレで、僕はようやく自分を手に入れる───ようやく、失った誇りを取り戻すことができる)
カサルの口元に浮かんだ微笑は一見穏やかであったが、その内側には、想像を絶する苦痛への覚悟が秘められていた。
この計画は一度決行されてしまえば、彼がこれまで積み上げてきた「完璧な自分」という構築物は、完全に崩壊し破滅する。
もしも、上手く行かなければ。死ぬか、あるいは一生寝たきりか。
「───確率は計算した。恐れるな」
思考を断ち切るように、カサルは自らに言い聞かせた。この一年で急造されたばかりの「心」と、そして感情という名の枷を、狂気的な理性でマスキングする。
彼は、母の命令を淡々と遂行する、かつての人形へと戻った。
庭園の片隅に並ぶ木々が、風にざわめき、まるで未来の嵐を予感させるかのように揺れる。
「君達とも、しばらく遊べなくなるな」
カサルは小さく笑みを浮かべると、その風に対し、指を鳴らした。パチン、と乾いた音と共に、それまで木々を揺らしていた風が、まるで命令されたかのようにピタリと止まった。
パーティーは進み、午後になり、男達による狩りが催されようとしていた。
その中には、当然カサルの姿もあった。
そして、いざ狩りが始まろうという時。次々と男達が馬に跨がり、森へと駆け出す中、最後に父とカサルだけが残った。全員がこのパーティーの主役を目で追っている、その緊迫した空気の中、彼の計画は動きだす。
(さぁ、今こそ僕を取り戻そう。人生を懸ける瞬間だ)
父親と一緒に走りだした馬の鐙から、カサルは己の体を故意にずらした。
落馬。
だが、ただ落ちるのではない。
(風よ、脳髄だけを守れ!)
カサルは天才的な演算能力で、致死性の衝撃を計算した。
風魔法で頭蓋への直撃をコンマ一秒だけ緩和しつつ、しかし「再起不能」に見えるだけの衝撃は体に受け入れる。
世界は反転し、直後に強烈な痛みと、神経が焼き切れるような痺れが小さな体を襲った。
彼の挑戦が始まった瞬間だった。
会場には、母ジュディスの引き裂かれるような悲鳴が響き渡った。
人々は恐怖と混乱の中、彼の元へと駆け寄ったが、誰も彼を起こしてその状態を正面から見ようとする人間はいなかった。首があらぬ方向へ曲がった神童を見る勇気がなかったのだ。
父親であるイザームもまた、目の前で起こった現実を飲み込むことができず、ただ唖然として倒れたカサルを見つめることしかできなかった。
そんな呆然自失の人々を掻き分け、ミャーザーがやって来た。彼は迷わずカサルを抱え上げ、その意識を確認する。
「……やりやがったな、オイ!」
ミャーザーの声を聞くと、カサルは周囲には聞こえないような、蚊の鳴くような小さな声で、ミャーザーに囁いた。
「先生……泣いて下さい。ここは、そういう筋書きですので……」
カサルはそう言って一瞬、苦痛と安堵が入り混じったような笑みを浮かべると、その言葉を最後に、深い意識の闇へと沈んでいった。
そして彼が次に目覚めた時には、3等級の
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