第2節 田代という教師 ― 正義の仮面の裏側
教師とは、社会の良心である――
そう教えられたのは、慧がまだこの世界に慣れない頃だった。
だが、彼の目に映る現実はまるで違った。
E組担任・田代健一(たしろけんいち)。
四十代半ば、黒縁メガネに白いワイシャツ、
いつも「努力」「反省」「やる気」を口にする男。
だがその裏では、生徒を“数字”としてしか見ていなかった。
「お前たちが結果を出さなきゃ、俺の評価が下がるんだよ」
試験の結果を返却しながら、田代はため息をつく。
「俺だって上に報告しなきゃなんねぇんだ。
努力しない奴は、もう知らん。」
その言葉に、生徒たちは笑いもせず俯いた。
それを見て、田代はさらに鼻を鳴らした。
「こういう雰囲気が“底辺”を生むんだよ。」
慧は静かにノートを閉じた。
(責任を下に押し付ける――典型的な官僚体質だな。)
* * *
その日の放課後。
田代は教室に残って、成績表をまとめていた。
「上のクラスは順調……E組は、また平均が足りねぇ。」
彼の手元には、教育委員会への報告フォーマット。
「平均点○○以上」と書かれた欄に、田代はペンを止めた。
――数字を、少しだけ書き換える。
「ふう……これで報告は通るだろ。」
その一部始終を、慧はドアの隙間から見ていた。
そして静かに、スマホのシャッターを押した。
(なるほど。君もまた、“救済点”の恩恵を受けているわけだ。)
彼はその夜、パソコンでファイルを開いた。
タイトルには「青嶺高校・成績改ざんメモ」。
田代が日々書き換えているデータの癖、文体、
提出時刻のパターン――すべてを記録していく。
「証拠を握る。それが最も静かな復讐だ。」
* * *
翌週、E組で出来事が起きた。
南雲結衣が、提出したはずのレポートを「未提出扱い」されたのだ。
田代は冷たく言い放った。
「言い訳は聞かない。提出期限を守れないのは怠慢だ。」
「でも、職員室のトレイにちゃんと入れました!」
「はいはい、よくある言い訳だ。」
慧は、その瞬間を待っていた。
「田代先生。」
教室中が静まり返る。
慧が教師に向かって声を上げるのは、初めてだった。
「レポートの提出トレイ、今朝見ましたが、
南雲の分、最下段に落ちていました。見逃された可能性が高いです。」
「……何? 証拠でもあるのか?」
慧は淡々とスマホを取り出した。
「写真を撮っておきました。」
画面には、提出トレイの底に落ちていた紙束の写真。
端には、南雲の名前がはっきり映っている。
クラスがざわつく。
田代の顔が強張った。
「なぜそんなものを撮る?」
「観察です。私は、教師が“どこまで生徒を見ているか”に興味があったので。」
その皮肉に、何人かの生徒が小さく笑った。
田代は咳払いをして言い繕う。
「まあ、落ちてたならしょうがないな。……次から気をつけろ。」
南雲はほっとしたように礼を言い、慧を見た。
だが慧は、彼女ではなく田代の手元を見ていた。
(今、動揺した。ペンを落とす癖がある。隠し事をしている時の典型だ。)
* * *
数日後。
慧は図書室で、ひとりの上位クラスの生徒と会っていた。
学級委員の佐伯奏(さえきかなで)。
穏やかな笑みを浮かべながらも、情報には敏感なタイプだ。
「E組の成績、急に上がったね。どうしたの?」
「努力の成果だよ。」
「……それだけかな? 田代先生、何か焦ってたみたい。」
慧は笑った。
「焦るのは当然だ。彼は“結果を作る側”の人間だから。」
「作る?」
「言葉の通り。彼は報告書を“整える”習慣がある。
それを上に出すことで、自分の立場を守っている。」
佐伯の目が鋭くなる。
「それ、証拠あるの?」
「ある。だが公にはしない。」
「なぜ?」
「正義を振りかざす者は、すぐに敵を作る。
私はただ、“制度を変える”方を選ぶ。」
慧はノートを開き、手書きの構想図を見せた。
【青嶺高校内部改革計画】――と題されている。
・匿名アンケートの拡散
・SNSによる意見共有
・保護者会への“疑問提示”文の草案
・マスコミとの接触経路
「……これ、本気でやるの?」
「もちろんだ。田代一人を潰しても意味はない。
構造ごと動かさねば。」
佐伯は息を呑んだ。
「君、何者なの……?」
「ただの生徒だよ。」
慧の笑みは穏やかだったが、
その奥に潜む冷徹な知略を、彼女は見抜いていた。
* * *
翌週、保護者会が開かれた。
その日、慧は匿名で印刷した一枚の資料を各机に置いた。
タイトルは――
> 「E組の現状と、教師の責任について」
文面には、こう書かれていた。
・特定クラスへの差別的発言
・成績改ざんの疑い
・生徒への不当な評価
・学校全体の“成果主義”による弊害
保護者たちの間でざわめきが起きる。
「うちの子、E組だけど、これ本当?」
「田代先生、説明してください。」
田代は顔を真っ赤にして弁明した。
「これは根拠のない中傷です! 誰がこんな――!」
だがその瞬間、校長が一言。
「教育委員会からも、同様の指摘がありました。」
田代は言葉を失った。
校長は淡々と続ける。
「念のため、報告書の再確認を行います。
誤りがあれば、訂正すればいいだけのことです。」
その場の空気が凍りついた。
慧は遠くの席から、静かにその様子を見ていた。
(これでいい。私は一言も声を上げていない。
だが、“声”はすでに群衆の中にある。)
南雲が後ろの席で、小さく囁いた。
「……これ、あんたの仕業?」
「誰の仕業かなんて、もう意味はない。
重要なのは、“疑われた”という事実だけだ。」
田代はその後、しばらく体調不良を理由に休職した。
代わりに赴任してきたのは、若い臨時講師――氷室真理。
E組に初めて、まともに生徒を見ようとする教師が現れた。
「君たちは、能力がないんじゃない。
チャンスを与えられていなかっただけだ。」
その言葉に、クラスの空気が少しだけ変わった。
慧は黙って窓の外を見ながら、わずかに唇を動かした。
「チャンス、か……。
それは常に、誰かの犠牲の上に成り立つものだ。」
彼の頭の中では、次の計画がすでに動き始めていた。
――教師を動かした。次は、生徒の群れを動かす番だ。
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