人よ、生まれ来る人よ、時を遅くせよ。

八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子)

どうせ、それすら、失われる。

 劇作家の兵頭平八の創作ノートをたまたま、そう、たまたま、控室で見つけてしまった。

 四隅が削れ、幾度となく開かれたであろうA4のノートには手垢やシミで染まり、けったくそ汚く、それでいて、けったくそに輝いて見えた。

 こだわりの色合いに見えてしまった。

 劇場支配人の藤堂百合子にとって、久方ぶりにみた、人間味のある創作ノートであった。

 支配人になって半世紀、昭和は時代に区別され、デジタル化などという薄っぺらい言葉がべっとりと定着した現世おいて、このノートの輝きはどう評せばいいのだろう。

 魂が宿っている、そう、武士が帯刀をするようなものだ、きっと、このノートには萬世万民が思いもつかぬような、綺羅星の言葉が並んでいるに違いない。

「百合子さん、どうしたんです?」

 すべてを注いでしまっていた故に、背の扉が開いたことにさえ、人間がそこに立っていたことにさえ気付かず、呼びかけに猫の如く驚き、それが発作の血圧低下を引き起こして、目の前の視界がぐらりと揺れる。

(倒れてなるものですか)

 心のうちで叫ぶ。

 四半世紀の苦労に比べれば、この程度と近くの椅子へ、何事もなかったように腰を下ろしたが、平八はくすっと鼻を鳴らした。

「相変わらず、下手な演技だ」

「うるさいわね、舞台に立たなくなって久しいのよ」

「下手なのはずっと変わらないよ」

 反り上げた頭を軽く叩きついでの軽口に、とっさに向きなって反論して、目の前にシガレットが差し出されたので押し黙る。

 シガローネ・エクスクルシーブ・ロングエディション。

 20センチの長さの中間地点でフィルターと分岐するロングシガレット、平八の愛用であって、百合子の好みでもあった。

「落ち目の劇作家さんの素敵なノートが置かれていたので、見入ってしまったのよ」

 穂先に火を灯してもらい、紫煙を燻らせ、吐き出した煙ともどもに、素直に言葉が出ていた。

「今のはいいね」

「馬鹿ね、でも、味わい深い人間味が宿ってるわ」

「ただ単に、こいつが嫌いなだけだろ」

 シガレットを口に咥えながら、近くに置かれていた銀色のノートパソコンを手にした平八へ、素直に百合子は頷いた。

「ええ、嫌いよ」

 唾でも吐き出さんほどの毛嫌いに、平八が穂先を揺らして声なく笑った。

「俺だって苦手さ、できれば、紙で書いていたい、でも、今はこんな時代だからな、飯を食っていかなきゃならんし、やらざるを得ない」

「ええ、理解はしているわ、素敵な作品だって、そうね、平ちゃんのは別だけれど、そのほかの皆さんの作品は素敵だわ」

「それはどうも、つまらないから、こんな時代から取り残された劇場で上演できるのさ」

「取り残されたんじゃないわ、これが正しい姿なのよ」

「雨漏りして、ネズミが走って、コンクリートにも、その他すべてがボロボロでも?」

「ええ、当たり前でしょう、それが劇場なの、幾年月に彩られた、劇場なのよ」

 百合子が天井を見上げ、あたりを見渡した。古びたものが、古びたままに、ある。

 そう、新銭がすぐに古銭になれぬように、時の刻みや積み重ねの年月で、すべては輝くのだ。

 瞬きのうちに終わってしまうものなど、意味はない、歴史の風雪に耐えうるものが、永年を得るのだ。

「今は浮気性の時代なのよ」

「浮気性とは、これまた、変なことを言うね」

「馬鹿ね、浮気性に等しいわ、長いことものを使わず、新しいものばかりに取りつかれて、自らの積み重ねすら、忘れてゆくのよ」

 百合子は立ち上がり、平八のレコードコレクションから、小松勇作の「日々」を取り、そして針を落とした。

 緩やかで繊細なメロディーが流れる。

「この柔らかくて素敵な音でさえ、聞こえが悪い、ノイズが入る、きれいじゃないって、思えてしまう人たちがいるのよ」

「それで浮気性、まぁ、言い得て妙だね」

「そ、時代の進歩は、人間の心の退化よ、そのうち、線香だって無駄だっていう時代がくるわ」

「ディストピアだね、神も仏もなしかい」

「ええ、実在するもののみが正しくて、虚栄や虚像は消えてなくなる」

「ちょっと極端すぎやしないかい?」

「じゃぁ、聞いていいかしら、平ちゃん、そのノートみたいに大切に持っているものはほかにある?こだわりじゃないわよ、絶対に捨てられず、常に肌身離さず持っているものよ」

 平八は考えてみる。

 大切と言われて、ノート以外に、長く持っているもの、そう問われると大学合格時に祖母から貰ったボールペンと、早死にした父親から引き継いだ腕時計しか、思い浮かばなかった。

「どうせ、ペンと時計でしょ」

「おっしゃる通り」

「今の子たちは、そんなものありゃしないし、持ってもないわ、肌身は出さずなんて、最大限の愛しみもないのよ」

「それは、そうだろうね」

 音楽がクライマックスに向かって、すべての演奏が重なり合って、ノイズも重なり合って、そして、一つに纏まってゆく。

「もう少し、遅い時間が流れればいいのにね」

「それは、そうだね」

「生き物としての時間を、人間は大切にしなさ過ぎたのよ」

「人間じゃなくて?」

「人間は思考するでしょ、生き物は、ただ、生きているのよ、人間とは違うわ」

「なるほど、ただ、生きているか」

「ええ」

 紐が切れるような音で音楽は終焉となった。そして沈黙の時が訪れる。

 二人は余韻に浸り、静寂に眠る。

「どうせ、これすら嫌われるようになるわ」

 百合子の言葉が平八の耳を痛烈に叩いた。

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人よ、生まれ来る人よ、時を遅くせよ。 八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子) @suzunokisuzunoki

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