第4話smoke ear

 ベッドの上で気怠く微睡んでいた私の、剥き出しの左腕を、ひんやりと冷たい空気が舐めた。それは先ほどまでの、恋人との情事で火照っていた身体に心地良い。思わず小さな吐息を吐く。

 ごろり、と寝返りをうつと、開いたベランダのサッシから、手すりに身体を凭せて煙草を吸う、陽希先輩の後ろ姿が見えた。

 私はシーツの上と床に脱ぎ捨てられていた、下着の上にオーバーサイズのパーカーだけ着ると、彼に声をかける。


「陽希先輩」

「あ、美羽。起きたんだ」


 振り向いて私を投げやりに見る、その酷薄そうな切長の眸は、向日葵の模様があるアンバー。髪も生まれつき、明るく色素の薄い栗色をしている。


 大学一年生の頃から付き合っている陽希先輩は昔から、異性を惹きつける容姿と、蜘蛛の巣に虫を捕らえるように女の子を自分のモノにするのが、神がかり的なほど上手く、私と付き合いたての頃から、社会人になった現在まで、色んな女の子に愛を囁き、身体を重ねた。


 でも、今日彼と肌を合わせたのは、私だということに優越感と独占欲を、疲れた重苦しい身体にひしひしと感じる。

 身体は軋むように疲労していたが、心はたんぽぽの綿毛のように、ふわふわと飛べそうなほどの幸福感がじぃーん、と沁みていた。


 私は、よたよた、とベランダにいる陽希先輩の元へと向かうと、先輩は横目で私を見て、薄氷のように透き通った温度のない声で「寒くない?」と、紫煙を吐き出しながら、云う。


「うん、大丈夫」

「ああ、そう」


 陽希先輩は興味なさげにそう返して、歪な芋虫のような形になった短い煙草を、ぽいっと冬の夜空に放り捨てた。水底のように真っ暗な階下が一瞬で、煙草を呑み込む。

 そして彼の、季節外れに咲いた向日葵の目は、しばらくボーッと、都会のネオンに染まった外界を眺めながら、相変わらず氷のように冷たい無機質な声で「俺の部屋の鍵、返してくれない?」と、私と目も合わせずに淡々と云った。


「…え?なん、で…、?」

「婚約者と同棲することになったから」


 婚約者。その六文字の単語の重みに、鉛が気道を塞いだかのように、息ができない。

 それでも必死に、私は「おめ、でとう」と今にもか細い悲鳴が洩れそうな声帯を引き攣らせて、吐き気を催しつつもどうにかそう云った。   

 いや、云うしかなかった。私は込み上げてくる感情とは裏腹に、微笑みさえこぼし、まるで軽口を叩くかのように訊く。


「ねぇ、婚約者さんって、どんな人なの?」

「んー、最初は社長令嬢って肩書きで近づいたんだけど、着眼点が面白い企画提案したり、性格も気配りできて、その上顔もアナウンサーの中田なな実に、よく似てて超可愛くてさー。いつの間にか本気で好きになってたんだよね。

 その子…カヤ、は背が小さくてさ、それで毎回デートのときに、『先輩と目線を合わせたいんです!』って、馴れてないのにヒールの靴を履いてくるところとか本当、抱くっていうより、抱きしめたくなるんだよね〜」


 彼が昔『ハイヒールは音がうるさいから履くな』と云って以来、私は踵の高い靴は一足も買っていない。けれど、陽希先輩はそのことを、きっと知らないだろうし、この数年間で気づく素振りすら見せなかった。

 それから、陽希先輩はいつもはラムネのビー玉のように冷たいその向日葵の目に、まるで残暑のような熱を灯して、婚約者のことをさも愛おしげに語る。


 髪型、メイク、服装、体型、性格。

 陽希先輩の婚約者は、彼の『理想の女の子』となるため造り上げた、今の私とは正反対な人だった。


——私のこれまでの努力は、いったいなんだったのであろう。


 思わず、潤みそうになった視界の隅で、また煙草を暗がりに葬った陽希先輩が、チッと舌打ちをした。


「…煙草切れたわー、悪いけど買ってきてくんない?」

「う、ん。わかった」


 彼の愛しい婚約者にどう足掻いてもなれない私は、例え死ぬ直前までも先輩の『理想の女の子』でいたくて、素直にベランダから踵(きびす)を返した。きっと陽希先輩の婚約者は、『ふたりで行こうよ』と、何個も開けた耳のピアスを揺らして苦笑するのであろう。

 彼が、一個でさえ穴を開けることに難色を示した私の耳は、未だに処女だというのに。


※※※


 陽希先輩の好きな銘柄のマルボロのブラックと、たまたま目についた板チョコを買う。夜食などいつぶりだろうか。店員のありがとーございましたー、を背にしてコンビニの外へと出た。コートとマフラーの隙間から吹き込んでくる風が、春がまだ遠いことを告げる。

 私は、先輩が待っているというのに、無人の喫煙所に座り込み、マルボロのパッケージを開いて、陽希先輩のチョークのように白い指によく挟まれていたそれに、ライターで火を点けて煙を吸い込む。独特な苦味は彼の舌と唾液と同じ味だ。


 私の初キスは、数年前にこの味に奪われた。

 そして私の初恋は、苦味など知らない、甘ったるい砂糖菓子のような女に奪われるのだ。


「…っ、はっ」


 いつの間にか、春の慈雨のような生温かい涙がすっぴんの頬を、濡らしていた。紫煙の代わりに嗚咽が出る。

 

「…ど、うして、」


 どうして、貴方の理想の恋人として、一部の隙もなく染め上げられた私ではなく、そのミルキーホワイトの女の子の手を貴方は取るというのですか。


 それなら今までの、貴方に愛されるため、体型や表情、性格すら、貴方の理想を演じてきた、私のこれまでの努力は、


「…無駄、だっ、たの…?」


 思わず幼い少女のような、頼りなくて幼稚な、か細い声が嗚咽と共に、かじかんだ唇を震わせた。私は持っている煙草から、未だゆらゆらと立ち昇る煙を見上げる。


 その、苦味で人を狂わせ、夜闇に溶けていく姿は、私の最愛の人だけれども、もう一生手に入らない人のようだった。


 でも、それでも。


「…私。貴方のこと、愛し、て…たよ」



 真っ暗な喫煙所に丸まりながら、そう云った私の耳には、彼が付き合って三年目の記念日にくれた、私の誕生石であるルビーのイヤリングが未練がましく揺れていた。

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本の虫短編集 花火虫 @flower_worm2

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