カラスは鼓動を知る

ぶた猫

第1話





 まだ冬の寒さが厳しい2月中旬。この日は珍しく暖かく、優しい日の光が街全体を包みこんでいた。


 僕は町を見下ろして行き交う人々を観察した。今日は金曜日だ。それゆえどこか足取りが軽く見える。昼休憩のサラリーマン、買い物帰りの主婦に、お年寄り。彼等からすっと目を逸らすと、そのまま上を仰ぎ見る。


 濁りのない青が空を覆い尽くしていた。この季節にしては雲ひとつない、よく澄んだ青空である。だが僕の心模様は正反対だ。嵐のように吹き荒れており、黒々としたものがマグマのように溢れ出らんばかりだ。


 この激情の原因はわかっている。

 それは幼き少女のせいだ。


 幼き少女は、住宅街の近くにある公園でよくブランコに揺られている。歳の頃がまだ九歳くらいのあどけない可愛らしい少女だ。


 その姿を思い浮かべていると、今すぐにでもその子の姿を人目見たくなり、僕は公園へと急いだ。

 公園に着くなり僕はブランコの方をはやる気持ちで確認したがまだあの子はいなかった。それもそうだろう。まだ昼間だ。あの子がいつもいる時間帯は夕方。こんなに早く来ても無意味だと言うのに僕は一体何をしているのだろうか。


 緩く頭をふり自嘲気味に笑うと、そういえばあの子も同じように自虐的にも見える笑みを浮かべていたことを思い出していた。








 はじめてその少女を見たのは、公園でブランコに揺られている姿ではなく、住宅街から少し離れた古ぼけたアパートの一室にいるのをみた。少女が住んでいた部屋が一階で、たまたま僕がその部屋が見えやすい位置にいたのだ。誓って覗こうと思ってそこにいたのでは無い。


 ともかく、少女にとって幸か不幸かカーテンが閉められておらず僕は見てしまったのだ。



────母親に殴られているところを。



 母親は何度も殴りながら何か叫んでいるようだった。離れた場所から見ていたため何を言ってるのか分からなかったが、罵っていることだけは分かった。

 しばらくして、母親の気が済んだのだろう。殴るのを止めた母親は、人差し指を少女に突きつけ、何かしら言うと、ポケットからタバコを取り出し、煙をふかせると、部屋を出て行った。


 少女は視線を外しゆっくりと立ち上がると母親の去った方へと行ってしまった。

 少女のことが気になった僕は窓の近くへと行った。だが、部屋の中をいくら見渡しても少女の姿を見つけることが出来なかったので場所を移動しようとしたとき、少女が部屋に戻ってきたのだ。


 慌てて去ろうとするも、少女はこちらの方を振り向き僕と目が合った。

 少女の顔は微笑んでいた。だがそれはとても痛々しいものだった。顔は笑っているのに泣いていたのだ。だが、その割に不思議な色を目に宿していた。


 その目が不思議でたまらない僕はその様子をじっと見つめていた。だが少女は僕と目が合っているのに何かを言ってこようとしたり、行動を起こすでもなくただ静かに微笑みながら涙を流すだけだった。


 僕はただただその光景から目を離せずにいると、母親が部屋に戻ってきた。

 母親は少女の方を見やると何事か叫び蹴り飛ばすと、真っ直ぐ窓の方へ向かう。何か言われるかもしれないと僕は慌てたが、その心配はなかった。母親は勢いよくカーテンを掴むと素早く閉めた。


 僕は緊張から詰めていた息をそっと吐き出し、その心配はないじゃないかと心の中で呟いた。

『カラス』である僕が、少女の母親に何かを言われることは無いのだ。もし仮に言われることがあったとしたらそれはゴミ袋を漁っているところを見られた時だろう。人間は嫌がるかもしれないが、僕らカラスにとってはとても重要だ。生きていくために仕方無くやっていることなのだ。


 このようなことを考えていても仕方ないと、首を振り思考を途切れさせようとしていた時、少女が通りを歩いているのが見えた。

 僕がいた場所はベランダと言われるところに居たため、少女が玄関から出る姿を見ることが出来ずすぐには気づけなかった。


 なんとなく僕は少女の後を追いかけることにした。いや、正しくは飛んで空からの追跡だが。人間ならば見失ってしまうほどの距離だが僕らカラスは一キロ先も見通すことが出来るのだ。

 そんなことはどうでもいいとして。

 少女を追跡し続けてついた場所は公園だった。


 公園に誰もいないのを見るとなんだかほっとした様子を見せた少女は、真っ直ぐブランコへと歩き出した。ブランコに座った少女はこいで遊ぶのかと思ったが、身体を震わせ声も出さずに泣き出してしまった。


 どうすればいいのか分からなかった僕はただ少女の様子を眺めていた。



 それが僕と少女の出会いだった。一方的な出会いではあるが。それからというものの僕はその公園の通いつめることになった。



 あの少女を初めて見たときのことを思い出し、何とも言えぬ感情が胸で渦巻き始めた。

 もしこの感情に色をつけろと言われたら僕は『黒』だと答えるだろう。

 なぜ『黒』だと思ったのかは僕自身よく分かっていないが、真っ白な綺麗な感情ではない、ということだけは僕の中ではっきりしている。


 人間ならばこの感情を何と呼ぶのか知っているのだろうか?

 カラスの僕にでもはっきりと分かるのは、いい意味を持った言葉ではないことだけは分かる。


 僕は名前の分からない感情を消し去ろうと二度強く頭を振った。だからといって完全には消え去ってくれはしないだろうが、いくらかマシだろう。






 このまま公園にいても意味は無いので移動しようとしたが──────






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