息苦しいよSNS

ファイアス

SNSの毒牙が学生の未来を蝕む

 SNSにはうんざりだ。

 校則よりもうるさい人々が、常に攻撃のタイミングを伺っているからだ。

 それならやらなければいいって思う人もいるだろう。

 けれど学外で友人と付き合っていくためには、SNSなしではいられない。

 SNSは今や人間関係を維持していくのに必要なインフラだ。


「あの子って可哀想だよねー」

「今時スマホすら持たせてあげないとか虐待だよね」


 私のクラスには、家庭の教育方針でスマホを持てない女子生徒がいる。

 スマホがなければ、人付き合いでSNSをする必要がない。

 だけど、彼女を羨ましいとは思わなかった。

 むしろ可哀想だと思っていた。


 彼女の成績は学年で上位一握りに入る秀才だ。

 でも彼女は授業中にタブレットを渡されると、いつも苦痛な表情を浮かべる。

 スマホ操作に慣れていない彼女にとって、タブレットを用いた授業は劣等感に苛まれる時間だからだ。


 彼女は五体満足なのに、体の欠損があるように思えた。

 私たちは日常のインフラとして浸透したスマホを、手足のように動かしているからだ。


 彼女のようにスマホを持たせてもらえない子は、家庭のルールが厳しいことが多い。

 だから彼女は上品に見えるが、浮世離れしていて、人を寄せ付けない。

 そんな彼女はところどころ一般常識に欠けていて、友達がいない。


 SNSをやらなければいい。

 スマホを持たなければいい。

 そんなことを言う人は彼女が将来どうなるかを考えてほしい。

 確かに昔はSNSもスマホもなかった。

 けれど現在はそれらがあることを前提に生活やコミュニティが形成されている。

「昔はなかったんだからなくても困らない」と主張する老人たちはあまりに視野が狭いと思う。




 お父さんはネットは憩いの場だと口にする。

 匿名で愚痴を書き込めて、共感までしてもらえるのは良い癒しだそうだ。

 お父さんの言いたいことは分かる。

 けれども、それは社会人の特権だ。

 学校の不満を呟けば、どこの馬の骨かも分からない大人たちが説教をしてくるからだ。


「学校の教育さえ耐えられないんじゃ、社会に出たときにやっていけないぞ」

「学校は学ぶ場なんだから、何でも言われたことは学ぶ姿勢でいろ」


 本当に気持ち悪い。

 この人たちは何様のつもりなんだろう?

 学校の先生たちだって、こんな偉そうなことは言わない。


 学生時代を終えていれば、誰でも学生にマウントを取れる立場になる。

 だから何もない空っぽな人間が、お手軽に得られる優越感を求めて、私の書き込みに噛みついた。

 こんな底辺としか思えない人たちにマウントを取られるんだから、SNSは本当に息苦しい。




 SNSは友人とのやりとりに限定してしまえば怖くない。

 けれど、それも間違った考え方だ。


 去年、私の通う学校はSNSで大きな話題となった。

 隣のクラスのカップルが、飲酒している動画をSNSに投稿したからだ。

 二人はすぐさま特定されて、この学校の名前も広まった。

 私は未成年の飲酒を擁護するつもりはないが、カップルの彼氏を気の毒に思った。


 彼は彼女と一緒に自宅で飲酒していたに過ぎない。

 しかし、軽いノリで一緒に写真を撮った彼女が勝手にSNSへ投稿したのだ。

 撮影を止めなかった彼も同じレベルのバカだと思う人もいるだろう。

 それは私も否定しない。

 けれど、彼はSNSを友人間でしか活用しない人物だった。

 それが裏目に出て、彼女の暴走に気づけなかったのだ。


 やらなければいいという回避選択は、リテラシーを学ぶ機会を逃してしまう。

 そんなことを突きつけられた事件だった。


 二人の行為は社会に何の害も及ぼさない。

 なのにどうしてこうも騒がれたのか?

 それはバカな学生の将来を潰す快楽に溺れた大人の娯楽だからだ。


 この事件から数日後、一人の同級生が担任に相談する姿を私は目撃した。

 どうやら彼は脅されて、強引に飲酒させられ、その様子を同級生に撮影されたらしい。

 SNSの炎上を悪用したいじめだ。


 もし、仮に撮影された動画がSNSに晒されたら、選択できる進路に大きな支障を来すだろう。

 純粋な被害者であることを証明できてもだ。

 炎上させたい人々は、裁くことにしか興味がない。

 だから、彼がいじめの被害者だと分かったら、加害者を攻撃するだけだ。

 多くの人は冤罪だったことを周知させようと考えもしない。


 進路に関わる企業や高校、大学も正義で動いているわけではない。

 大事なのはリスク回避だ。

 だから冤罪だろうと、変に話題になった人間を取り入れるのは避けようと考える。


 断片的な情報しか知らない人々は、間違った解釈をしたまま受け入れを断る。

 そうした判断には何のリスクもない。

 悪意のない合理性だけで、生じる差別には何の罰則もない。

 残酷な世の中だ。




 SNSで輝くことに夢を見る人々は、すぐさまその野心を打ち砕かれる。

「何者かになりたい」と願望を抱けども、実現できる人々はごくわずかだ。

 SNSはそんな一部のキラキラした人にばかり注目が集まる。

 注目される人々は学校の基準で例えるなら、偏差値75以上の人たちだ。


 けれどそんなことに気づかない先輩は、自分の無力さを痛感していた。

 彼女は偏差値65の高校に難なく合格できる秀才だ。

 SNSのない社会だったら優越感に溢れていたであろう人が、どうしてこんなことに……

 私はそう感じずにいられなかった。


 SNSが無力感を与えるのは、何者かになりたいと憧れを抱く人たちに留まらない。

 なぜなら、SNSには人生のネタバレに溢れかえっている。

 こんな学生時代を過ごした人は、こんな社会人になる。

 その傾向が、SNSの書き込みから見えてくる。


 子供の頃に楽しんで生きてきた人は、大人になっても良い思いをできる。

 必死に耐える生き方をしてきた人は、大人になってもずっと耐えている。

 逃げ回って生きてきた人は、逃げ切れずに自殺するか、社会保障にへばりついている。


 今の自分から、将来の自分が簡単にシミュレートできる。

 こうして将来に希望を見出せない人たちも多い。

 特に親から与えられた環境は、個人の努力で変えられない。

 だから、「親ガチャがクソ」と嘆くことしかできないのだろう。


「先生」

「どうした?」


 私はある日、先生に質問をした。

 SNSで「何者かになりたい」と夢見る人々の中には、学校の勉強を蔑ろにする人も珍しくない。

 私は彼らの判断が不思議だった。

 彼らの多くは、単に承認欲求を満たしたいだけだ。


 だったら、比較対象の限られた学校の試験で、優秀な成績を取るほうがよっぽど簡単じゃないか?

 私はそう感じずにはいられなかった。


「君は聡明な子だよ」


 先生は私の疑問に、嬉しそうに返してくれた。

 学校や職場で頑張るほうが、よっぽど認められるのは簡単ということに気づけたのは幸運だそうだ。


 先生に疑問をぶつけた翌日から、私は気軽に得られる承認欲求を求めて勉強を自主的にするようになった。

 その選択にお父さんも先生も褒めてくれた。

 私はただSNSに蝕まれた人々を反面教師としたに過ぎない。


 あれから4カ月後の期末テストは、今までにない手応えを感じた。

 テスト期間終了から5日後、採点を終えた先生たちによってテストが返却された。

 私の成績は5教科の合計点数が463点──学年で6位だった。

 いきなり1位にはなれなかったけど、これまで平均よりやや上くらいの成績だった私は周囲から驚かれた。

 SNSで何らかの成功を望んで取り組む人たちと違って、勉強はやらされているだけの人が大半だ。

 だから自主的に取り組めば、簡単に成果が出る。


 やっぱりSNSで数字を求めるよりよっぽど簡単に承認欲求を満たせる。

 そう確信した私はそれからも勉強を真面目に取り組んだ。

 このままいけば、来年の受験はきっと上手くいく。


 息苦しいSNSをきっかけに得られた成功体験。

 私はその成功体験を噛みしめて、受験へと立ち向かうことにした。

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