さよならは余白の中に
ほねなぴ
出会いは突然に
気まぐれだった。
古道具屋の隅で、分厚い革表紙のノートと目が合った。
何も書いていない、ただのノート。
けれど、妙に手触りがよくて、連れて帰ることにした。
その夜。
誰に見せるわけでもない愚痴を、一行だけ書いた。
『仕事で失敗した。もう辞めたい』
書き捨てて、そのまま眠った。
翌朝。
目が覚めて、開いたままのノートが目に入る。
……ん?
見間違いでなければ、私の殴り書きの隣に見知らぬ文字が増えている。
『辞めちゃえば? なんとかなるよ』
丸っこい、どこか間の抜けた筆跡だった。
黒いインクが、ぽつんと滲んでいる。
「……は?」
部屋には私一人。
鍵もかかっている。
怖気(おぞけ)が走る場面のはずだ。
けれど、その文字があまりにものんきで、力が抜けているせいで、不思議と恐怖はなかった。
丸文字というのだろうか。
一昔前のギャルが書くような文字だった。
私はペンを取り、震える手で返事を書いた。
『あなたは誰?』
じっと待つ。
変化はない。
そのまま会社へ行き、夜、帰宅してノートを開く。
返事は来ていた。
『ひみつ。それより、今日のおやつ食べた?』
……なんだこれ。
お化けにしては、随分とゆるい。
私は少し考えて、小さく笑ってしまった。
『食べてない。プリン買ってきた』
そう書き足して、私は久しぶりにぐっすりと眠った。
◇
それから、奇妙な交換日記は日常の一部になった。
互いに名前は明かさない。
けれど、誰よりも私のことを知っている相手。
私が仕事で昇進した夜。
『おめでとう。鼻が高いよ』
私が結婚を迷っていた時。
『自分の直感を信じて。あと、相手は猫好き?』
娘が生まれて、夜泣きに途方に暮れた明け方。
『大丈夫、明日は晴れるよ』
人生の節々で、その丸っこい文字はいつも隣にいてくれた。
日記は何冊にもなり、本棚の一角を埋め尽くしている。
一度も会ったことはない。
声を聞いたこともない。
それでも、文章の端々から滲み出る温かさが、私の支えだった。
そうして、季節が何度も巡った。
私の髪にも白いものが混じり、娘が家を出ていった頃。
日記に異変が起きた。
『きょうも 天気が いいね』
いつもの朝の返事。
けれど、その筆跡がひどく乱れていた。
線が震え、インクが擦れている。
まるで、ペンを握る力さえ残っていないかのように。
『体調が悪いの?』
震える手で問いかけると、翌日、弱々しい文字が返ってきた。
『ちょっと 疲れた だけだよ』
嘘だ、と思った。
文章は日に日に短くなり、返事が来るまでの間隔も空くようになった。
あの呑気で元気だった文字が、今にも消えてしまいそうだった。
私は悟った。
姿は見えないけれど、相手も私と同じ時間を生き、そして終わりの時を迎えようとしているのだと。
胸が締め付けられるような寂しさが、部屋に満ちていく。
まだ、さよならなんて言いたくないのに。
ある冬の夜。
予感めいたものを感じて、私は日記を開いた。
『これが さいごです。 よんでくれて ありがとうね』
その一文だけで、ページは終わっていた。
文字はかすれ、消え入りそうだ。
文末には、ぽつりと丸い染みがある。
それはどう見ても、溢れ落ちた涙の跡だった。
「……こちらこそ、ありがとう」
私は日記を抱きしめ、目を閉じた。
静寂が部屋を包む。
長い間助け合ってきた。
一人では心細い。
景色は何も変わらないのに、自室が狭く感じる。
だが私には家庭がある。
思えばあの時も決断出来たのは日記のお陰だった。
精一杯生きよう。
日記の先の誰かの分まで。
……もう、あの丸い文字が増えることはない。
けれど、私の胸には温かい何かが確かに残っていた。
……同刻。
視点は私の部屋を離れ、屋根を抜け、夜空をぐんぐん昇っていく。
雲を突き抜け、大気圏を越え、星の海へ。
遥か彼方にある、小さな惑星。
その一角にある事務所で。
「……ふぅ〜!!」
ぽふっ、という音と共に、茶色い毛玉が机に突っ伏した。
タヌキだ。
右手の肉球はインクで真っ黒に汚れ、腕はぷるぷると痙攣している。
「……書ききったぁ……」
タヌキ。 この星の『幸福筆耕係』であるポン太は、のっそりと顔を上げた。
壁のメーターを見る。
『地球人の幸福度:満タン』。
それを見て、ポン太は満足そうに体を揺らした。
「いやぁ、今回の『一生の別れ』は指がつるかと思ったよ……。
最後なんて、インク壺ひっくり返しそうになっちゃったし…」
そう、あの最後の染みは涙ではない。
ただの労働の証(インク汚れ)だ。
「でもま、あのお客さんが幸せな気持ちで眠れたなら、それが一番だね!」
よいしょ、と椅子から降りる。
長年のデスクワークで少し猫背になった背中は、哀愁と達成感に満ちている。
ポン太は棚から「ごほうび」と書かれた缶を取り出した。
中に入っているのは、地球から送られてきた幸福エネルギーの結晶。
金平糖のような一粒を口に放り込むと、疲れた毛並みがふわっと輝いた。
「……あまぁい」
ポン太は、書き終えたばかりの日記帳。
地球ではもう『美しい思い出』として閉じられたそれをパタンと閉じる。
「さて……ちょっと休憩したら、次の人間、探すぞお」
タヌキはのびをして、また新しいペンを握った。
その背中は、少し丸くて、頼もしくて、やっぱりどう見てもただの可愛いタヌキだった。
さよならは余白の中に ほねなぴ @honenapi
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