第二話・枯渇

一週間後、沙也加は大学に戻ってきた。 改札を抜けると、背後から衝撃が来る。「奏~! ひさしぶり! おはよっ!」 いつもと変わらない、高めのテンション。


「おはよう。その……」

「ごめんね、心配かけて」

「えっと、お母さんは……」

「……だめだったみたい。まあ、仕方ないね」

「つらく……ないの?」

「んー、あまり気にしてもしょうがないかなって」

「そっか」


「なんて強いのだろう」


一瞬、本気でそう感心しかけた。最愛の母を亡くしてまだ一週間。それなのに彼女は、以前と変わらぬ明るさで日常に復帰しているように見えたからだ。 しかし、その考えはすぐに打ち消された。


 違う。 ふとした瞬間に見せる彼女の横顔は、あまりにも精巧すぎた。口角の上がり方も、声のトーンも、まるで鏡の前で何度も練習したかのように完璧で、それゆえに不気味なほど人間味を欠いていた。 それは夜明け前の張り詰めた薄闇のように、危うい均衡の上に辛うじて成り立っている仮面だった。笑うたびに、彼女の瞳の奥で何かが揺れる。それは決して零れ落ちることのない、重く濁った朝露だ。誰にも見せないために飲み込み続けた絶望が、彼女の身体の中で行き場をなくして澱んでいるのを、私は肌で感じ取ってしまった。


 そんな彼女の、悲鳴のような沈黙に気づいているのは私だけのようだった。 周囲を見渡せば、学生たちは昨日のドラマや次の連休の話題で盛り上がり、構内にはいつも通りの喧騒が満ちている。一人の人間の世界が崩壊したというのに、社会は何事もなかったかのように、無機質に回転を続けている。


 ああ、そうか。 誰かが死んでも、誰かの心が壊れても、この巨大なシステムは止まらない。 絶望も悲嘆も飲み込んで、一億二千万人の壮大な暇つぶしが、今日もまた始まったに過ぎないのだ。


 それからの日々は、灰色に濁った水槽の中を漂っているようだった。 沙也加は必死に「日常」を演じていた。サークルに入り直し、他学部の男子とデートを重ねる。「今度こそ、いい人かも!」と笑う彼女の目は焦点が合っておらず、数週間後には「やっぱ違った」と乾いた声で幕を引く。 彼女は渇望していた。母の代わりとなる「生きるための燃料」を。だが、誰と会っても、何をしても、彼女の中の穴は埋まらず、ただ虚無だけが膨張していくのを、私は特等席で眺めていた。


 私とて、何もしていなかったわけではない。 昨年末、誰もいないアパートの一室で、震える指で実家の番号を押した。声を聞けば、何かが変わるかもしれない。そんな淡い期待は、受話器の向こうの母の「二度とかけてこないで」という氷のような拒絶と、無機質な切断音によって粉砕された。 ああ、やはり私には帰る場所も、すがる人間もいないのだ。 冷え切ったフローリングにスマホを落とす。とっさに自分の頬に触れたが、そこは乾いていた。拒絶された悲しみよりも、「やはりそうか」という冷徹な事実確認だけが内臓に沈殿した。 涙すら出ないほど、私の心はとっくに干からびていたのだ。


冬の深夜、枕元のスマホが震えた。 午前三時。画面には「沙也加」の文字。


『ちにたいw』とリスが嘆くスタンプ


心臓が早鐘を打つ。それは悲鳴のようであり、諦念のようでもあった。返信を打とうと指を彷徨わせた数秒後、メッセージは「送信取り消し」され、新しい通知が上書きされた。


『ごめん! 寝ぼけて変なスタンプ押しちゃった! おやすみ~笑』


画面の向こうの彼女の顔が、痛いほど想像できた。泣いてもいない、怒ってもいない。ただ真っ暗な部屋で、能面のような無表情でブルーライトを浴びているはずだ。 その時、私は確信した。彼女と私を繋ぐ糸が、限界まで張り詰め、今にも切れそうな高音を上げていることを。 けれど私は、その音が聞こえないふりをして、スマホを枕の下へ葬った。

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