「日本滅亡まで五年らしいけど、河童と化け猫と僕でなんとかします」

Mashy

第1話「日本滅亡まで五年らしいけど」

 朝のニュース番組が、いつになく真面目な顔をしていた。


『──最新の研究によりますと、日本列島はあと五年で……』


 そこで僕はリモコンを押した。

 ぴ、と音を立ててテレビが静かになる。


「……朝から滅亡話なんて聞きたくないんだけど」


 ちゃぶ台代わりのローテーブルには、焼き鮭と卵焼きと、味噌汁。

 その向こう側で、母さんがエプロンの紐を結び直している。


「悠真、ご飯冷めるわよ。テレビ消したの? 天気予報、まだだったのに」


「空、晴れてるから大丈夫でしょ。どうせ降らないよ」


「こういう日に限って夕立ちになるんだから。……って、あら」


 母さんが味噌汁のお椀を見て、首をかしげた。


「私、三人分よそったつもりだったんだけど」


「うち、二人家族だよ」


「そうなんだけど……一個多いような、少ないような……」


 母さんは困ったように笑って、余った味噌汁を自分の前に引き寄せた。


 こういうことは、よくある。


 僕がそこに座っているのに、一人分だけ足りないとか、逆に一人分多いとか。

 集合写真を撮ると、なぜか僕だけ半分フレームアウトしてたり。

 出席を取る先生が、三日連続で僕の名前だけ飛ばしたり。


 ──入間悠真(いるま・ゆうま)。高校二年生。趣味、特になし。特技、影が薄いこと。


 本人としては、特技のつもりはないのだけれど。


「それより早く食べなさい。遅刻するわよ」


「はいはい」


 味噌汁をひと口すすりながら、さっきまで点いていたテレビの黒い画面を見る。


 日本があと五年で滅びるかどうかなんて、僕にはわからない。

 けど、少なくとも今日も学校はあるし、二年二組の教室も、多分ちゃんと僕の席を用意している。


 ──できればその席で、静かに、目立たず、卒業まで生き延びたい。


 それが、ささやかな、そしてたぶん世界でいちばんささやかな、僕の願いだった。



 通学路の商店街は、いつもどおりだ。


 パン屋の前には焼きたての匂い。

 花屋の店先には、水をもらったばかりの花がきらきらしている。

 登校中の生徒たちが、その間を抜けていく。


「おい入間、今日も存在感ゼロだな!」


 背中を叩かれて、前につんのめりそうになる。


「……おはよう、犬塚」


「もっとこう、元気よく返せよ。『おはよう世界!』みたいなさ!」


「それやったら明日からクラスで喋る人いなくなると思う」


「それもそうだなー、キャラ思いっきし違うから不気味」


 犬塚晴(いぬづか・はる)。見た目も中身も、ザ・陽キャ。

 バスケ部のエースで、クラスの中心で、笑うとやたら歯が白い。


 ──そして、満月が近づくと、ちょっとだけ危ない。


「昨日の夜さ、月やばくなかった? でっかくてさ。なんか、血が騒ぐっていうか」


「そういう不穏なことをサラッと言うのやめてくれない?」


「冗談冗談。まだ平気。たぶん」


 にかっと笑うその横顔は、どこからどう見ても普通の高校生で。

 だからこそ、誰も知らない“もう半分”のほうが、余計に目立つ。


 僕たちが通うのは、県立・霧ヶ丘高校。

 一応普通科高校で、校門も校舎も、ごくごく普通。


 ──表向きは。


 昇降口で上履きに履き替え、二年二組の教室に入ると、すでに何人かのクラスメイトが集まっていた。


「おはよー。入間くん、今日も影薄っ」


「おはよう、猫屋敷」


 窓際の席からひらひらと手を振ってきたのは、猫屋敷茜(ねこやしき・あかね)。

 オレンジがかったセミロングに、猫モチーフのヘアピン。

 スカート丈は校則ギリギリ、いやアウトかもしれないライン。


 どこか気まぐれそうな笑顔の奥で、目だけがよく動いている。


 ──街角で見かける、野良猫のそれみたいに。


「おはよう、犬塚くんも。今日も元気そうでなにより〜」


「当たり前だろ。猫屋敷こそ、またピアス増えた?」


「ふふーん。よく気づいたね、イッヌくん」


「イッヌ言うな」


 ふたりの軽口をよそに、僕は自分の席にカバンを置く。

 その斜め前の席では、眼鏡の男子が黙々とタブレットをいじっていた。


「……おはよう、水守(みもり)」


「うん。おはよう、入間くん」


 水守澪(みもり・れい)。黒縁メガネに、少し癖のある黒髪。

 理系オタクで、情報処理部所属。噂では、学校のWi-Fiルーターと心を通わせているらしい。


 何をどう通わせるのかは、怖いので聞いたことがない。


「今日のネットワーク、なんかノイズ多いな……」


「ノイズ?」


「うん。パケットが変な揺れ方してる。……水の中で、電波飛ばしてるみたいな」


 水守がぽつりとそう言った瞬間だった。


 ──ちゃぽっ。


 教室の床で、そんな音がした。


 僕は思わず足元を見る。

 さっきまで何もなかったはずの床に、いつの間にか、丸い水たまりができていた。


 直径、三十センチくらい。

 雨なんて降ってないし、誰かがペットボトルをこぼした様子もない。


「え? なにこれ」


 机のそばにいた女子がのぞき込み、思わずのけぞる。


「うわっ、ちょっと待って! 今、動かなかった!? 水!」


「え、水が動くってなに。表面張力?」


「違うってば! なんか、中で泳いでたっていうか──」


 ざわざわ、と教室の空気が一気に騒がしくなる。


 その場にいた全員が、床の水たまりを囲むように覗き込んだ。

 ……はずなのに、僕はなぜか輪の外側に押しやられている。


 気づけば、僕の目の前で、人の輪がすうっと分かれた。


 のんびりと、眠そうな声がする。


「──ああ、やっぱり。ここまで漏れてきちゃってるんだね」


 さっきまで席にいたはずの水守が、いつの間にか水たまりの前にしゃがみ込んでいた。

 彼の眼鏡の奥の瞳が、じっと水面を見つめる。


 ちゃぽ、ともう一度音がする。


 水たまりの中心が、わずかに盛り上がった。

 その中から、何かの指のようなものが、ぬるり、と――


「そこまで」


 すっと、白い手が伸びた。


 猫屋敷が、人ごみの間からするりと入り込み、僕の前に出る。

 彼女の指先が、水守の腕を軽くつついた。


「ここ、普通クラスの教室だよ? 朝イチからバレるとめんどい」


「わかってる。でも、このまま放置するわけにもいかないし」


 ふたりはひそひそと声を潜めて会話している。

 クラスメイトたちは、水たまりの異変を「光の加減だったのかも」「気のせいか〜」と、早々に解釈し直し始めていた。


 さっきまで水面から伸びていた“何か”は、今はもう、どこにもない。


 ただの水たまり。

 そう思おうとした、その時。


 水守が、眼鏡のブリッジを押し上げながら、きっぱりと言った。


「──ここまで漏れ出してるってことは、旧校舎の方はもっとひどい。

 ……入間くん」


「え、僕?」


 突然名前を呼ばれて、思わず変な声が出る。


 水守は立ち上がり、僕の方に向き直った。

 その後ろで、猫屋敷がニヤリと口角を上げる。


「放課後、ちょっと付き合ってくれる?」


「付き合うって、どこに」


「決まってるじゃん」


 猫屋敷が、制服のポケットからスマホをちらっと見せる。

 画面には、学校非公式のオカルト掲示板のログが表示されていた。


《【至急】旧校舎の三階、また水浸しなんだけど ※閲覧注意》


「“学校の怪談”ってやつ。

 ほっとくと、日本が滅びるかもしれないからね」


「は?」


 日本、って今さらっと言った? 滅びるって、さっきのニュースみたいな。


 頭の中が追いつかない僕をよそに、猫屋敷は僕のネクタイをつまんでぐいっと引き寄せた。


「ね、入間くん。“見えてる側”でしょ?」


 猫のような金色の瞳が、すぐ目の前で笑っている。


「さっきの水の“手”、ちゃんと見えてたよね」


 心臓が、どくん、と跳ねた。


 ──見えてた。

 でも、見えていたのは僕だけじゃないのか?


「安心して。あたしたちも、同じだから」


 耳元で、猫屋敷が甘ったるい声で囁く。


「あたしは化け猫の血筋。で、この子は河童の末裔」


「“この子”言うな。……水守澪。よろしく、入間くん」


 水守が、どこかおかしそうに微笑んだ。


「たぶん君も、普通の人間じゃない。

 ──ぬらりひょんの匂いがする」


「ぬら……何?」


「詳しい話は、放課後。旧校舎でね」


 チャイムが鳴る。

 先生が教室に入ってきて、ざわざわしていた空気がゆっくりと座席に戻っていく。


 何事もなかったかのように、ホームルームが始まった。


 出席を取る声が、順々に名前を呼んでいく。


「犬塚」


「はい!」


「猫屋敷」


「はあい」


「水守」


「います」


 少し間が空いて。


「……あれ? 入間っていたっけ?」


 先生の何気ないひと言に、クラスがくすりと笑う。


 ──だから言っただろう。僕は影が薄いんだって。


 心の中でだけ小さくツッコみながら、僕は手を挙げた。


「……一応、います」


 そのとき、窓の外の空に、雲ひとつない青が広がっていた。


 日本があと五年で滅びるなんて話も、

 旧校舎が水浸しになってるって噂も、

 そのときの僕には、どこかテレビの中の出来事みたいに遠く感じられた。


 ──このときまでは、まだ。


 自分が、河童と化け猫と一緒に、日本の危機に巻き込まれるなんてことを、

 本気で想像していなかったのだから。

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