不可思議な殺人

     1993年 村瀬俊一

「どうだ。山形。ここの仕事慣れてきたか?」通報を受けた民家へとパトカーを走らせながら、村瀬は後輩である山形に聞いた。つい2カ月前に埼玉県警本部に移動してきた男で、少しお茶らけているのが欠点だ。おまけにまだまだ青く、思慮も浅いが、磨けばよい刑事になれる、と村瀬はおもっていた。


「ええ、大分。あと班長の顔面にも。にしてもまた殺人ですか。最近物騒ですね」


「まだ殺人って決まったわけじゃねぇぞ」


「おっと、そうですね。決めつけはダメ」


「班長がもう現場についてるはずだ。気合い入れてけよ」

「うっす」


前方に歩行者も車もいる様子はない。村瀬は少し、アクセルを踏み込んだ。


「よう。早かったじゃねぇか」


二人が現場に着いて、パトカーを降りると、中垣班長がこちらに近づいてきた。スキンヘッドに加え、頬を走る傷という刑事というよりやくざに近い風貌をしており、実際に職質を受けたことも一度や二度ではないそうだ。


「ええ、少々飛ばしたので」


「法定速度、守ったのか?」


「ええ、もちろん」


さも当然、警察官ですよ。そんなニュアンスを言葉に込めたつもりだった。しかし中垣班長は、こちらをジィっと見た後少し舌打ちをして


「まぁ、いい。現場に入るぞ」


そうして現場である住宅の中に入っていった。どうやらばれたらしい。


「一応、俺たち警察官だよなぁ」


そんな山形の独り言が聞こえたが、無視した。


現場はさいたま市南区の住宅だった。表札には佐々木と書いてある。現場には規制線が張られ、普段は静かであろう住宅街は、パトカーとマスコミ、野次馬で埋め尽くされていた。


老人の一人暮らしにしてはかなりきれいにしているな、というのが村瀬真一の第一印象だった。部屋は整理整頓されているうえに、ビールやたばこのにおいがしない。自分の一人暮らしの部屋よりきれいだな、と村瀬は思った。


殺害現場となったリビングには、ソファーにもたれかかった被害者がいた。


被害者は80過ぎの男性、身長は175センチといったところだろうか。体つきが、普通の老人よりもがっしりしている。若い時はスポーツでもやっていたのかもしれない。


着衣は乱れ、犯人と争ったことが確実である。体中には数十か所はある刺し傷があり、相当な恨みをかっていたことが容易に想像できた。しかし特に目を引いたのは喉元にある刺し傷だ。そこからはとりわけ多くの出血が見られた。


発見したのは新聞配達員の青年だった。朝いつも庭にいるはずの被害者が、家から出てこなかったため、庭から家を覗いてみたところカーテンの隙間から血を流している被害者を見つけた、とのことだった。


「死因は?」中垣班長が聞いた。


「見ての通り、間違いなく失血死ですね、特に喉元の傷が致命傷になったかと思われます。傷の形状を見るに、凶器はおそらく果物ナイフの類でしょうね」


「死亡推定時刻はどのくらいですかね」今度は村瀬が聞いた。


「昨日の午後10時から今日の午前5時ぐらいでしょうか。解剖すればもう少し絞れると思いますが」


「わかりました。じゃあ早速解剖に回しましょう」

後輩の山形がお礼を言って、三人はリビングを出た。


青年の証言から、被害者はここの住人である佐々木という男性、80代前半と思われるが、近所との付き合いはほとんどなく、子供も妻もいない、寂しい一人暮らしの老人だったそうだ。


「あそこの家の人は挨拶しても、ほとんど返事しないんですよ。愛想も悪いし、あんまり良い人には見えなかったわねぇ」


聞き込みでは大体このような意見が大半だった。しかし特段大きなトラブルもなかったようで、家から怒鳴り声や言い争ってる声を聞いたか、という質問には


「そんなことはなかった」


という答えが聞き込みを行った住民全員から返ってきたそうだ。


聞き込みを終えた捜査員たちは、みなどこか釈然としない顔で帰ってきた。なにしろ事件に関するヒントが全く出てこなかったのである。その反応も当たり前だ、と村瀬は思った。


そして普通の殺人と違う点がもう一つあった。家のどこを探しても身分証が一向に見つからないのである。保険証、パスポート、免許証、どれか一つぐらいはあるなのに、だ。

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