第3話
翌朝、目を覚ましたアリスは身体の軽さを感じ、かろやかにベッドを抜け出した。
重いカーテンを引いて、窓を開ける。
夏の朝だった。
木々は青々としていたし、空も晴れている。
そこでぐうと、アリスの腹が鳴った。
「お腹がすいたわね」
ネグリジェの上から、お腹に手を当てる。
「厨房にまだ何かあるといいのだけれど」
死を覚悟していたアリスは、ここ二日ほどは何も食べていなかった。食べなかったわけではなく、単に動けなかったのだ。
使用人達のほとんどは、ひと月前に解雇したし、最後に残った者も一週間前に暇を出したところだ。
アリスが素足に室内履きを突っかけて厨房を覗くと、そこは覚悟を決めた館の主の意志に沿って、綺麗に整理されていた。
戸棚をいくつか開ける。
と、棚にオートミールが残っているのを見つけた。
厨房はすっかり綺麗に片されているのに、簡単な食事作れるよう日持ちのする食材が残されていた。
使用人達が、長い間世話になった主人が万一回復した時を思って、食材を置いていったのだ。
「あらまあ、最後まで本当に、うちの使用人達の気のきくことと言ったら」
アリスは感心しながら小鍋にいっぱいのオートミールを作り、たっぷりの砂糖を入れる。
それを深皿に取り分けて、アリスはペロリと平らげた。
「もう少し作るべきだったかしらね」
鍋底までよそいきって、アリスは洗い物をしながら残念そうに呟く。
「食材も買い出しに行かないと。車は動かせるようになっているかしら」
私室に戻って、アリスは、長い間着たままだったネグリジェを着替えた。
ブラウス、スカート、ストッキング。
それから靴を履いてパチンとボタンを留めた。
化粧台を覗いてアリスは、うんざりとした声を上げる。
「なんてひどい髪だこと。結い上げたら少しはまともになるといいのだけれど」
ブラシでなんとか結い上げ、髪留めでとめると、ハンドバッグを探し――それからそう、お金。お金も必要だ。
アリスは金庫を開けて現金を少し取り出して札入れにしまい、ハンドバッグを腕に掛けた。
玄関を出て、車のある納屋へ向かう。屋敷の左手だ。
ナンバーを合わせるタイプの錠を回して解錠しアリスは納屋の中へと入った。
しっかりとシートを掛けられた車が一台。
燃料はしっかり入っているようだ。
「さあ、車の運転、覚えているかしらね。運転手のマイロはしぶしぶ教えてくれたけれど、やっぱりほら、習って置いて良かったじゃない?」
アリスは、自分の運転手に車の運転を習った時のことを思い出してクスクスと笑う。
『だって私の車なのに、私が運転できないなんておかしいじゃないの』
そう言った時の、マイロの顔と言ったらなかった。彼は、そうですね奥様、と言って、しぶしぶ車の運転席を降りたのだ。
アリスは、習った手順で上手くエンジンを掛けると、屋敷の敷地を抜けて、舗装もされていない泥道へと出た。
昨夜の嵐で所々に水たまりが出来ている。
ハンドルを取られないよう気をつけながら車を走らせ、近くの村の店までは2マイルほどだ。
気持ちの良いドライブをして、アリスは食品店の前へ停めると、ドアを押す。
カランカランと小気味よい音を立ててドアベルが鳴った。
店の棚に小麦の袋を並べていた主人は、アリスの顔を見て大きな声を上げる。
「これは驚いたな! マダム・レッドヘッド。村の噂じゃあ、失礼、もう亡くなった頃だろうって話だったのに!」
アリスは店主に笑顔を返して、店の中を見回した。
「ええ、私もそう思っていたんだけれど、今は元気なの。ともかく食べ物をね。お腹が空いたら元気になっても、動けやしないじゃない? ええと、まずはそこのオレンジと……」
すると、店主は、困った顔で首を振った。
「ああ、済みませんマダム。そこのオレンジはもう予約が入っておりまして」
「あら、これ全部なの?」
「そうなんですよ。新しく村の外れに傷痍軍人施設が出来ましてね。食材が向こうに流れてしまって。今度から多めに仕入れるように気を配りますよ。こいつは見込みが甘かった! 実に!」
「そうなの、分かったわ。それじゃあ、あるものを頂こうかしら」
「ありがとうございます、マダム・レッドヘッド」
そこで鰯の缶詰やパンを仕入れると、店主に呼び止められる。
「マダム、これはうちので採れたものなんですが良かったら。卵と、フラットピーチです」
「あら! ありがとう。助かるわ。桃も大好き」
「次はきっと多めにオレンジをいれておきますんで」
「ええ、よろしくお願いするわね」
買い物を済ませたアリスは、再び小気味よくドアベルを響かせて車へ戻る。
店で買えたのは重いものばかりだ。車があって良かったと、アリスはしみじみ思いながら荷物を積み込んでエンジンを掛けた。
「さてと、どうしましょうかね」
来た道を戻るには車の向きを変えるのが少々面倒だった。
アリスはぐるりと村を回って出ることにしてハンドルを切る。
すると、村の家並みの間から見慣れない大きな建物が見えた。話に聞いた傷痍軍人施設だろう。
その横を通過して道をゆるやかに折り返し、村を出た。
来た道を戻るだけだ。
慣れた運転に、アリスは行きよりも道を飛ばして車を走らせる。
すると、突然ガタンと音がして、車体が左へとかしいだ。
どうやらただの水たまりと思って踏み越えようとしたぬかるみが、思いのほか深かったらようだ。
アリスはなんとか車を出そうとアクセルを踏むが、タイヤは泥水を跳ね散らかすばかりで、一向に車は前に進まない。
どころか、車はおかしな方向へとますます傾いてしまった。
「こんな事ってあるかしら!」
アリスは運転席で途方に暮れる。
「全部上手くいってたのに、もう!」
すると、騒ぎを聞きつけて、一人の青年が道脇の草原からやってきた。
蜂蜜のような金髪に、そばかすを浮かべた青年は、二十五、六歳と言ったところだろうか。
彼は片足を引きずりながら、車を見つけてやってくると、アリスへと声を掛けた。
「マダム! どうしました!」
「タイヤがぬかるみに嵌まってしまったみたいなの!」
アリスは窓から青年へ答える。
「それはお困りでしょう、どれ、車を押しますから、ハンドルを持っていて下さい」
青年は爽やかに笑って、車の後ろへと回る。
「でもあなた、その足では申し訳ないわ……」
アリスの言葉に、青年は少しだけ寂しそうな笑顔を見せると、胸を叩いた。
「大丈夫ですよマダム。僕はひとりではないんで」
そう言うと彼は、小高い丘になっている草原の向こうへと声を掛ける。
「おおい! 皆! ちょっとこっちへ来てくれないか! マダムがお困りのようなんだ」
その声を聞きつけて、数人の男性が賑やかにやってきた。
「どうしたジョージ!」
「車がぬかるみにはまってる! 皆でちょいと押したやりたいんだ!」
「そうか! わかった!」
よく見れば、やってきた男達は、片耳がなかったり、片腕がなかったり、指先が欠損しているもの達ばかりだった。
「あなた方……軍人なの?」
アリスがはっとして尋ねると、ジョージと呼ばれた片足のない青年が、こともなげに答える。
「ええ、そうでした。でしたというのも、戦争であっという間に片足を吹っ飛ばされちまいましてね。もう、軍人ではなくなっちまいましたから」
「お気の毒に」
アリスは、傷痍軍人達の痛ましい姿を見て、心からそう思った。
「なあに、ここへ来て生活するうちに、コイツにもだいぶ慣れましたよ」
コンコンと義足をノックして、ジョージはもう一度振り返る。
「さあみんな、力を貸してくれ!」
ジョージのかけ声に、4名ほどの傷痍軍人達が車の後ろに回ると、力を合わせて押した。
ごっとんと車体に衝撃が走り、アリスはハンドルを取られそうになるが、なんとか切り返して道の方向へと車を戻す。
程なく、アリスの車は泥濘を抜けた。
「ありがとう、本当に助かったわ」
アリスは、彼らに礼を言う。
心の中で、軍人達というものをまるで知らなかったことを恥じ、知ろうとしてこなかったことをアリスは悔やんだ。
「いいんですよ。困った時はお互い様だ」
彼らも同じ人間なのだ。
「何かお礼がしたいわ」
「良いですよ、そんな」
ジョージが辞退すると、横にいた指の無い傷痍軍人がジョージの肩を叩いた。
「ジョージ、マダムに、あれの声をかけたらどうだ」
言われて、ジョージもはっとした顔をする。
「ああ、それはいいな。マダム。実は、今度教会で、戦争孤児のためのバザーを教会でやるんですよ。良かったらパイでも焼いて持ってきてくれませんか」
「バザー?」
「俺たちみたいに、命があったのはまだ良い方で、死んじまった奴らの中には妻も子もいた奴もいる。その助けにと思って、俺たちも手伝うんです」
「そうなの……」
アリスの胸が、ずきりと痛んだ。
「マダム?」
暗く影の差したアリスの表情にジョージが声を掛けた。
「気を悪くされたらすみません。ねだるようなことを言って」
「いいえ、違うのよ。あの……そう…そうなの」
ジョージや傷痍軍人達を見回して、アリスは言った。
「それは、上手くいくといいわね。私も協力させて貰うわ」
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