第2話
百年前 イギリス ロンドン郊外
豪奢な寝室には天蓋付のベッドが置かれ、一人の老婦人が、もうずいぶんと長い間床についていた。
時折、苦しげに上げる呻き声を聞きつけ。
忍び寄ってきたのは、一疋の悪魔だ。
「こんばんはアリス」
「あら誰かしら。こんな夜中にお客様だなんて」
「悪魔ですよ」
暗がりから声がする。姿はよく見えない。
窓はカーテンが覆っており、月明かりも射しては来ない部屋だった。
「そうなの? 私は呼んだ覚えはないけれど。召使い達にもとうに暇を出したし、この屋敷には今、私以外誰もいないの。お茶も出せずにごめんなさいね」
ふうふうと息を継ぎながら、息苦しそうに老婦人──アリス・レッドヘッドは、弱々しく微笑んだ。
「てっきり天使様が迎えに来る物だと思っていたのだけれど、私はそんなに悪行を重ねていたのかしら」
「別に、アリス。あんたはただ歌をうたっていただけだよ。孤児院に寄付もしなかったし、戦争の慰問にも行かなかっただけさ」
「戦争は嫌いだよ。誰が兵隊なんて慰めてやるものか」
「おやおや、愛国心が欠片もないって噂は本当なんだね、歌姫アリス。オペラと言えばあんたの名前を知らない者はいないというのに」
「知ったことかね。私の全ては歌だよ。歌だけ。私を助けてくれたのも歌。歌がなかったら、私はとっくに裏路地で野垂れ死んでた。それにしても不思議ね、今夜はよく喋れるわ。いつもなら息切れして二言も話せないというのに。それとも私はもう死んでしまったのかしら?」
「ふふ、魔力でちょっとね。アリス。話せるようにしているのさ。本当を言うとね、あんたにお迎えが来るのはまだ先なんだ。その前に、私と契約して願い事を叶えるというのはどう?」
「あら。どんな願い事が?」
「なんでも? 皆が望むのはたいてい、若さにお金に美貌。でもあんたは最後の二つはもう持っているのだから、最初の一つ目なんてどう?」
「若さ? 私は若さを十分に生きたわ、もう結構。思い残すことなんて何もないわね」
うんざりした声に、悪魔が笑う。
「本当に?」
「ええ、でも、そうね。この病を治せるものなら治したいわ。あまりに苦しすぎる。今すぐにでも死んでしまいたいくらい」
「身体中の筋という筋が弱っていく病なんだろう? アリス。そのうちに肺腑も止まって、生きながらに呼吸も出来ず──」
「そう身体中の何もかもが弱って、最後に死ぬの。それが怖くて」
「アリス、それなら健康を手に入れるというのはどう?」
「そうしたら私の寿命が延びてしまうのではなくて?」
「いいえ、アリス。あんたの寿命が尽きる日が来たら、あたしが魂をもらい受けるだけだよ」
「あと何年生きられるの?」
「それは教えられない。さあどうする?」
アリスは即答した。
「いいわ。あげましょう」
「本当に?」
「私がこんなに苦しんでいるのに、見向きもしてくれない神様なんかあてに出来ないわ。この苦しみがまだ続くというなら、本当に今すぐ死んでも構わないの。悪魔さん、あなたお名前は?」
「ジャナ」
枕元のランプに灯りを点し、暗がりから姿を現したジャナは、驚いた顔をしていた。
「ジャナ・ドブラノ。長いこと悪魔をやってきたけれど、名前を聞かれたのなんて初めてよ、アリス」
「そう。それじゃあ、よろしくお願いするわね、ジャナ」
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