夢物語を語らせて

霧澄藍

夢物語を語らせて

 この世界にはたくさんの人間がいて、それぞれに人生があって、家族がいる。太陽も風もなにもかも平等に恵みを与え、僕たちの幸せを願っている。じゃあ、僕の願われた幸せは?

 東の空がほのかに色づき始めたのを眺めながら、スークはそんなことを考えていた。

「家族がいたら、幸せなのかな」

 小さく、そんな言葉が零れ落ちる。今さら何を言っても変わらないのはわかってても、寂しい朝焼けの前に、そんなことを思わずには居られない。

「あれ?スークもう起きてたの?今日は絶対一番だと思ったのに」

 トーアが窓際にやってきて、スークの隣に座った。トーアの不機嫌そうに尖らせた唇が、スークを現実に引き戻す。いつもと変わらないトーアに、安心して表情が緩んだ。

「おはようトーア。今日は早いんだね」

「何?嫌味?子供扱いしないでよ」

 トーアはスークの、この孤児院で唯一の同い年の子供だ。ここには4歳くらいから16歳くらいまで、いろんな年齢の子供がいるけれど、10歳は多分二人だけ。皆いろんな事情があるから、正確な年齢はわからないし、もしかしたらもう少しいるのかもしれないけれど。

「それ、昨日の続き?」

 トーアがスークの手元の紙をのぞき込んだ。

「ううん、昨日から何も進んでないよ。やっぱり、トーアの絵を見ながらの方が、話が思い浮かんでくるんだ。一人だと、考えてばっかで…全然言葉にならないから」

「そう。じゃ、私も描こうかな」

 スークの隣に腰かけて、トーアは紙を取り出した。紙といっても、近くのごみ置き場から拾ってきたものだから、ところどころ汚れたり、ちぎれたり、印刷が入っていたりするけれど、構わない。もう小さくなった鉛筆を握りしめるように持って窓の外を見る。

「今日は…きっと晴れるね」

「何で?」

「ほら、昨日の夕焼けはよく見えなかったけど、今日の朝焼けはすごい綺麗だから。なんかいいことありそう」

 そう言うと、トーアは紙に鉛筆を走らせる。紙の上に、次から次に線が描かれ、曲線が出来上がり、そして…

「え、これって」

「そう、スークだよ!」

 完成したのは、スークの絵だった。

「誕生日おめでとう。本当は、スークが起きる前に描きたかったんだけど」

 本の中でしか見た事が無い、スークにとって初めての「誕生日プレゼント」だった。スークは孤児の中では珍しく、誕生日がわかっている。捨てられたときに、誕生日と名前だけ、添えてあったのだ。祝ってもらえないなら欲しくなかったと、毎年毎年思っていた。

「ありがとう」

 トーアの絵を、曲げないように、落とさないように大事に持つ。初めて、自分の誕生日に感謝して、トーアに感謝して、そう言うので精一杯だった。

「お前たち!早く起きなさい!さっさとしないと地下室行きだよ!」

 階段の下からルワジーの声がした。イテイサ孤児院の朝は早い。ルワジー・イテイサは孤児たちを容赦なく働かせる。

 いつもなら陰鬱に始まる一日が、今日はトーアのおかげで辛くない。

「ほら、スーク、行こ。ルワジーがまた鬼みたいになっちゃう」

 トーアは手早く紙をまとめて、窓の前の床下に隠した。そこは少しだけ床板が外れてて、二人の秘密の物置になっている。スークも手に持っていた紙をまとめてしまうと、床下のスペースはかなり狭くなった。

「増えてきたね…最初は本一冊だったのに」

 スークとトーアが仲良くなったきっかけの、一冊の本。ゴミ出しにいったトーアが持ってきた絵と文字で彩られた本だ。今ではトーアの絵とスークの文章が増えて、かなり床の奥に追いやられてしまっている。

「それだけ私たちが夢に近づいたってことだよ」

 二人が持つ夢。それは、トーアが絵を描き、スークが文字を書き、二人で絵本を作ること。夢のない孤児院生活の中で、二人はそれだけを未来に見据えて生きている。

 トーアは立ち上がると、年下の子供たちを起こすためにベッドへ向かった。スークも手伝おうと思ったところで、ふとトーアから貰った絵をしまい忘れたことに気が付いた。隠そうかとも思ったが、そろそろルワジーが来てもおかしくない。四つに折りたたんで、そっとズボンのポケットに入れておくことにした。



   ◆



 どんよりとした曇り空が広がる昼間の通りに、馬車の走る音が響く。さっきまでのにぎわいが嘘のように、大通りを外れると人通りは減少して、馬の蹄の音、車輪の回る音だけが鳴る。

 馬車の中で、カガンマは一人窓の外を眺めていた。日常、外出が少ない彼であるが、別に外が嫌いなわけでは無い。流れていく空、雲、木をぼんやりと眺めるのは新しい創作意欲が刺激されて、むしろ楽しく眺めていたものである。

 しかし、今日に関しては違う。流れる景色は何も呼び起こさず、出てくるのはため息ばかり。その理由は、少し前に遡る。



「はあ、馬鹿じゃないの!?あんたねえ、結婚もろくにしないで出てくなんて、社会舐めてるの?」

 マベータが時間の無駄だといわんばかりにカガンマの発言を一蹴した。

「まあまあ。マベータもそう熱くならない。カガンマにもきっと何か考えがあるんだろ」

「でも兄さん、」

「ほら、教えて」

 トスライ家当主、アルファイ・トスライは手に持っていた書類を置いて、弟に向き直った。

 トスライ家は、百年前から続く老舗の呉服屋である。先代が早逝したため、アルファイ・トスライが若くして社長を務め、妹のマベータとともに経営している。弟のカガンマは、昨年成人したばかりであった。

「兄さん、姉さん。僕は画家になりたいんだ。だからこの家を出ていく」

「本当に馬鹿なの⁉いい学校出て、少しは家のために働こうとか思わないわけ?父さんが死んで兄さんがどれだけ大変な思いでこの会社守ってくれたと思ってるの⁉」

「僕は!姉さんみたいに頭がいいわけじゃないんだ。そりゃ、もちろん感謝はしてるし、兄さんに申し訳ないとも思う。でも、僕はこのままここには居たくない。もう子供じゃないんだ」

 口論が加速していくマベータとカガンマの肩に、アルファイがそっと手を置いた。

「二人の言いたいことはよく分かった。まずマベータ、これはカガンマの人生だ」

「だけど」

「わかってる。マベータの言ってることももっともだ。だからカガンマ、僕らに一人立ちしてもちゃんと生きていけることを示してごらん。それで僕とマベータが認めたらあとはカガンマのやりたいようにすればいい」

 異論はないね、と有無を言わせない迫力で二人に尋ねる。カガンマはゆっくりと頷いた。

 そんなカガンマを一瞥すると、マベータは大きくため息をついて部屋を出て行った。

「ねえ、兄さん。どうすれば兄さんは認めてくれる?」

「それを考えるんだ。もう子供じゃないんだろう?」

 アルファイは再び持っていた書類に目を戻した。もうきっと、何を聞いても答えてはくれないのだろう。

「わかったよ。絶対認めさせるから」

 特に何が思いついたわけでも無かったが、少しだけ見栄を張って部屋を飛び出した。



 そして、今に至る。

 あの後、とりあえず何かできることはないかと考えて、絵を描いて生計をたてる絵描きになる方法を探した。別にトスライ家にいるみたいないい暮らしがしたい訳では無い。絵だけ描いて生きていくなら、絵を売って稼いだお金で食いつなげればいい。そう思ったが、現実は甘くなかった。

 今まで、家の中で、家族やメイドに絵を褒められたことしか無かったから、自分には才能があって、きっとうまくいくと思ってたけど、絵で食べていくことができるのは一握りで、上手いだけじゃ駄目みたいだった。

―――社会舐めてるの?

 認めたくはなかったけど、マベータの言葉が何度も何度も蘇ってその度に実感が増していく。

 絵描きの道が無理だと頭ではわかっても、ここから家に戻るのは意地でも嫌だった。だから、他の方法を探すしかない。

 他の方法。言うのは簡単でも、見つけるのは難しい。考えれば考えるほど、マベータとアルファイの顔がちらつく。そういえば、身近に参考にできそうな大人は二人しかいなかった。母親は物心つく前に亡くなってしまったし、父親もずっと忙しくて一緒に過ごしたのはたまの夕食くらいなものだった。その父親だって、カガンマが中等学校に入る前に亡くなった。

「結婚すればいいのか…?」

 ふと、そんな考えが思いついた。今まで漠然と一人で生きていくことばかり考えていたけど、よく考えたらそれは無理な話だ。誰かと一緒に暮らさないといけない。なら、結婚してしまえば、少なくともアルファイとマベータは自立を認めざるを得ないのではないか。

 都合の良すぎる話かもしれないけど、もしその相手が僕の絵を認めて、僕に絵だけ描かせてくれるなら、願ったり叶ったりだ。少しだけ希望が見えてきた。

 では、どうやって結婚すればいいのだろうか。両親は知らないが、アルファイとマベータはどちらもお見合いしてトスライ家に籍を入れてくれる相手と結婚した。ただ、この方法だとトスライ家に頼ることになるから使えない。

 他に、となるとよく童話で出てくるような出会いによって出会うしかない。でもここは物語の世界ではないし、もっと他に方法があるのだろうか。学生の頃、ずっと結婚は家が決めた相手とするのだと諦めて絵ばかり描いていたから、この手の話題は本当にわからない。もっと興味を持っておくべきだったと少し後悔した。

 誰かいないか、と思って外を眺めてみても、もう大通りは抜けて次の町への道のりなので、そもそもあまり人が居ない。都心に置いていかれた建物が立っているが、どれも古びていて、どんな人が住んでいるのかは想像に難くない。今日は隣町の画材屋まで行くという名目で馬車に乗っているので、しばらくはこの景色だろう。

 ふと、石畳の地面に描かれたうさぎの絵に目が留まった。おそらく水で描いたのだろう、何の変哲もないような絵だったが、カガンマは目が離せなかった。御者に馬車を止めるように言い、石畳に降りる。

 近くで見れば見るほど、まるで動き出しそうで、温かそうで、地面から取り出せないのがもったいないほどの絵だった。カガンマの絵は、全体的に風景画が多い。そこには、生物や人はほとんどいない。 

 このうさぎを、自分が描いた絵の中で走らせてみたかった。

「あの、何見てるんですか?」

 一人の女の子が、後ろから声をかけてきた。十歳か、もう少し下くらいに見えるその子は、汚れたぼろぼろの服を着て、大きなバケツを持っていた。

「いや、この絵がすごい良いなって思ってね。君が描いたの?」

「そうよ。私絵を描くのが好きなの」

 女の子はそう言って笑った。

「へえ、すごいね。このうさぎの今にも動き出しそうな感じ。すごい好きだよ」

「ありがとう。まさかお兄さんみたいなお金持ちに褒めてもらえるなんて」

「お金持ち?」

「だってそうでしょ?いい服着て、馬車に乗ってる。そういう人はお金持ちって言うんだって先生がいつも言ってる」

 カガンマはトスライ家と同じような家の人としかほとんど会う機会がなかったので、そんな風に言われたのははじめてだった。

「君、名前は?どこに住んでるの?良ければ他の絵も見せてくれない?」

「一気に質問しないでよ。えっと、私はトーア、十歳。イテイサ孤児院に住んでる。あ、でもルワジー先生には絵のこと秘密にしてるから、来ちゃダメだよ」

 孤児院でこの服装ということは、おそらくあまりろくな扱いは受けていないんじゃないだろうか。なら、孤児院から出たいと思っていてもおかしくない。

「トーア、孤児院から出たいと思わない?僕の所に来たら、沢山絵を描かせてあげる。ううん、絵を描いてるだけでいいんだ。僕も絵描きなんだけど、僕は風景画が得意なんだ。だから、トーアと一緒に絵を描きたい」

「それってつまり、私のことを引き取ってくれるってこと?」

「ああ、そうだ。あ、言い忘れてた。僕はカガンマ・トスライ。呉服屋トスライって知ってる?」

「知らない。でも、絵が描けるんだったら、トスライさんの所に行きたい」

「じゃあ決まりだ。準備があるから、また五日後…いや、三日後には迎えに行くよ。あ、ちょっと待ってて」

 カガンマは馬車に戻ると紙とペンを取り出した。

「トーアの所の孤児院長に手紙を書いておくよ。三日後に迎えに行きますって。名前、教えてくれる?」

「ルワジー・イテイサよ」

 馬車の座面に紙を置いて、手紙を書く。少し迷ったけど、やっぱりトスライ家の紋章を入れた。

「でも、ルワジーが許してくれるかしら…今になって、少し心配になってきちゃった」

「これ、渡してくれる?そうしたらきっとうまく行く」

「本当に?」

「うん」

 トーアが一気に笑顔になったのを見て、こっちまで嬉しくなってきた。トーアと二人なら、きっと何でもうまく行きそうな、そんな予感がした。

「じゃあ私、そろそろ行かないと。怒られちゃうから。ありがとう!またね!」

「また三日後に会おうね」

 トーアが見えなくなるまで見送って、馬車に乗りなおした。トーアのためにも画材をそろえなくては。

 いつもと同じ画材屋への道が、未来へと続く道みたいに見えた。



   ◆



 マベータの怒鳴り声が家中にこだまする。思っても居なかった事態に、カガンマは固まってしまった。

「そこまで何も出来ないと思ってなかったわ。どうするのよ兄さん、救いようがないじゃない」

「何、姉さん。僕の何が駄目だったの?」

「全部よ」

 マベータはソファに腰を下ろすと、大きくため息をついた。

「一人で生きていくだけじゃなくて孤児を引き取って育てる?カガンマにできるわけないでしょう」

「出来るよ。僕もう大人だよ、馬鹿にしないで」

「じゃあ聞くけど、今、どこまで準備できてるの?明後日引き取るんでしょう?」

「準備って…ああ、画材はトーアの分まで用意したよ。僕のじゃ難しすぎるだろうしね」

 カガンマは満足したように笑ったが、マベータは呆れて怒る気力すら失せてしまった。

「画材じゃ生きていけないでしょ?住む家とか、服とか、食べ物とか、何より、生活するためのお金とかどうするの?この家から出ていくって本気で考えてたのよね?」

「もちろん本気さ。だけど、住む家だって、トーアと一緒に決めた方が良いと思うし、服もサイズがわからないし、食べ物は置いとくと腐るから、用意も何も出来てないだけ。お金は、しばらく僕の貯金を使って、生活が安定してきたらトーアと絵を描いて稼ぐつもり」

「……ほんとに何も考えてないのね。その女の子が可哀そうだわ」

 マベータがあまりにも納得してくれないので、カガンマはアルファイの方に向き直った。そう、別にマベータが理解してくれないならまあそれでも仕方ない。もともと当たりが強かったし、そのくらい予想はしていた。結局、この家の当主はアルファイなのだから、アルファイが認めればそれでいいのだ。

「兄さんも僕の自立を認めてくれないの?」

「これに関してはマベータと全くの同意見だ。カガンマ、人を一人養うってどういうことか、分かってないだろう。相手は十歳だ。カガンマの一挙一動でその後の人生に大きな影響を受ける可能性だってある。その覚悟さえ全く見えない。このままなら、僕は絶対に賛成できない。養子縁組もいったん白紙に戻しなさい」

 養子縁組、という言葉にカガンマは引っかかった。そんなこと、一言も言ってない。

「兄さん、姉さん、何か勘違いしてない?僕は養子縁組するつもりはない。ただトーアを引き取って、一緒に暮らそうと思ってるんだ。それに、養うっていったって、相手はもう十歳なんだから、一通りのことは何でもできると思うんだよね。そこまで困ることもないって言うか…」

「何?親子でもない子供と一緒に暮らそうとか考えてたの」

「親子って言うか……僕的には結婚も視野に入れてる。ほら、姉さんも言ってたよね。結婚もしないで出てくなんてって」

 その瞬間、大きな音がしてカガンマは気が付いたら床に倒れていた。

 マベータがカガンマの頬を殴ったのだ。

「姉さん…?」

「夢を語るのもいい加減にしなさい。まだ家を出たいとか言ってたのは可愛い子供の夢だったわよ。でも、何?一回しか会ったことのない十歳の女の子と結婚したい?馬鹿言うんじゃないよ!気持ち悪い。相手の人生どう思ってるの?どれだけその子が傷つくか分かってる?」

「…っ、別にトーアが嫌って言ったら結婚しないよ。それに、姉さんだって父さんと兄さんが選んだ一回しか会ったことない十歳上の男性と結婚したじゃないか!それと一緒だよ」

「何も一緒じゃない!少なくとも私はちゃんと自覚して、ずっとその結婚を知って生きてきた。十分納得してるし、実際の結婚は成人した後だった。あんたが今やろうとしてるのはね、一人の人生を壊す行為のなのよ。わかってないでしょ」

 マベータの目にうっすらと涙が浮かんでいた。

「……本当に馬鹿。ごめんなさい兄さん、私もうカガンマの面倒見られない」

 それだけ言い残すと、ドアを開けて出ていった。

 マベータらしくない行動に、自分がどこかで大きく間違えたらしいことはわかったけれど、どうしてもいまいちわからなかった。

「カガンマ、昨日の、その女の子とはただの口約束しかしてないんだよね?」

「え、あ…手紙は渡したよ。孤児院長に話を通しておかないとなって思ったから」

「そうか…。じゃあ断りの連絡をしてきなさい。この話は一旦無かったことにしたほうがいい」

 アルファイの気迫に押されて、電話をかけようかと思ったけれど、そういえば連絡先を知らない。孤児院の名前は聞いたから、直接行くしかないかと考えていると、アルファイに念を押された。

「今のカガンマじゃ自立は認められない。悪いけど、家から出るのも難しいと思う。でも、だからって、ううん、だからこそ、もっと大人にならないと駄目だよ。いつかはトスライの名前を背負うんだから。今回みたいなことでも自分の足元を掬われる。そういう世界が待っているんだ」

 もう同じ部屋には居たくなくて、最低限の返事をしてドアノブに手をかけたとき、ふと、手紙にトスライ家の紋章を入れたことを思い出した。これは家の名前を背負ったことにはならないだろうか。言いたくないけど、今を逃したらもっと取り返しがつかなくなる可能性だってある。いつものカガンマなら間違えなくこのまま出ていくのだろうけれど、今は怒られた直後だ。不安でしかなかった。

 迷っていることに気づいたのだろうか、アルファイがこちらを見ている。

 勇気を出して、言うことにした。

「兄さん、……僕さ、トーアに渡した手紙にトスライ家の紋章入れたんだけど、それってまずかったかな」

 アルファイが見たことのない顔になって、大きくため息をついた。

「それは…家の公式書類にしたということか?」

「うん。そのほうが上手く行くって、そのときは思ったから。ほら、せっかく教えてもらったし、使おうと思って…」

 丁度一週間くらい前、アルファイがカガンマに教えたのだ。これから働くにあたって必要なこととして。あのときは不要だと思ってたけど、いざ使えて嬉しかったのだ。

 アルファイがゆっくりと顔を上げて、カガンマを見つめた。

「カガンマ、その女の子、トーアだったか?引き取りなさい。内輪の問題で養子縁組を白紙にしたとなれば、トスライ家の名も傷つく」

 アルファイのまさかの発言に、そうではないとわかってはいたが頬が緩んでしまった。が、もちろん甘い話ばかりではない。

「カガンマ、もう家を出ていくことは許せない。その女の子はトスライ家で引き取る。カガンマもトスライ家の中で生きていきなさい」

「え、それは…」

「決まったことだ」

 考えていた未来が崩れる音がした。アルファイがカガンマを一瞥して部屋を出ていく。

 どうすればいいかはわからないでも何もしないわけには行かなかった。トーアが来るのだ。

 アルファイはよく、「現状からの最適解を探せ」と言っていた。ちょっと癪だけど、この方法を借りよう。今なら、そうだ。トーアと一緒にこの家で絵を描こう。トスライ家ならお金に困ることだってない。なら、これでいいんじゃないだろうか。

 少しだけ希望を持って、誰もいない兄の部屋を後にした。



   ◆



 驚くほどの速さで三日が経過し、とうとうトーアを孤児院に迎えに行く日になった。結局、迎え入れる準備は使用人たちがやってくれて、手伝おうと思ってもカガンマは蚊帳の外だった。

 久しぶりの子供ということで、屋敷全体がなんとなく忙しない。でも少し楽しそうだ。やっぱり反対するのは姉さん達だけじゃないか、とカガンマは小さく呟いた。

「何か言った?」

 隣に座るマベータがギロリとこちらを睨む。もう学んだ。これは何も言わないのが正しい。

「何でもないよ、それより、なんで姉さんはついてくるのさ」

「カガンマが頼りないからに決まってるでしょう」

 当たり前だと言うように、マベータが大きくため息をついた。距離を置きたい空気だけれど、馬車の中でそれは無理な話だ。

 今、カガンマはトーアを迎えに馬車で孤児院まで向かっている。先にアルファイが連絡を入れてくれたらしく、行けばすぐに引き取れることになっているらしい。カガンマの話から孤児院を特定し使いを送ってくれたのだ。なんだかんだ優秀な家である。

 始めアルファイは、カガンマを家から出さず、部下に迎えに行かせようとしていた。けれどトーアはカガンマのことしか知らない。だから止めたのだ。説得はできたがマベータがついてきた。

「私だって行きたくないわよ、本当は。でも仕方ないじゃない。兄さんは忙しくて、カガンマは一人じゃ危ないんだから」

「危ないって…僕もう子供じゃないんだけどな」

 マベータが諦めたように息をついて窓の外を見た。帰り道はこの馬車の中にトーアも乗るのだ。それまでにこの空気をどうにかしないといけないけれど、いい方法が思いつかなかった。

「ほら、そろそろみたいよ」

 マベータの言葉にカガンマも外を見る。住宅街の中に、少し大きめの建物が見えてきた。あれがイテイサ孤児院らしい。お世辞にも綺麗ではないが。

 ドアの前に馬車が止まると、すぐに中からドタバタと階段を降りる音が聞こえてきて、ドアが勢いよく開かれた。

「ようこそいらっしゃいました、トスライ様。私、ここの院長のルワジー・イテイサと申します。さあ、どうぞ。こちらへ。ほら、案内しなさい」

 ルワジーが近くにいた子供たちに指示を出し、カガンマとマベータは奥の部屋に案内された。間違えて物置に来てしまったかと思って入口で立ち止まると、後ろから歩いてきたマベータに押された。椅子と机だけの簡素な部屋だったが、どうやらここが応接室らしい。

「さあさあ、トスライ様、どうぞお座りくださいな。今お茶をお持ち致しますね」

「ありがたいですが結構です。こちらが突然押し掛けてしまって…。お忙しいでしょうし、長居するつもりもありませんので」

 社交用の微笑みを張り付けたマベータがルワジーの提案を断った。なぜだろう。お茶くらいもらえばいいのに。そんなに嫌なのだろうか。

「いえいえお気になさらず。トスライ様にお越しいただけるなんてありがたいことですから。ほらもううちの子たちが持ってきましたわ。どうぞ」

 給仕してきた子供から少し距離を取るようにマベータが体勢を変えた。そういえばマベータは子供が苦手だったことを思いだした。お茶にも一切手をつけない。こんな場所だからどんなものが出てくるかと思えば、普通の紅茶だったのに。

「さて、今日は孤児の引取りでしたね。トーア、おいで」

 ルワジーに呼ばれてやってきたトーアは、前で会った時よりも幾分か整った服を着ていた。トーアはカガンマを見ると、小さく笑った。

「必要書類はこちらです。今回は養子縁組でございますよね?お父様とお母様のお名前をこちらに」

「あ、母親はまだ居ないので父親の名前だけになるのですが大丈夫ですかね?」

 カガンマが確認を取ろうとすると、ルワジーが大きく目を見開いた。

「あら、そうなのでございますか?お二人は夫婦ではなく?」

「いえ、姉弟です」

「あらあら、ということはまだご結婚前…お相手の方は今日はいらしていないのですね」

「いえ、まだ相手も居ないもので」

 マベータに足を軽く蹴られて見ると、社交用の笑みのままにらみつけてきていた。何かやってしまっただろうか。わからなかった。

「あらあらあら、ということは、まだお相手を探していらっしゃるのですね…丁度良かったですわ。実はトーアはとても体が弱いんですの。食べられないものも多くて、食べるものを間違えると息ができなくなったりすることもありまして…。私のそばから離れるのがすごくすごく心配でしたの」

 そんな事知らなかった。トーアの方を見ると、ルワジーに向かって目を見開いていた。

「先生、それは」

「トーア!あなたのこれからのお父様となる方ですよ。自分の価値が下がるようなこと、知られたくないのかもしれないけれど、先に言っておかないとダメよ。…ということでトスライ様。私はトーアのことを熟知しております。あと、実は私トスライのお洋服も好きで詳しいのです。ほら、このトーアの服も私のお下がりで」

 どこかで見た事のある服だと思ったら、家の倉庫にあった服だった。確か三十年くらい前の服だが、トスライのもので間違いない。

「私、この子のことをとてもかわいがっているのです。ということで、どうでしょう?トーアを養子にするとともに、私をトーアの母親にしていただけませんか?トスライ様」

 ルワジーが真っすぐにカガンマの方を見てくる。悪い話ではないと思った。結婚すれば、アルファイやマベータに認めてもらえるかもしれない。そして、トーアに持病があるならば、詳しい人は近くにいた方が安心できる。

 カガンマが了承しようとしたそのとき、マベータが大きく咳払いをしてルワジーに向き直った。

「トーアの持病について、もう少し詳しくお聞きしたいですね。その点について、この弟はあまり病気に詳しくないので私一人でお聞きしますわ。その間、カガンマはその女の子と絵でも描いていたら?ああ、ついでに今のその子の暮らしも見ておきなさい。案内してもらえる?」

 マベータの圧に押されて、トーアが大きくうなずいた。

「姉さん、契約するのは僕だよ。もう子供じゃないし」

「名前だけ書けば十分でしょう?ほら、早く行きなさい」

 ルワジーも何か言いたそうだったし、カガンマも釈然としないまま、トーアに引っ張られて部屋の外へと出た。まあ、正直書類とかよりもトーアと絵を描いて仲を深める方が楽しそうなので、別に無理に戻る気はないが。

 少し廊下を歩いたところで、トーアがこちらを向いて、真剣な表情で口を開いた。

「カガンマ…さん?お願いがあります」

「どうしたの?」

「スークを…私の友達を、助けてほしいんです」

「え?助ける?」

 その後、トーアの口から語られた話は衝撃的だった。

 トーアは持病なんて持っていなくて、全てルワジーが結婚するためについた嘘だったこと。

 ルワジーは孤児に対しての扱いがひどく、今日みたいな服を着せてもらったのは初めてだということ。

 ルワジーに気に障ることをした孤児が、食事も与えられずに地下室に閉じ込められること。

 そして、トーアの一番の親友のスークが、今地下室に閉じ込められているということ。

「今日、スークは応接室の準備をするように言われてたんです。でも、応接室なんてどうしたら良いかわからないから、掃除しかできなかったみたいで、セッティングされてないって、ルワジーが怒って。それで、地下室に」

「スークは、トーアにとって大切な友達なの?」

「はい。カガンマさんが、私に、カガンマさんの背景に絵を描いてほしいっていってくれましたよね?スークは、私の絵に文章を書いてくれるんです。私たちの夢は、二人で絵本をかくことで、本当は離れ離れにはなりたくなかったんです。でも、私はカガンマさんの娘になるから、会えるのは今日が最後で…。今の私はルワジー先生が怖くないから、助けて、それで、別れたいんです」

 カガンマの脳内に、一つの考えが浮かんだ。スークを、トーアと一緒に引き取ることはできないだろうか。そうすれば、二人は離れ離れにならなくて済むし、カガンマの作品の幅も広がる。

「トーア、僕がスークも一緒に引き取るよ。三人で絵本を描こうよ」

「え、いいんですか⁉」

「うん」

 アルファイやマベータの顔が浮かんだが、この状況を話せばきっと理解してくれるだろう。

「地下室に案内してくれる?」

「はい!こっちです」

 廊下を小走りで移動し始めたトーアを追いかけて、カガンマも地下室に向かった。



   ◆



 心細くて、さみしくて、膝を抱えて座る。ずっと一人で生きて来たはずなのに。失うものなんてなかったはずなのに。自分の中で、トーアの存在は思っている以上に大きかった。誰もいない地下室が、もうトーアとは会えないと実感させてくる。

 上が騒がしくなったと思うと、機嫌のいいルワジーのキンキンした声が遠くで聞こえた。何を言ってるかは分からないけれど、きっとトーアの引き取り先が来たのだろう。

 ふと、自分の服のポケットに紙が入っていることを思い出す。トーアからの誕生日プレゼントだ。人生最初でおそらく最後のプレゼント。ちょうどあの日、水くみから帰ってきたトーアがうれしそうに言ったのだ。「引き取り先が決まった」と。素直に祝福できない自分が嫌だった。

 思い出すのも悲しくて、膝に顔を埋めて小さくなる。

 どれくらいそうしていただろう。不意に、地下室のドアが大きく叩かれた。

「スーク!?居る?」

 トーアの声だった。最後に会いに来てくれたのだろうか。でもこの部屋の鍵はルワジーしか持ってない。古い家だけど、子供の手で破れるほど地下室のドアは脆くないから、トーアの声は聞けても姿を見ることはできない。

 悲しくなるだけ。だから、正直会いたくはなかった。

「スーク!居るなら返事してよ!」

 トーアの声が廊下にまで響いている気がする。ルワジーに見つかるんじゃないかとヒヤヒヤした。

「トーア。居るよ。来てくれてありがとう」

 半分本心、半分強がって返す。返ってきた答えは想像と違った。

「今助けるから!一緒にカガンマさんの家に行こう!」

 何を言ってるのかわからなかった。お願いします、というトーアの声が聞こえて、ドアが揺れ始めたのでドアから離れる。

 ガタガタと揺れ、錆びかかっていた蝶番のネジが緩み、大きな音がしてドアが落ちた。

「スーク!」

 飛び込んで来たトーアに手を握られて、目の前にいることを実感する。温かかった。

「その子がお友達のスーク?」

 トーアの後ろから聞こえて来た声にハッと我に帰る。優しそうな若い人だった。

「トーア、この人が?」

「カガンマ・トスライさん。私のこと引き取ってくれる人。カガンマさんがね、スークも一緒に来ていいよって、言ってくれてるの。私はスークと絵本が描きたい。スークは…どう?」

 ここに来て今更僕の意思を確認するのか。断る理由なんてないに決まっている。

「うん、もちろん。僕だってトーアと一緒に絵本を作りたい」

 ぱっと花が咲いたように、トーアの顔が笑顔になった。

「じゃあ決まりだね!ルワジーのところに行こう!」

 トーアがスークの手を引いて地下室から出る。ふと、床に転がるドアを見て、正式に引き取ってもらえるならドアを壊す必要なんてなかったんじゃないかと思った。

 でも口には出さない。こんな夢みたいな話にはぴったりだと思ったから。

 トーアに掴まれた右手と、前を歩くカガンマさんの背中に導かれて、夢見た未来へと駆け出した。

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夢物語を語らせて 霧澄藍 @ai_kirisumi

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