第22話:北の湿地と、眠れない男

一夜明けて、洞窟のリビング。 俺はコーヒーを飲みながら、重苦しい沈黙に包まれていた。


「柵の修復に3日、畑の耕し直しに2日……」 「申し訳ありません、主様。我々がもっと上手く立ち回っていれば……」


ゴブ郎が正座して小さくなっている。その横で、クラウディアも沈痛な面持ちで俯いていた。 彼女は元・近衛騎士団の副隊長。指揮官としての経験はあるはずだが、昨日は敵の数と味方の暴走に翻弄されてしまったようだ。


「(昨日の黒い霧……あれは間違いなく、誰かが意図的に送り込んできたもんだ)」


俺は紫煙を吐き出しながら思考する。 放置すれば、第二、第三の波が来るだろう。そのたびに村が壊され、俺たちの生活が脅かされる。 冗談じゃない。俺は、この異世界でやっと手に入れた「平穏な暮らし」を守るために村を作ったんだ。ここで終わらせるわけにはいかない。


「……元を断つしかねぇな」 「元、ですか?」


俺の言葉に、シルヴィが静かに頷いた。


『はい。昨日の黒い霧……それに含まれる魔力を辿りました。あれは間違いなく、この森の絶対強者……西の最深部に座す**『古龍(エルダードラゴン)』**の吐息です』


その言葉を聞いた瞬間。 カチャン、と乾いた音が響いた。 クラウディアの手から、コーヒーカップが滑り落ちていた。


「……古龍」


彼女は床に落ちたカップを拾うこともせず、ガタガタと震える手で自身の肩を抱いた。 その瞳には、恐怖と、それ以上の絶望が宿っている。


「クラウディア?」 「……まさか、伝説の『黒い災厄』が実在したというのですか」


彼女は搾り出すような声で呟いた。


「部下たちが……死してなお『動く屍(アンデッド)』となり、私に刃を向けた理由が……ようやく分かりました」


彼女の脳裏に、かつての惨劇が蘇っているのだろう。 騎士団の任務でこの森を訪れ、原因不明の瘴気に襲われ、信頼していた部下たちが次々とゾンビ化して襲いかかってきた地獄絵図。


「あいつです……。あの龍の瘴気が、私の部下たちを殺し、その魂さえも汚したのです……!」


ギリッ、と彼女が唇を噛み締め、鮮血が滲む。 それは単なる恐怖ではない。騎士としての誇りを踏みにじられた、煮えたぎるような憎悪だ。


「タケル様! お願いします、討伐のご許可を!」


クラウディアが床に膝をつき、悲痛な叫びを上げた。


「あの化け物を野放しにはできません! 亡き部下たちの無念を……そしてこの森の未来のために、討ち取らねばなりません!」


鬼気迫る彼女の訴え。 ゴブ郎たちも息を呑んでいる。 気持ちは痛いほど分かる。だが――俺は冷静に視線をシルヴィに向けた。


「シルヴィ。お前はこの森で長く生きてきたんだろ? 正直に聞くが、今の俺たちの戦力で、そのドラゴンに勝てるか?」


シルヴィは即答した。


『……不可能です。あの方は、私が生まれる遥か昔からこの森を支配する災害そのもの。私とゴブ郎、そして主様が総力で挑んでも……今のままでは、勝率は万に一つもないでしょう』 「っ……!?」


クラウディアが言葉を失う。 森の食物連鎖の頂点に近いアージェントスパイダーであるシルヴィが、ここまで断言する相手。 それが現実だ。


「だそうだ。クラウディア、気持ちは分かるが、今はまだ無理だ」


俺は静かに、だがはっきりと告げた。


「無策で突っ込めば、お前はまた仲間を失うことになる。俺だって死にたくはない。だから、西(ドラゴン)への直接攻撃は却下だ」 「そ、そんな……では、指をくわえて待てと!?」 「誰も何もしないとは言ってねぇよ」


俺はタバコの火を揉み消し、テーブルの上のミスリル製灰皿に押し込んだ。


「いずれ決着はつけなきゃなんねぇだろう。だが、今は準備が必要だ。戦力も、情報も、防衛設備も足りてない」


俺は立ち上がり、洞窟の入り口の方角――「北」を指差した。


「まずは足場固めだ。西はヤバいとして、他の方向……例えば『北』だ。万が一、決戦の最中に北から別の敵に背後を突かれたら終わりだろ?」 「それは、確かに……」 「だから、今日は北の調査に行く。周辺の憂いを断って、確実に勝てる盤面を作るんだ」


これは半分建前で、半分本音だ。 ドラゴンと戦うのは死ぬほど嫌だが、戦うにしても勝算がない今は動けない。 なら、とりあえず安全なエリアを確保しつつ、戦力を増強するのが最善手だ。


「……分かりました。感情に任せ、取り乱してしまいました」


クラウディアは深く頭を下げた。悔しさは消えていないだろうが、理屈は飲み込んでくれたようだ。


「いいってことよ。ゴブ郎とクラウディアは村の修復を頼む。守りを固めておいてくれ」 「ハッ! お任せを!」


俺はシルヴィとクロウを連れて、洞窟を出発した。 目指すは北の湿地帯だ。


   ◇   ◇   ◇


村を出て数キロ進むと、景色が一変した。 鬱蒼とした森が途切れ、ジュクジュクとした泥沼が広がる湿地帯に出たのだ。


「オン!(あるじ、ストップ)」


先頭を歩いていたクロウが、突然足を止めて鼻を鳴らした。


「どうした? 敵か?」 「クゥン(違う。変な匂いがする。薬みたいな、焦げたみたいな?)」


俺たちが向かっている「北」の奥から、異質な気配がするらしい。 昨日の襲撃犯(ドラゴン)とは関係なさそうだが、まさに俺が懸念していた「背後の憂い」かもしれない。


「……よし、ちょっと見てみるか」


俺たちは湿地の奥へと足を進めた。 北へ進むと、地面はさらにぬかるみ、薄気味悪い霧が立ち込めていた。 その時だった。


『主様、お待ちください』


シルヴィが俺の襟首を糸で引いて止めた。 彼女が前脚で前方の空間を弾くと、パキンッという音と共に、見えなかった「魔法の糸」が弾け飛んだ。


「なっ……なんだ今のは!?」 『幻惑魔法ですわ。侵入者を底なし沼へ誘導する、視覚干渉の罠です』


「ま、魔法!? お前魔法わかんの!?」


俺が驚くと、シルヴィは当然のように答えた。


『ええ。私たちのような高位の魔物は、本能で魔力の流れを読み取れますから。……しかし、これほど緻密に術式を編むとは、ただの魔物ではありませんね』


その後も、落とし穴、魔物寄せの香、方向感覚を狂わせる結界など、いやらしい罠が続いた。 だが、それらは決して「殺す」ためのものではなく、「帰らせる(遠ざける)」ための罠だった。


「へぇ……。性格の悪い罠だ(褒め言葉)。これ一人で張ってるなら大したもんだな」


俺は腕組みをして、さも分かった風に頷いた。 素人の俺にはさっぱりだが、あのシルヴィが慎重になっている時点で、設置した奴の腕は相当なものだ。 この先にいるのは、単なる魔物じゃない。もっと知能の高い「何か」だ。


罠をシルヴィとクロウの力で突破し、湿地帯の最深部へ。 そこには、朽ちかけた木造のボロ小屋がポツンと建っていた。


「……誰か住んでんのか?」


俺は警戒しつつ、小屋に近づいた。 中から、ブツブツと何かを呟く声が聞こえる。


「ごめんくださーい。森の管理組合でーす」


俺が適当なことを言ってドアを開けると、強烈なカビの臭いと、饐(す)えた臭いが鼻をついた。 部屋の隅、大量の書き損じの羊皮紙が散乱する中で、その男は頭を抱えてうずくまっていた。


「……うるさい」


褐色の肌に、長く尖った耳。ボサボサの漆黒の髪。 こちらを睨みつけたその目は、隈(クマ)が酷すぎて落ち窪み、まるで幽霊のようだ。


「うおっ……!?」


俺は思わず声を上げた。 透き通るような長い耳。


「(すげぇ……本物のエルフだ……!)」


だが、よく見ると肌が褐色だ。 ゲームやアニメの知識を総動員する。


「(いや、あの肌の色は……ダークエルフか?)」


感動している場合じゃなかった。 彼はガタガタと震えながら、自身の頭を掻きむしっている。 こちらを攻撃する余裕すらなさそうだ。


「帰れ……。俺の頭の中で足音を立てるな……」 「思考が……止まらないんだ……計算が、ノイズが……あぁぁぁ……」


病気か? 俺はそっと《鑑定(観察)》してみた。


名前:ヴァン 種族:ダークエルフ 状態:思考過多(カース)、重度の不眠、衰弱


呪いレベルの不眠症らしい。 脳みそが良すぎて回転が止まらず、眠ることすらできない状態か。そりゃ死にかけにもなるわ。 こいつも何か、事情があってこの森に迷い込んだ口か。


「……辛そうだな」


俺は敵意がないことを示すように、ゆっくりと彼の隣に腰を下ろした。 ヴァイスはビクッと体を震わせたが、逃げる力もないようだ。


「……殺すなら早くしろ。どうせ俺は、故郷を追われた役立たずだ……」 「殺しに来たんじゃねぇよ。散歩だ」 「は……?」


俺は胸ポケットからタバコを取り出し、一本くわえて火をつけた。 紫煙が薄暗い小屋の中に漂う。


「……いい匂いだろ?」 「……?」


俺はもう一本取り出すと、呆然としているヴァイスの口元に差し出した。


「とりあえず、一服しろよ。落ち着くぞ」


(第22話 完)

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