花影の想望
北畠 逢希
第1話
「何故、わらわが秀吉の元へ嫁ぎに行かねばならぬのじゃ」
時は戦国と呼ばれた時代。
かの信長公が亡くなり、その後を継いだ秀吉様が
「茶々様……」
天下一と言っても過言ではない美しい顔を歪め、怒りに声を震わせたのは、私がお仕えしている御方、
庭に咲き誇る梅の花のような、赤みを帯びた美しい唇はわなわなと震え、彼女の手に握られていた扇子は部屋の隅へと投げられた。
「何故じゃっ……わらわが一体何をしたと言うのじゃっ!!」
私と茶々様しか居ない空間に、扇子が襖にぶつかる音が寂しげに響く。声を荒げた茶々様は扇子を一瞥すると、力いっぱい手を握り締め、顔を俯かせた。その瞳からは、今にも涙がこぼれ落ちそうだった。
「……なぜ、わらわが」
何故、茶々様が
そう思うのは当たり前だ。彼女は自身の叔父である織田信長様が亡くなってから、坂を転げ落ちるように不幸続きだった。
母を亡くし、信長公に仕えていた秀吉様の擁護を受けてから早数年。既に数人の側室を召し抱えている秀吉様より、自分の元に嫁げとの命が下った。
「茶々様……」
必死に涙を堪えている彼女を前に、ただの侍女である私は何も言えなくて。姉同然である彼女に、妹として力になって差し上げたいのに、何も出来なくて。自分の無力さを嘆いては、天に問い、唇を噛み締めた。
そうして、もうじきに日が沈む頃になると思い、顔を上げた時。
「……しばらく、ひとりにしてくれぬか」
大好きで、大切で仕方のない主人が、ぼそりと願いを呟いた。
「……はい」
私は静かにひれ伏し、そっと部屋を出た。人前では決して涙を見せない茶々様だ。ひとりになって衣を濡らしたいのだろう。今日この日を生き抜くために。誰にも縋らずに、ひとりで。
しばしの間この部屋に誰も近づかないよう、部屋の外へと出て見張りをすることしか、私は出来なかった。
私の名は、大野 凛。 彼女の乳母である
実の親に捨てられ、ここから遠い山奥にある寺に身を置いていた私と、武将であった浅井長政様の長女である彼女とは、身分の差は天と地に等しい。
けれど茶々様はお優しく、実の妹と同じように私を可愛がって下さった。
夕映えの空に視線を投げる。巣へと帰ってゆく鳥のように、茶々様も自由になれたのならどれだけ幸せなことだろう。
人の命運を決め、全てを見渡す神様がこの世に存在するのなら、どうか、彼女を幸せにしてください。強くあろうとしている美しい彼女が、もう泣くことのないように。ずっと笑っていられますように。
私の心の声に応じたかのように、一雫の涙がぽろりとこぼれ落ちた。こんな時にこんな場所で、私は何をやっているのだろう。茶々様が少しでも元気になれるように、何か考えなければならないのに。笑っていようと決めたのに。日暮れを告げる鴉の鳴き声が、廊下で涙を流す私を馬鹿にしているように思えた。
「──ねぇ」
「っ……!?」
突然に何処からか聞こえた声に、私は身を強張らせた。辺りを見回し、隠し持っていた懐剣を握り締める。
侵入者──いや、刺客だろうか。
耳を澄ませば、草を掻き分ける音が聞こえる。気のせいでなければ、草を踏む足音のようなものも聞こえた。 たぶん、きっと、近付いて来ている。
ああ、こんな時はどうすればいいのか。大声で警護の者を呼べば良いのだろうか。そうしている間に茶々様の部屋を襲撃されでもしたら、私は生きてゆけない。首が吹っ飛ぶどころの問題ではない。刎ねられる前に、大切な人を失った悲しみで息が止まってしまうだろう。
──って、こんな事を考えている場合ではない。私がお止めしなければ。
私はごくりと生唾を飲み込み、懐剣を握る手に力を込めた。懐剣を使ったことは一度もない。ただ護身用に持っていただけの飾り物だ。
非力な私が部屋の前で立ち塞がったとして、何にもならないかもしれない。けれど、茶々様のお部屋に行かせるわけにはいかないから。
木陰から姿が見えた瞬間に、私は廊下からその存在を目掛けて飛び降りた。斬られても構わない。茶々様の盾となれるのなら万々歳だ。
「──うわっ?!」
なんと運が良い。相手は私が飛びかかるとは思っていなかったようだ。私を避け切れずに、思い切り地面に倒れた。
風を切り、不法侵入者の上へと着地した私は、相手の顔を見て思わず息を飲んだ。
「──ちょっと、いきなり何なの?」
私の下に倒れた人は、思わず息を飲んでしまうほどに美しい青年だった。ふさふさの長い睫毛に形の良い唇、肌は陶器のように白く、彼が不法侵入者であることを忘れ、見入ってしまった。
「……あっ、ふ、不法侵入ですっ!」
「はあ、不法侵入? そんな首を刎ねられるようなことをする馬鹿が何処にいるのさ」
「目の前ですっ……!」
「痛い、痛いってば、ちょっと、重いし退いてっ……」
重くて結構。女性に対して失礼極まりないお言葉をありがとう。
私は手に持っている懐剣を彼に振り下ろした。
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