デッドエンド・デッドライン

水底まどろみ

第1話

 狭いアパートの一室にチャイムの音が響き渡る。

 思案の海に深く沈んでいた俺の意識は、寒々とした現実へと無理やり引き揚げられる。

 机の上の小さなデジタル時計に目をやると、15時を少し回ったところだ。


「もうそんな時間か……」


 年季の入った扉の前に立っているのが、たとえば気の知れた友人なんかだったらどれほど良かっただろうか。

 しかし、ここに住み始めてから今日に至るまでの数年の間、訪問者といえば我が不倶戴天の敵であるしかいなかった。

 床に散らばる原稿用紙やらゴミ袋やらを踏まないようにしつつ玄関まで歩き、息を殺してドアスコープを覗く。

 魚眼レンズで歪められた視界の先には、銀縁の眼鏡をかけた痩せ男が見えた。

 男は苛立たしげに足を踏み鳴らしながら、俺が扉を開けるのを待ち構えている。

 嫌になるほどよく見た顔。俺の担当編集であり、締め切りという忌まわしき存在を引き連れてやってくる悪魔のような男――桐谷きりたにだ。

 出来ることなら無視して創作活動の続きに戻りたいところだが、居留守なんて使おうものなら後で鬼のように怒り狂うのは目に見えている。

 不承不承ながら俺は桐谷の来訪を受け入れることにした。


「……先生、またゴミ袋が増えてないですか?」


 桐谷は眉をひそめ、挨拶もそこそこに嫌味を口にする。

 これがZ世代というものか。俺よりも一回り以上も年下のくせに遠慮なく物を言う。


「俺は毎日忙しいんだ。文句があるならお前が捨てればいいだろう」

「僕は先生の担当編集者であって、家事手伝いに来ているわけではないのですが……それで先生、原稿の方は」

「ああ、それなんだがな」

「まさか、またですか?」


 心底呆れた、とでも言いたげに桐谷は口を大きく開ける。


「いえ、先生のことだからどうせ間に合わないんだろうなとは予想していましたけど。毎回のように締め切りを落として、何とかしようと思わないんですか? どれだけの人に迷惑をかけているか分かってますか?」

「漫画家のために方々に頭を下げるのが編集の仕事ではないのか?」

「は?」


 あ、まずい。つい口が滑った。

 爆発寸前まで膨れ上がった怒りでこめかみに青筋を立てた桐谷は……その怒りを吐き出すように大きなため息をついた。

 どうやら理性が勝ってくれたようだ。


「……せめてアシスタントくらいは付けましょうよ。それか、作画に専念するか。今時アナログ作画ってだけでも珍しいのに、全部一人でやるなんて無茶ですって」

「駄目だ。俺の頭の中にある世界を忠実に再現できるのは俺だけだからな。どこの馬の骨とも知れない奴が手伝ったところで解釈違いを起こすだけだ」

「コミュニケーション取って解釈をすり合わせればいいだけですよ。他の先生方はみんなそうして協力しているんですから」

「そんなの二度手間じゃないか。話し合う時間が無駄だ」

「締め切りを守れない人が言えたことですか……?」


 口を開けばすぐに『締め切り』という単語が飛んでくる。編集者という生き物はどうしてこうも時間に五月蠅いのか。

 時間を気にして中途半端な物を世に公開する方がプロ失格だろうに、奴らは締め切りを守ることこそがプロの証だと主張してくる。

 だからいつも、俺と桐谷の話は平行線だ。 


「はあ、もういいです」


 疲れた様子で桐谷は会話を打ち切り、玄関の扉に手をかける。


「明日の同じ時間にまた来るので、その時までに書き上げといてください。それが守れなければ、来月分からは先生が何と言おうとアシスタントを手配しますからね」

「なに? たった1日で描けるわけないだろう」

「何度もリマインドしたのに期日を守らなかったのは先生なんですから。これでも譲歩した方ですよ」


 桐谷は一方的にまくし立てると、大きな音を立てて扉を閉める。

 靴底が階段を叩く固い音が遠ざかっていき、小さなアパートの一室には勝手に取り付けられた約束だけが残った。


「まったく……ワガママなやつだ」


 頭を掻きながら、ペチャンコになった座布団に座り込む。

 残された時間は24時間を切っている。1カ月かけて仕上げた原稿の枚数は規定ページの半分ほど。どう考えても時間が足りない。

 推敲無しに急ピッチで仕上げるか?

 否。そんないい加減なものを誌面に載せるのは俺の美学に反する。

 では、今回は急病で休載することにしてもらって、アシスタントをつけるという提案を受け入れるか?

 それも気に食わない。私の理想の芸術を他人の手で台無しにさせられた日には、そいつの頸動脈目掛けてGペンを突き刺してしまうだろう。

 さて、どうしたものか……。




 真っ白な原稿用紙を前に唸っていた俺の耳に再びチャイムの音が届き、思わず舌打ちが出る。

 桐谷が忘れ物でもしたのだろうか。

 せっかく集中して描き始めようと思っていたのに、よりにもよって無茶な条件を取り付けた張本人が邪魔しに来るとは。

 床板を踏み抜く勢いで俺は立ち上がり、のしのしと玄関の方へ歩くと、相手も確認せずにドアを開け放った。


「まだ何か用、か……」


 気勢よく張った声はあっという間にしぼんでいく。

 そこに立っていたのは桐谷ではなく、髪をきっちりと7:3に分けて固めた、怪しい笑みを浮かべたスーツ姿の男だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る