秒針の温度、ふたりの時間が動き出す

@moonrider

第1話

祖父の懐中時計が、止まった。


 古書店「月読堂」のレジカウンターで、私はその銀色の懐中時計を手のひらに乗せ、何度も耳を近づけてみた。いつもなら聞こえる、か細い秒針の音が、しない。


 昨日までは確かに動いていたのに。


「どうしたの、千夏ちゃん」


 店主の月岡さんが、心配そうに声をかけてくる。


「あ、いえ……祖父の形見の時計が、止まっちゃって」


「まあ。それは困ったわねえ」


 月岡さんは優しい人だ。私が大学に入学してすぐ、この古書店でアルバイトを始めた時から、本当の孫のように可愛がってくれる。


「この近くに、時計の修理屋さんってありますか?」


「ああ、駅前の商店街に一軒あるわよ。『クロノス時計店』って。若い男の子がやってるの。腕は確からしいけど……ちょっと変わった子でね」


 変わった子。


 その言葉が、どういう意味なのか、私はまだ知らなかった。


---


 商店街の一角、ビルとビルの間に挟まれるようにして、その店はあった。


「クロノス時計店」


 看板は古びているが、丁寧に磨かれている。ガラス扉の向こうには、壁一面に時計が並んでいた。古い柱時計、小さな置時計、腕時計。すべて違う時刻を指している。


 カランカラン、と扉のベルが鳴る。


「……いらっしゃい」


 奥の作業台から、低い声が返ってきた。


 顔を上げたのは、私と同じくらいの年齢に見える青年だった。黒縁の眼鏡、少し長めの黒髪、無表情。作業用のエプロンをつけている。


「あの、時計の修理をお願いしたいんですけど」


「見せて」


 言葉が素っ気ない。


 私は少し戸惑いながら、懐中時計を差し出した。


 青年はそれを受け取ると、しばらく黙って眺めていた。表面を撫で、裏返し、横についたつまみ(竜頭)を回し、耳を近づける。その仕草は丁寧だったけれど、表情は相変わらず無愛想だった。


「……古いね。1960年代のスイス製。オメガのムーブメント——時計の心臓部だ。状態は……悪くない。でも内部の油が固まってる。動力源のゼンマイも劣化してる。歯車の一つが欠けてるかもしれない」


 専門用語を次々と並べられて、私はついていけなかった。


「あの、それって……直りますか?」


「直る。でも時間がかかる」


「どのくらい?」


「最低でも三週間」


「さん……週間?」


 思わず声が大きくなった。


「そんなにかかるんですか?ただ動かなくなっただけなのに」


「ただ?」


 青年は、初めて私の顔をまともに見た。その目が、冷たく感じた。


「時計は、ただの機械じゃない。何百という部品が、ミリ単位で組み合わさって、初めて時を刻む。一つでも狂えば止まる。『ただ動かなくなった』なんて、存在しない」


「で、でも……」


「急ぐなら、他の店に行けばいい。うちは丁寧にやる。それだけ」


 そう言うと、青年はまた作業台に向き直った。


 私の中で、何かがむっとした。


 確かに、大切な時計だから丁寧に直してほしい。でも、この言い方はなんなの? まるで私が時計を粗末にしてるみたいじゃない。


「……お願いします」


 言葉を飲み込んで、私はそれだけ言った。


「三週間後に取りに来る」


「いや」


「え?」


「週に一度、様子を見に来て」


 青年は顔も上げずに言った。


「修理の途中で、確認したいことがある。元の持ち主の使い方の癖とか、どういう環境で保管してたかとか。あと、修理方針について相談することもある」


「……わかりました」


 仕方ない。


 こっちが頼んでる立場だし、断れない。


 でも、正直なところ、この人とまた会うのは気が重かった。


 名前も聞かずに、私は店を出た。


 一週間後、私は再び「クロノス時計店」を訪れた。


 土曜日の午後。古書店のシフトが終わってから、重い足取りで商店街を歩く。別に会いたくて来てるわけじゃない。時計を直してもらうために、仕方なく来てるだけ。


 そう自分に言い聞かせながら、扉を開けた。


「……来たんだ」


 作業台の前で、青年が顔を上げた。


「来いって言ったの、そっちじゃないですか」


「来ない人も多いから」


 淡々とした口調。


 青年は立ち上がると、棚から小さな箱を取り出した。中には、バラバラに分解された懐中時計の部品が並んでいる。


「これ……私の時計?」


「そう」


 小さな歯車、ネジ、バネ。こんなに小さな部品が、あの時計の中に入っていたなんて。


「時計の心臓部——ムーブメントを分解して、一つずつ洗浄してる。油が固まってたから、超音波洗浄機にかけた。これから組み直すけど、その前に確認したいことがある」


 青年は、私の顔を見た。


「この時計、いつから持ってた?」


「祖父が亡くなった時に、形見として……三年前です」


「その前は? 祖父は毎日使ってた?」


「ええと……たまに、かな。祖父は腕時計も持ってたので」


「保管場所は?」


「机の引き出しに」


「湿気は?」


「……わからないです」


 青年は小さくため息をついた。


「時計は湿気に弱い。保管環境が悪いと、すぐに錆びる。今回は運が良かった。内部に錆はほとんどない。でも、ゼンマイの巻き癖が偏ってる。長期間放置されてたせいだ」


「……すみません」


 なぜか謝っていた。


「謝ることない。あなたのせいじゃない」


 青年はそう言って、また部品に目を戻した。


「機械式時計は、動かし続けることで調子を保つ。止めたままにしておくと、油が固まって、部品が劣化する。生き物と同じ」


「生き物……」


「そう。だから、修理が終わったら、毎日巻いてほしい。使わなくてもいい。ただ、動かし続けること」


 その言葉に、不思議な重みがあった。


 私は、この人が時計をどう見ているのか、わずかにわかった気がした。


「……わかりました」


「次は一週間後。また来て」


 帰り道、私は複雑な気持ちだった。


 相変わらず無愛想で、こっちの都合も考えない。でも、時計に向き合う姿勢は……なんというか、本気だ。


 ただの仕事じゃない。もっと、何か別の感情がある気がする。


---


 二週間目の訪問。


 今度は、青年が時計を組み立てている最中だった。


 ルーペを目に当て、ピンセットで極小の部品をつまみ上げる。その手つきが、あまりにも繊細で、私は息を止めて見入ってしまった。


「……見てていいよ」


 青年が、顔を上げずに言った。


「え?」


「邪魔じゃないから。静かに見てる分には」


 許可をもらって、私は作業台の近くに椅子を引き寄せた。


 青年の指先が、小さな歯車を持ち上げる。それを別の歯車と噛み合わせ、ミリ単位で位置を調整する。一つ、また一つ、部品が元の場所に戻っていく。


「……すごい」


 思わず呟いた。


「何が?」


「こんな小さい部品、よく扱えますね」


「慣れ」


 青年は、相変わらず素っ気ない。でも、その手は止まらない。


「時計修理って、どのくらい勉強したんですか?」


「専門学校で二年。そのあと、師匠のところで三年」


「師匠……」


「スイスで修行してた人。厳しかったけど、技術は本物だった」


 青年の声に、わずかに温度が混じった。


「その人も、『時計には命がある』って教えてくれた。だから丁寧に扱えって。雑に扱ったら、すぐにわかるって」


「……時計が?」


「そう。時計は、扱われ方を覚えてる。大事にされてた時計は、それだけで調子がいい。逆に、雑に扱われてた時計は、すぐ壊れる」


 私は、祖父の時計を思った。


 祖父は、この時計を大事にしていたのだろうか。


「あなたの祖父の時計は……大事にされてた」


 青年が、ふいに言った。


「え?」


「傷が少ない。磨かれてる痕もある。多分、祖父はこの時計が好きだった」


 その言葉に、胸がじんわりと温かくなった。


「……そうなんですか」


「うん。だから、ちゃんと直す」


 青年は、そう言って微笑んだ。


 ほんの少し、口角が上がっただけ。でも、それが私には、とても印象的だった。


---


 三週間目の訪問。


 私は、もう義務感だけで来ているわけじゃなかった。


 正直に言えば、彼の作業を見るのが楽しくなっていた。無口で無愛想だけど、時計に向き合う時の彼は、誰よりも真剣で、誰よりも優しい。


「今日で、ほぼ完成」


 青年は、組み上がった懐中時計を私に見せた。


「あとは、精度の調整と、ケースの研磨。来週には渡せる」


「本当ですか!」


 思わず声が弾んだ。


 でも、同時に、ほんの少し寂しさも感じた。


 時計が完成したら、もうここに来る理由がなくなる。


「……ちょっといい?」


 青年が、珍しく自分から話しかけてきた。


「何ですか?」


「きみは、本が好きなの?」


「え? あ、はい。古書店でバイトしてるので」


「どんな本?」


「色々ですけど……古い本が好きです。昔の人が書いた、手紙とか、日記とか」


 青年の目が、かすかに輝いた。


「それ、わかる」


「え?」


「古いものには、時間が詰まってる。時計も、本も同じ。使ってた人の時間が、そこに残ってる」


 その言葉に、私は頷いた。


「そうなんです。古い本を開くと、前の持ち主が何を思って読んでたのかなって、想像するのが好きで」


「時計も同じ。祖父が何時に起きて、何時に仕事に行って、何時に家に帰ったか。その全部が、この時計の中に残ってる」


 青年は、懐中時計を優しく撫でた。


「だから、時計を直すってことは、その時間を取り戻すってこと」


 その瞬間、私は理解した。


 彼がなぜ、こんなに時計に真剣なのか。


 彼にとって、時計修理は単なる仕事じゃない。過去を、記憶を、大切な時間を、もう一度動かす行為なんだ。


「……すごいですね」


「何が?」


「そんな風に、時計を見れるの」


 青年は、照れたように目を逸らした。


「別に……当たり前のことだけど」


「当たり前じゃないですよ。私、今まで時計をただの道具だと思ってました。でも、あなたの話を聞いてたら……時計って、もっと特別なものなんだなって」


 青年は、何も言わなかった。


 でも、その表情が、ほんの少し柔らかくなった気がした。


---


 その日、私は帰り際にふと尋ねた。


「あの……名前、聞いてもいいですか?」


 青年は、一瞬驚いたような顔をした。


「……柊(ひいらぎ)。柊透」


「柊さん。私、峰岸千夏です」


「峰岸……」


 彼は、私の名前を小さく繰り返した。


 それだけなのに、なぜか心臓がドキドキした。


---


 四週間目。


 時計は完成していた。


 柊さんは、磨き上げられた懐中時計を、丁寧に布で包んで私に渡した。


「動作確認は済んでる。精度も問題ない。一日の誤差は5秒以内」


「……ありがとうございます」


 私は、懐中時計を手のひらに乗せた。


 冷たい。


 金属の冷たさが、手のひらに伝わる。


 でも、耳を近づけると、確かに聞こえた。


 チクタク、チクタク。


 秒針の音。


 三年間止まっていた時間が、また動き出した。


「……動いてる」


 涙が出そうになった。


「当たり前」


 柊さんは、いつものように素っ気なく言った。でも、その目は優しかった。


「これから、毎日巻いて。朝でも夜でもいい。同じ時間に巻くのがベスト。そうすれば、ずっと動き続ける」


「はい」


 私は、何度も頷いた。


「あと、もし調子が悪くなったら、すぐに持ってきて。無理に動かさないこと」


「……はい」


 会話が途切れた。


 もう、用事は終わったはずなのに、帰りたくなかった。


「……あの」


 思わず、声が出た。


「何?」


「また……来てもいいですか?」


 柊さんは、驚いた顔をした。


「時計、もう直ったけど」


「わかってます。でも、また時計のこと、教えてほしくて」


 嘘じゃない。本当に、柊さんの話をもっと聞きたかった。


 でも、それだけじゃない。


 柊さんに、もう一度会いたかった。


「……別に、いいけど」


 柊さんは、そっぽを向いた。でも、その耳がわずかに赤くなっていた。


「じゃあ、また来ます」


 私は、笑顔で店を出た。


 その夜、私は何度も懐中時計を開いた。


 秒針が、規則正しく時を刻んでいる。


 その音を聞いていると、柊さんの顔が浮かんだ。


 無愛想で、不器用で、でも誰よりも真剣で、誰よりも優しい人。


 時計を通して、祖父の時間を取り戻してくれた人。


 気づけば、私の中に、柊さんへの特別な感情が芽生えていた。


---


 次の土曜日。


 私は、特に理由もなく「クロノス時計店」を訪れた。


「……また来たんだ」


 柊さんは、相変わらず無表情だった。でも、嫌そうではなかった。


「時計、ちゃんと動いてます」


「そう」


「それで……その、時計のこと、もっと教えてほしくて」


「何が知りたい?」


「えっと……柊さんが、どうして時計修理師になったのか、とか」


 柊さんは、少し考え込んだ。


「……座る?」


 彼は、作業台の隣に椅子を用意してくれた。


 私はそこに座り、柊さんの話を聞いた。


「俺の祖父も、時計修理師だった」


 柊さんは、遠くを見るような目で言った。


「小さい頃から、祖父の工房によく遊びに行ってた。祖父が時計を直してる姿を見るのが好きだった」


「お祖父さんも、時計が好きだったんですね」


「うん。祖父は、『時計は人の人生を刻む』って言ってた。誕生日にもらった時計、結婚記念日の時計、定年退職の記念の時計。すべての時計に、物語があるって」


 柊さんの声が、かすかに震えた。


「祖父は、俺が中学生の頃に亡くなった。最期まで、時計を直し続けてた。病室にまで、工具を持ち込んで」


「……」


「葬式の日、祖父の遺品の中に、一つだけ直せなかった時計があった。複雑すぎて、祖父でも手に負えなかったらしい。俺は、それを見て思った。この時計を、いつか直そうって」


 柊さんは、立ち上がって、棚の奥から小さな箱を取り出した。


 中には、古い懐中時計が入っていた。


「これ?」


「うん。まだ直せてない。技術が足りなくて」


 彼の表情に、悔しさが滲んでいた。


「でも、いつか必ず直す。祖父が遺した時間を、もう一度動かす」


 その言葉を聞いて、私の胸の奥が熱を持った。


 柊さんにとって、時計修理は祖父との繋がりなんだ。


 過去を、記憶を、愛する人との時間を、もう一度取り戻すための行為。


「……柊さん」


「ん?」


「私の時計、直してくれて本当にありがとうございました」


 柊さんは、驚いた顔をした。


「今さら?」


「ううん、今だから言いたくて。柊さんのおかげで、祖父との時間が戻ってきた気がします」


 柊さんは、照れたように目を逸らした。


「……それは、良かった」


 その瞬間、私は確信した。


 私は、柊さんのことが好きだ。


 ただの修理師としてじゃなく、一人の人間として。


 不器用で、優しくて、大切なものをずっと守り続けてる人。


---


 それから、私は毎週のように「クロノス時計店」を訪れるようになった。


 柊さんは、特に何も言わなかったけれど、私が来ることを拒まなかった。それどころか、時々お茶を淹れてくれたり、時計の修理を見せてくれたりした。


 ある日、柊さんが珍しく私に質問をした。


「峰岸は、将来何がしたいの?」


「え?」


「古書店で、ずっと働くつもり?」


 私は少し考えた。


「まだわからないです。でも、本に関わる仕事がしたいなって」


「本屋?」


「それもいいけど……古い本を修復する仕事とかに興味があります。破れたページを直したり、変色した紙を元に戻したり」


 柊さんの目が、輝いた。


「それ、時計修理に似てる」


「そうですか?」


「うん。壊れたものを直す。過去を取り戻す。同じだと思う」


 その言葉に、私は嬉しくなった。


 柊さんと、同じことを考えていたんだ。


「峰岸も、古いものが好きなんだね」


「はい。新しいものより、時間を重ねたものの方が……なんていうか、温かい気がして」


「温かい……」


 柊さんは、その言葉を繰り返した。


「それ、いい表現」


「え?」


「時計も同じ。新品より、使い込まれた時計の方が、なんていうか……温度がある」


 温度。


 私は、その言葉が妙に心に残った。


「秒針の、温度?」


「そう。機械なのに、なぜか温かい。それは、使ってた人の時間が染み込んでるから」


 柊さんは、自分の腕時計を見た。


「これ、祖父の形見。もう三十年以上前のやつ。でも、俺にはこれが一番しっくりくる」


 彼の手首に巻かれた古い時計。


 確かに、それは温かく見えた。


---


 それから三週間が経った頃。


 柊さんが、いつになく緊張した顔で私を迎えた。


「どうしたんですか?」


「……あのさ」


 彼は、言葉を選ぶように話した。


「来週、休むかもしれない」


「え?」


「祖父の時計、修理の目処が立った。でも、最後の調整が難しくて、集中したい」


 柊さんは、申し訳なさそうに言った。


「だから、来ても会えないかもしれない」


「……わかりました」


 私は、寂しかったけれど、頷いた。


「でも、もし完成したら……見せてもらえますか?」


 柊さんは、驚いた表情を見せた。


「……いいの?」


「見たいです。柊さんの大切な時計」


 彼は、しばらく黙っていた。


 そして、小さく頷いた。


「……わかった」


---


 一週間後。


 私が店を訪れると、柊さんは作業台の前で、一つの時計を見つめていた。


「……柊さん?」


 彼は、ゆっくりと振り向いた。


 その顔に、涙の痕があった。


「……完成した」


「え?」


「祖父の時計。直せた」


 柊さんは、震える手で懐中時計を持ち上げた。


 それを耳に当てる。


 チクタク、チクタク。


 確かに、秒針が動いている。


「何年もかかった。でも、やっと……」


 彼の声が、詰まった。


 私は、何も言えなかった。


 ただ、柊さんの隣に座って、一緒にその音を聞いた。


 祖父の時間が、また動き出した。


 柊さんが守り続けた、大切な時間。


「……ありがとう」


 柊さんが、小さく言った。


「え?」


「峰岸が来てくれたから。俺、諦めかけてた。でも、峰岸の時計を直して、思い出したんだ。時計を直すことの意味を」


 彼は、私の顔を見た。


「峰岸のおかげで、俺はもう一度、祖父と繋がれた」


 その言葉に、心臓がぎゅっとなった。


「……私も、柊さんのおかげです」


「え?」


「祖父の時計が動いて、祖父との時間を思い出せた。柊さんが教えてくれたから、時計の本当の意味がわかった」


 私は、勇気を出して言った。


「柊さんと出会えて、良かったです」


 柊さんは、照れたように笑った。


 その笑顔が、今まで見た中で一番優しかった。


---


 時計が直ってから、季節がひとつ巡った。


 商店街の桜が満開になり、時計店の前にも花びらが舞っている。


 私は、今日も「クロノス時計店」を訪れた。


「いらっしゃい」


 柊さんが、いつものように迎えてくれる。


 もう、あの無愛想な態度はない。私の前では、柔らかい表情を見せてくれるようになった。


「今日は、何?」


「えっと……時計の調子、見てもらいに」


 私は、懐中時計を差し出した。


 柊さんはそれを受け取ると、丁寧に確認してくれる。


「問題ない。ちゃんと毎日巻いてるね」


「はい」


「偉い」


 その一言が、なぜかとても嬉しかった。


「……あのさ」


 柊さんが、珍しく自分から切り出した。


「何ですか?」


「来週、時計の博物館に行くんだけど……一緒に来る?」


 その言葉に、私の心臓が跳ねた。


「え、いいんですか?」


「峰岸、古いもの好きだろ。時計博物館、面白いと思う」


 彼は、照れたように目を逸らした。


「それに……その、峰岸と一緒の方が、楽しいかなって」


 私は、笑顔で答えた。


「行きます!」


---


 その日の帰り道。


 私は懐中時計を開いた。


 秒針が、規則正しく時を刻んでいる。


 この時計が止まっていなければ、柊さんとは出会わなかった。


 祖父が遺してくれた時間が、新しい時間を繋いでくれた。


 時計は、過去を刻むだけじゃない。


 未来も、刻んでいく。


 柊さんと私の、これからの時間を。


 チクタク、チクタク。


 秒針の音が、いつもより温かく感じた。

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