ヒナちゃんえ

@xiximura

ヒナちゃんえ(1)

「でも、被害は出てないんでしょう?」


白髪まじりの刑事は、コピー用紙の上に置いたボールペンを指でカチカチ鳴らしながら言った。


「……はい。でも……わざわざ家の前まで来てるってことじゃないですか」


私は、紙袋の口を握りしめた。

膝の上には、切手の貼られていない白い封筒が、ぎゅうぎゅうに詰まっている。


「差出人も分からないし、これ以上の対処のしようがないですから」


ため息なのかあくびなのか分からない息を吐いて、椅子の背もたれに体を預けた。

四十代くらい。ネクタイは曲がっていて、シャツの袖にはコーヒーのしみがついている。


「怖くて眠れないんです」


私はなんとか声を出した。


「真部さん、ですよね」


「はい。真部日向です」


刑事は、紙袋の中から渡した一通の手紙の一行目だけをちらっと見た。


「“ひなた”だから、“ヒナちゃん”か。まあ、昔の知り合いとかじゃない?」


「……たぶん、そうだと思うんですけど」


文字を見ると、胸の奥がざわざわする。

知っているような、知らないような筆跡。でも、どこか懐かしいような。


「“ヒナちゃんのえがおがひかってました”ね。

 “またあえるよねぼくはずっとまっています”……」


読み上げられると、紙の上の文字が、急に気持ち悪い形に見えてくる。

紙袋の中身が、おぞましく膨らんでいくような気がする。


「家の前に防犯カメラとかは?」


「オートロックなんですけど、誰が入ってるかまでは……」


「まあ、オートロックならさ……」


「すみません。網代さん、ちょっと」


若い男が入ってきて、目の前の刑事へ耳打ちする。

網代、と呼ばれた刑事は、年季の入った腕時計にチラッと視線を投げた。


「気持ちは分かりますよ。女性ですし、一人暮らしだしね。

 ただ、“被害届”ってなると、もうちょっと具体的に危害がないと、なかなかね」


「…………」


「この封筒と中身は預かります。念のため一応、記録には残しておきますから。

家に保管しておくのも気持ち悪いでしょう。あ、あとね。何かあったらすぐ110番。いいですね?」


それで終わり、というように、刑事は立ち上がった。


私は、膝の上が急に軽くなったような、逆に重くなったような、変な感覚のまま会釈した。


「……分かりました。すみません」


「謝ることじゃないよ。

 あ、連絡先もう一度確認しておきますね」


私のスマホ番号を確認し、メモに書いて、それからまたペンをカチッと鳴らす。


「じゃあ真部さん、気をつけて。

 “今はまだ様子見”ってことで」


“今はまだ”。


その言い方が、かえって不安を濃くした。


私はうなずいて、紙袋の口をしばって立ち上がった。

中身はもうからっぽなのに、持ち手だけが食い込んでくる。


* * *


翌日、会社で自分の席に座ったとき、私は思い出したように背筋を伸ばした。


「あ、来た。おはよー、日向」


隣の席の同僚が、モニターから目を離さずに手だけ振る。


「おはよう」


「警察、どうだった?」


「あー……うん」


「犯人、捕まりそう?」


私は、机のフックにカバンを掛けながら、曖昧に笑った。


「うーん、そもそも誰かわからないから、“何かあったらまた来てください”って。封筒は預かってくれたけど」


「えー、それだけ?微妙」


斜め前の子もくるっと椅子を回してくる。


「だってさ、まさにストーカー? 手紙でしょ?こわ……」


「日向、やつれてない?」


隣の子がじっと私の顔を見る。


「クマすごいよ。寝てない?」


「あ、やっぱり? 鏡見たとき、“やば”って思った」


私が笑うと、二人も少し笑った。

その笑い方が、妙に遠く感じる。


「ちゃんと寝なよー。なんかさ、むかつくよね。こっちは悪いことしてないのに。てかさ、こっちからも嫌がらせしちゃおうよ。ポスト開けたら、バーン! とか」


「物騒なこと言うな」


斜め前の同僚が笑いながら言う。


「まあ冗談だけどさ」


冗談、という言葉で、全部が軽くなったふりをする。

この会社の空気はそういうふうにできている。


「でも、昔の知り合いとか? “ヒナちゃん”って呼んでくるってことはさあ、小学校とか中学とか」


「……たぶん、だと思う」


自分でそう言いながら、胸の奥がチクリとする。


「誰? 元カレとか?」


「さあ……地元にもしばらく帰ってないし」


「忘れてる元同級生からラブレターって、やばいね。それは普通にホラー」


「ラブレターって感じでもないんだけどね」


“好きでした”“えがおがひかってました”“わすれたことありません”。


並べると告白みたいなのに、読んでいると、息苦しくなる。


「まあ、あんま考えすぎないようにしなよ。

 なんかあったら言いなね。会社泊めてあげるから」


「それはそれで嫌かも」


「ひど」


笑い合っているうちだけ、少しだけ普通になれる。

モニターに向かうふりをしながら、私はタスク一覧を開いた。


メールチェック。制作進行。クライアントの返信。

“日常”はちゃんと動いている。私の頭の中だけが、少しずつ軋んでいる。


 


* * *


仕事を早めに切り上げて、いつもより一本早い電車で帰った。


ホームの風が冷たくなってきている。秋の終わり、冬の手前。

白い息が、知らない人の肩越しに流れていく。


改札を抜けて、マンションまでの道を歩く。

街灯の下を通るたび、影が伸びたり縮んだりする。


ポケットの中で、スマホが震えた。


「……はい、真部です」


出ると、昨日の刑事の声が聞こえた。

名前を名乗りもしない、あの気の抜けたトーン。


『あーすいませんね、お仕事中? 昨日の件なんだけど』


「いえ、帰るところです」


『預かった手紙、ざっと目を通しました。

 今のところ、直接的な危害を示す内容はなし。

 “会いたい”とか“笑顔が忘れられない”とか、そういうのばっかりだね』


「……そう、ですか」


『まあ、気持ち悪いのは分かるけどね。

 とりあえず、今のところは“様子見”で。

 また何かあったら連絡ください』


「はい。ありがとうございました」


通話が切れるピッ、という音が、やけに冷たく響いた。


“様子見”。


私の恐怖は、観察対象に格下げされた。


マンションのエントランスの自動ドアが開く。

オートロックのパネルに暗証番号を押しながら、私は小さく息を吐いた。




* * *


玄関のドアを開けると、小さな足音が急いで走ってくる。


「ただいま、チャック」


ふわふわのしっぽを振りながら勢いよく飛び出してくる。チャックは2年前に保護犬団体から譲り受けた白い小型犬だ。

事故に遭い、右足がうまく動かない。


「お留守番がんばったね、えらいね」


それでも、元気良く足元をくるくる回ったあと、チャックは急に廊下の奥をにらんだ。


誰もいない、はずの暗がり。

洗面所とトイレのドアが並んでいるだけの、狭い廊下。


「チャック?」


もう一度呼ぶと、今度は玄関の外側に向かって吠えた。

ドアの隙間を嗅ぐように、鼻を押しつける。


嫌な汗が、背中をつうっと伝った。


「……ちょっと待って」


私は一度ドアを閉めて、インターホンのモニターをつけた。

誰も映っていない。外廊下は、白い蛍光灯に照らされて静まり返っている。


チャックはまだ唸っている。


「やめなよ。大丈夫だよ」


そう言いながら、外に出る勇気はなかった。

代わりに、ポストの小窓を開けて中をのぞく。


白いものが、一枚、差し込まれている。


私は、チャックを足でそっと遠ざけてから、ポストを開けた。


薄い白い封筒。

切手も、差出人も、裏書きもない。

表には、マジックで濃く太く――


「……“ヒナちゃんえ”」


声に出した瞬間、背筋が凍る。


「また……?」


指先が震える。封筒を開けるかどうかで、しばらく固まった。


チャックが、私の足元でくん、と小さく鳴いた。

心配そうな目で私を見上げている。


「……だいじょうぶ」


誰に向かって言ったのか分からない声が、玄関に吸い込まれていく。


封筒は、そのままコートのポケットに押し込んだ。

今日は、もう中身を見たくなかった。



* * *


シャワーを浴びて、簡単な夕飯を済ませて、チャックの散歩を終わらせても、

ポケットの重みは消えなかった。


テレビをつけても、内容が頭に入ってこない。

SNSを眺めても、何も面白くない。


テーブルの上に、ポケットから出した封筒が一枚だけ置かれている。


“ヒナちゃんえ”。


ゆっくり、深呼吸をして、私はそれを裏返した。

やっぱり、切手も差出人もない。


そのとき、スマホが震えた。さっきの刑事と同じ番号。


「……はい、真部です」


出ると、違う声がした。


『夜分にすみません。真部日向さんでお間違いないですか』


落ち着いた、よく通る声だった。


「はい」


『こちら杉並警察署のイシヅカと申します。

 ストーカー被害のご相談で来署された件、担当が本日から私に変わりました』


「担当……変わったんですか?」


『はい。少し気になる点がありまして。

 お時間のあるときで構いませんので、改めて詳しくお話を伺えればと思っています』


チャックが、私の膝の上に顎を乗せた。

スマホから聞こえる声に耳を傾けるように。


『ご不安なことも多いと思いますが、

 何かあればすぐ、この番号におかけください。

 できる限り、力になります』


「……ありがとうございます」


本当にそう思った。

少なくとも、この声は、昨日の刑事みたいに面倒くさそうではなかった。


通話を切ると、部屋の中が急に静かになった。


テーブルの上には、白い封筒が一枚。

チャックの鼻先が、そっとそれに近づいていく。


「……チャック」


呼ぶと、彼は封筒から顔をそらし、私の頬を舐めた。

私は、その温度にすがるみたいに、目を閉じた。

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