命を生む泥

@papapa_1

終わり

 つくづく僕はこの世が嫌だった。

 趣味の散歩は、この世からの逃避である。ひとところに留まれば、たちどころに現実が僕に覆い被さってきそうなのだ。現実とはズバリ、僕の中にムンワリと沸く鉛のような不安である。それを振り切るための行為をつまり、僕は散歩と呼んでいた。

 しかし、今日のこれはいつもとは意味合いが違った。

 友人Fと待ち合わせをしていたのだ。

 集合場所は安能自然公園。周りを囲む木々と小さな山しかない、つまらない公園である。

 西日の強い午後三時、集合時間だ。僕は日差しを逃れるように、一本の木の影側に寄り掛かってスマホを弄っていた。

 右足が小刻みに震える。舌打ちが響く。僕の舌打ちだ。

 Fから一通のメッセージが届いていた。

 曰く、すまない、気分が悪いからまた今度にしてくれ、と。

 約束の時間になってから連絡を寄越すなんて、不誠実な奴だ。

 僕は苛立ちを隠そうともせずに、家に帰ろうとして――帰ろうとして、それを止めた。

 鈍く、水気を含んだ破裂音が、一定の感覚で公園内に響いている。

 不気味に感じて音の方を覗いてみると、数秒前まで確実に何もなかったはずの場所に、一塊の大きな泥がいた。あった、のではない。いた。

 それはまるで人間の手のように泥を上に伸ばして、自らに叩きつけ、そこら中に泥を弾き飛ばしていた。

 一瞬、額に嫌な汗が浮かぶ。しかしそれは一瞬のことだ。よくよく見てみれば、上に持ち上げられた泥の先には、しっかりと手指が確認できる。すると、あれは泥の塊ではなく、あくまで全身に泥を纏った一人の人物である、ということだ。そう考えてみれば、どことなくシルエットが二十代頃の女性にも見える。

 成人している女性が泥まみれになって自分の体を相当強く叩いている、というのもなかなか異常事態だが、それなら見て見ぬふりをしてしまえば早いだろう。

 僕は一歩後退り、その場から離れようとする。その両足が、大地に縫い付けられたかのように動かなくなった。

 いや、足を縫い付けられたのではない。目だ。目を釘付けにされたのだ。

 今、彼女に弾かれた泥の一滴が、羽虫に変わったように見えた。

 ――そんな馬鹿な。

 あり得ない。現に、僕の記憶上では、最初からあそこには羽虫の群れがいたような気がしている。

 しかし、理性は痛いくらいに脳内に警鐘を鳴らした。

 泥の女は、次に膝(の位置に見える)を地面について、両手でそっと、土を拾った。

 一羽のカラスが、彼女の傍らに降り立った。二度、三度ほど周囲を見回した後、何事もなかったかのように飛んで行く。

 そんな一連の映像がビデオテープのように頭の中で再生される。

 しかし見た。今度ははっきりと。

 それは、彼女の両手に持った土が、真っ黒なカラスへと変貌し、空に飛び去っていく姿だった。

 独特の鉄のような匂いがする。額を触ると、ぐっしょりと僕の汗があった。

 次に彼女の方を見ても、そこにはただ、いつものようにつまらない公園があるだけだった。



 幸か不幸か、僕は定職に就いていなかった。

 だからか翌日も、その翌日も、気付けばあの公園に来ていた。

 午後3時を少し過ぎた頃、あの泥女は現れる。

 土を掬い、泥を弾き、石を投げ、生命を生む。

 その瞬間、世界の歴史は二重になる。

 奴が、鳩の群れを作ったことがあった。

 すると僕の記憶の中では、鳩はどこかからこの公園にやって来たことになっている。

 新聞には〝駅前の鳩の群れ、写真コンテスト入賞〟の見出しが乗っていた。

 日付を見ると昨日の新聞だった。

 ――コンテストに入賞したのは、ホトトギスの写真じゃなかったか?

 昨日のことを思いだそうとすると、鳩を見た記憶も、ホトトギスを見た記憶も、どちらもあるような気がしてくる。

 母親に確認してみても、怪訝な反応が返ってくるだけだった。

 新聞記者にも電話をしたが、相手にすらされなかった。

 唯一肯定的な反応を返してくれたのが、友人Fである。

 人間関係に恵まれない僕にとって、彼は小学校以来ただ一人の友人だった。

 前回の埋め合わせとして食事に誘われた時、こんな話をしてくれた。

「頭が痛くなったんだよ。あの公園に近づこうとしたとき。普通に行けば五分前には着く予定だったのに、進めば進むほど気持ち悪くなってくるんだ。かと思えば、帰ろうと決めた途端一気に気分が楽になる。何かあるよ。あれは」

 Fは酔っているらしく、顔を赤くして熱弁してくる。

「その化け物だけど、動画とか、写真はないの?」

「いや、撮ったよ。撮ったけど」

 僕はスマホをFに向けて見せる。

「写らないんだ」

 そこには、無数の鳩の群れが飛んできて、また飛び立っているのが見えるだけだった。

 僕はあの公園に近づいても何ともない。他の人は画面ごしでさえ彼女を見ることは出来ない。

 彼女と関われるのは僕だけなのだろうか?

 その疑念は、かすかに僕を高揚させた。

 気付けば、メモ帳とペンを片手に日付と彼女の行動を記録する毎日だった。

 Fとは密に連絡を取り合って、情報を共有した。

 観察していると様々なことが分かってくる。

 まず、午後3時頃、あの公園に近づく者はたとえFでなくとも途中で体調が悪くなる。

 次に、彼女が生み出した生き物は、どこの記録にも誰の記憶にも、最初から存在していたことになる。目撃している僕には、二つの記憶が混在する。 

 さらに、もともと土や石だった彼ら生き物達は、一度生まれてしまえばそうではないらしい。動物病院に連れて行っても、特に異常は見つからなかった。

 また、彼女は鳥や虫だけでなく犬や猫なども生む。町で見かけない動物を生み出すことはない。しかし、これは勘だが、生むこと事態は可能なのではないだろうか。過去をねじ曲げられるのだから、動物園から脱走した、とか過去を作れば、ライオンだって生み出せるはずだ。

 とある日、彼女が作った猫を追跡すると、一軒の家に着いた。子猫が三匹と、飼い主が出てくる。飼い主は、猫を見るなり歓喜の叫びを上げた。次いで僕を見て、感謝の言葉を捲し立てる。

「あ、あなたが見つけてくれたんですか? ありがとうございます! 本当に。本当に」

 話を聞いてみると、猫は二年前から飼っていたらしい。子猫を産んだのが一年前。そして、ここしばらくは行方不明だったそうだ。

 目に涙を浮かべるほどに喜んでいる彼を見ると、仄かに後ろめたい気持ちになってくる。

 その二年間の猫との記憶は、本物なのだろうか?

 その子猫は、何から産まれたのだろうか?

 彼は、その猫がいなければどういう人物だったのだろうか?

 あるいは僕の見た、あの泥の女の方が偽物なんじゃないか?

 僕が勘違いしているだけで、本当はあんな化け物存在しないんじゃ。

「なら、やっぱり俺も行こうか? 安能公園」

 この悩みを打ち明けると、Fはそう提案してくれた。

「いや、途中で歩けなくなるんじゃないか?」

「そしたら台車ででも運べばいい。たしかお前の実家にあったろう。あれを使おう」

 その後もいくつか問答を重ねたが、結局はFに押しきられる形で、僕はその提案を了承した。

 翌日の日曜日、正午を過ぎた頃だった。

 僕は家の物置から、錆びた台車を引きずり出す。祖母が畑仕事に使っていたもので、タイヤが半ば潰れていた。動かすといちいち不愉快な音が。

 Fはそんなこと気にも留めない様子で、暢気に笑っていた。

 集合場所から公園までは歩いて二十分もかからない。

 初めの五分はFも平然としていたが、次第に息があがってくる。

 額には汗が滲んで、瞳孔が定まっていない。

 心配して声をかけても、返事を返さない。

 頬を叩いて、大声で名前を呼び、そこでようやくこっちを向いた。

「やっぱり止めよう。身体が壊れたらおしまいだ」

「行く。ダメだ、ダメだ。絶対に行く。這ってでも行くぞ。ほら、台車に乗せろ」

 僕は彼が、一度決めたら簡単には止められない性分であることをよく知っていた。

 彼のそういうところを尊敬していて、しかし今はそれが怖かった。

 結局また押しきられる形で、Fを台車に乗せた。人一人分重くなったそれを、ゆっくりと押し進めていく。

 鎖の束を雑巾絞りしたような音が、町中に反響した。

 そこらの家が扉を開けて、苦情でも言ってくると思ったが、どの家も窓を閉めきって出てこない。

 それどころか、見渡す限り人っ子一人居やしなかった。

 日曜日の真っ昼間である。

 

 一本道。

 

 ここを抜ければ、例の公園である。

 Fは先ほどから何も喋らず、台車の上でぐったりと寝転がっていた。

 もはや嗅ぎ慣れた、土と草の匂いが香ってくる。僕はこの微かな、けれど気付いてしまえば無視出来ない匂いが嫌いだった。

 Fがうめき声をあげて、何やら踠きだす。台車から落ちてしまいそうだった。

 僕が良心の呵責に耐えかねて、救急車を呼ぼうとすると、やはり、Fに止められた。

 仕方なく、Fを台車から下ろし、残りの短い距離は肩を担ぎながら進むことにする。

 時間にして三分もかかっていないはずなのに、なぜだか異様に感じた。


 安能自然公園に着いた。


 Fはそこでぐったりと倒れてしまった。仕方なく、僕はFを茂みに隠す。

 殺人犯が死体を隠す、刑事ドラマのワンシーンを連想した。

 僕が木の影に隠れて、しばらく待つと、一塊の泥が現れた。

 いつも通りに、いつの間にか。

 泥は鈍い光沢を放ちながら流動しており、女の形を成していた。

 故に泥女。 

 泥女は普段となんら変わらぬ様子で、自分の身体を殴ったり、手を突っ込んで掘ったりしている。

 露出された目からは如何なる感情も読み取れないが、振り下ろす拳が妙に痛そうで、苛立っているようにも見えた。

 おもむろに、彼女が背を丸めて、お腹の辺りから、吐瀉物のように泥を吐き出す。

 不規則に、ぬめりを帯びた音が公園内に響いた。

 雨上がりの腐葉土の匂いがする。

 吐かれる泥は止まるところを知らず、終いには彼女の背丈と同じくらいまで大きくなった。

 予感がした。悪い予感だ。

 その泥は粘土のように形を変え、一つの生命になった。


 それは、僕の唯一の友人の姿だった。


 よれた服や、ボサボサの髪、陰気な猫背まで、どこを見てもそっくりだった。

 馬鹿な、とも、何で、とも思わなかった。その時僕はただの一本の木で、何を思うでもなく、その光景を見ているだけだった。

 混乱や恐怖ができるほど冷静ではなくて、ただ、見ていることしかできなかった。

 その、かつて泥だった何かは、散歩でもするような調子でFのいる茂みに近づいていく。そうしてパタンと、Fと重なるように倒れてしまった。

 ここからではどうなったのか見えない。

 視線を公園内に向けると、泥女は既に消えていた。

 僕が恐る恐る、茂みに近づいてFを隠した場所を覗くと、そこには一人の男が穏やかな寝息を立てているだけだった。


 いるのは一人、だけだった。


 全身の血管が膨張し、心臓が早鐘のように鳴る。

 吸っても吸っても呼吸が足りない気がして、酸欠になったみたいに頭がくらくらしてきた。

 さっき、二人目のFが現れたのか?

 でも、目の前にはFは一人しかいない。

 どちらかが消滅したのか? だが、今までの観察でそんな事態は見たことがない。

 ……いや。今までの観察をもとに考えるならむしろ。

 ――止まれ。

 むしろ、泥から生まれたFと、今日共にここまで来たFは、同一人物として考えるのが、自然じゃないか?

 ――考えるな。

 Fという存在は、たった今泥からこの世界に生まれた存在で。

 僕がFと過ごした記憶も、先刻の一瞬でできた仮初の記憶なのだとしたら……。


 蟀谷から血が吹き出そうになるほど、脳ミソが回っている。

 僕の中の、Fと過ごした思い出の下に、もう一つの、二重になった記憶が蘇ってきた。

 それを、注意深く思い出してみれば。


 僕は小学生の頃から、今の今まで友達なんて一人も居ない、世界で一番惨めな男だった。


 僕は発狂して、その公園から逃げ出した。

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