第10話 ふうせん

“気付き”を知らなかった「俺」

“気付けていなかった”ことに気付けるようになってしまった「ぼく」


「ふうせん」


「俺」はとても大切な

「ふうせん」を持っている。


 その「ふうせん」はしっかり握っていないと飛んで行ってしまうから、俺は常に意識を集中させて握っている。


 それは、彼女と出かける時も握っている。

 何かの拍子に飛んで行ってしまわないようにと右手の中の紐のことばかり気にしながら過ごしている。


 目的地までの道のり、俺は大切な「ふうせん」を失わずに持って歩くことに必死で、ふうせんの紐を握っている右手だけに意識を集中させている。

 道端の花壇の花を踏みつけてしまっても、公園で子供たちが作った砂のお城を踏みつぶしても、誰かが落としたハンカチを踏み潰しても気付くことはない。

 注意してくれている彼女の声も聞こえていない。


 目的地にたどり着いたとき、俺は

「大切なふうせんを失うことなく目的地に着けた!」

 と安堵した。

 ところが、気付くと一緒に居た彼女はひどく怒っていた。

「あんた最低だよ」と俺を罵った。

 ふと、足下を見たら新品だった俺の靴は植物片や砂でひどく汚れている。

 ふうせんを失わないように目的地に着くことだけで頭の中が一杯だった俺はどこを通って来たか覚えておらず、靴が汚れている理由が分からない。


 彼女が怒っている理由も俺には分からず、

「なんで怒っているの」

 と聞いたが、理由が分からないと言う俺の事が許せない、とさらに怒って帰ってしまった。

 俺にはその理由がちっとも分からない。

 彼女は怒って帰ってしまったが、俺の頭の中は

「大切なふうせんを失わずに目的地まで来れた」

 という達成感の方が強く、帰ってしまった彼女の事はもういいや、違う女の子に連絡すればいいかなと思う。

 こんな状況でも、「俺」は自分の行動や考えが異常なのかもしれないなどとは思ってもいない。


 今(現在)、薬を服用するようになった「僕」は、普通の人が“気付けること”に

「気付けていなかったんだ」

 ということに気付けるようになり、過去の自分の異常さについて考えられるようになった。


「何を言ってるの。そんなことも分からなかったの?」

 と言われてしまうだろうが、

 大切な「ふうせん」を失わないためには、「手で持つ」以外にも手首やベルトにくくる、重りを付けておく、彼女に持ってもらうという手段があることも考えられるようになった。

 普通なら当たり前に考えられることだと思うが、「俺」には考えつきもしなかった。


 なんという変化だ!

 これは進歩?

 成長?

 なんなのだろう……。

 初めての感覚過ぎて混乱する……。


「俺」は、とても大切な「ふうせん」を常に右手に持っていた。

 その「ふうせん」は「強い自分を演じてる」俺自身。

 いつも失わないようにと、持っている右手にばかり意識を集中させて過ごしてきた。

 そうすることで、もっと大切な他のものを失ってしまっていたんだということに「僕」は気付いた。


 どん底まで落ちてしまった今までの「俺」。

 今、この歳で気付けた「僕」の未来はきっと明るい。


「僕」はこれから「私」として、生きていけるかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る