ステージ5:烏(カラス)の掌の上
【ステージ4の結末より】
玲は、遠のく意識の中、黒龍、エコー(影)、そして目的不明の協力者を名乗るカラスという、新たな三つ巴の絶望的な渦の中心で、為す術もなく、ただ闇へと沈んでいった。
【バトル8 vs. 影(エコー) vs. 烏(カラス)】
「……高遠 渉の、遺産……」
エコーのホログラムマスクの下で、混線した声が、カラスの言葉を不気味に反復した。
「……理解不能。ノイズ。排除対象……」
エコーは、目の前の新たな「ノイズ源(カラス)」にターゲットを変更した。
その小さな身体が、再び物理法則を無視して、カラスに向かって滑るように浮遊する。
「おっと、随分とお早いご挨拶だ」
カラスは、芝居がかった仕草で肩をすくめたまま、一歩も動かない。
エコーが、その冷たい指先をカラスへと伸ばす。
黒龍の「気」さえも逆流させた、必殺のクオリア・ハッキング。
だが、カラスの兵士たちが、彼の前に立ちはだかった。
彼らは、銃器ではなく、奇妙な円筒形のデバイスをエコーに向け、一斉に起動させた。
ブゥゥゥン――
重く、低い作動音。
円筒形のデバイス群が、強力な妨害電波(ジャミング)と、指向性の音響パルスを放出した。
それは、偽預言者の「聖歌」のような無差別なノイズではない。
エコーの存在そのものを構成する「周波数」を、ピンポイントで狙い撃ちにするための、「計算された不協和音」だった。
「……ッ……!?」
エコーの身体が、初めて激しく痙攣した。
ホログラムマスクが、テレビの砂嵐のように激しく明滅し、その輪郭が不安定に揺らぐ。
「……ノイズが……うるさい……! きたない……!」
「『影』の犬よ。君の力は確かに規格外だ」
カラスは、自らの兵士たちが作り出した「安全地帯」から、冷ややかに告げた。
「だが、君のその力は、カレイドスケープの『規格』に依存しすぎている。この旧市街(スロウタラム)のアナログなノイズには、まだ弱いらしい」
カラスは、膝をついたまま動けない黒龍に、一瞥をくれた。
「『国家』の犬も、同じだ。お前たちの力は、システム(秩序)の上でしか機能しない。この混沌(カオス)の中では、我ら『烏』こそが、唯一の法だ」
黒龍は、屈辱に顔を歪ませながらも、冷静に状況を分析していた。
満身創痍の玲は、意識を失っている。
正体不明の化物(エコー)は、カラスの部隊によって動きを封じられている。
そして、このカラスという男は、その両者の力を正確に分析し、的確な対策を講じている。
(……この男……危険すぎる)
黒龍は、「気」の逆流の苦痛に耐えながら、静かに部下へ撤退の合図を送った。
ここで三つ巴の消耗戦を続けるのは、最悪の愚策。
「魂石」も「調律者」も、一度、この男に預けるしかない。
「……撤退する……」
エコーもまた、自らの力がジャミングによって無力化されつつあること、そして最大のターゲット(玲)を奪われようとしている状況を「影」に報告するため、その姿をデジタルノイズの中へと溶け込ませ、音もなく消え去った。
戦場に、奇妙な静寂が戻る。
残されたのは、意識を失った玲と、膝をつく黒龍、そして、全てを見通していたかのような勝者、カラスだけだった。
「さて、黒龍殿」
カラスは、楽しそうに歩み寄り、玲の身体を抱き上げた。
「あなたもご自由に。……もっとも、自力でここから生きて帰れれば、の話ですが?」
黒龍は、何も答えなかった。
ただ、その氷のような瞳で、玲を抱えて闇に消えていくカラスの姿を、深く、深く、刻みつけていた。
【ステージ5:烏(カラス)の掌の上】
意識が、清潔なリネンの匂いと共に浮上した。
「……ん……」
次に感じたのは、激痛――ではなく、鈍い痛みと、包帯の感触だった。
脇腹、肩、太腿……あれほど酷かった傷が、的確に手当てされている。
玲は、ゆっくりと目を開けた。
そこは、コンテナ倉庫とは似ても似つかない、アンティークな調度品で統一された、落ち着いた書斎のような部屋だった。
(……どこ……ここ……)
「目が覚めたかね? 『眠り姫』」
声の主は、あの男――カラスだった。
彼は、暖炉のそばの革張りのソファに深く腰掛け、玲が目覚めるのを待っていたかのように、一杯の紅茶を差し出してきた。
「……あなたは……」
玲は、身構えようとしたが、身体に力が入らない。
「安心したまえ。君は客人だ。もっとも、『私』の客人だがね」
カラスは、皮肉げに笑う。
「……黒龍は? あの化物は……?」
「『国家』の犬は、尻尾を巻いて逃げていったよ。『影』の犬も、ね。おかげで、こうして君と二人きりで、ゆっくりとお茶が飲める」
玲は、カラスの目を真っ直ぐに見据えた。
「……目的は、何? あなたも『魂石』が欲しいの?」
「魂石? ああ、スタークや黒龍が血眼になって追っている、あの『石』か」
カラスは、心底つまらなそうに紅茶を一口すすると、カップを置いた。
「勘違いしないでほしい。私が欲しいのは、そんな『ガラクタ』ではない。
私が欲しいのは、高遠 渉が命を賭して守ろうとした『理想』……そして、その理想を唯一、実現できる可能性(・・・・・)……」
彼は、ソファから立ち上がり、玲のベッドの傍らまで歩いてきた。
その目は、玲を「獲物」としてではなく、まるで「希少な美術品」を鑑定するかのように、ねっとりと見つめている。
「……君だよ、有栖川 玲君」
玲のクオリアが、警鐘を鳴らす。
目の前の男の「音」は、穏やかな言葉とは裏腹に、歪んだ「不協和音」を奏でていた。
それは、黒龍の「執念」とも、ステュクスの「無」とも違う。
全てを自分の思い通りに作り変えようとする、独善的で、狂信的な「支配欲」の音。
「渉の意志を継ぐ……そう言ったわね」
「ああ、そうだとも。彼は、この腐った世界を憂いていた。魂石ネットワークで人々を支配する『影』を憎んでいた。彼は、人々を『解放』しようとしていたんだ」
「……」
「だが、彼のやり方は生ぬるかった」
カラスの声のトーンが、一段、低くなる。
「彼は『調和』を望んだ。だが、ノイズだらけのこの世界で、調和などあり得ない! 必要なのは、絶対的な指導者による、完璧な『調律』だ。不協和音を奏でる者は、徹底的に排除し、世界を一つの『正しい旋律』で統一するんだよ」
玲は、息を呑んだ。
この男は、「影」とは別のやり方で、「影」と同じことをしようとしている。
「君には、その『力』がある」
カラスは、恍惚とした表情で、玲に手を差し伸べた。
「私と共に来たまえ。私が『指揮者』となり、君が『楽器』となる。二人で、渉が夢見た、真の世界のシンフォニーを奏でようじゃないか」
玲は、その手を、振り払う力さえなかった。
地獄のような連続バトルを生き延びた先に待っていたのは、暖かなベッドと、一見、紳士的な協力者。
そして、その実態は、より巧妙で、より危険な、新たな「支配者」の掌の上だった。
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