8.水
「残りの時間を、悔いのないように過ごしてください。」
そう告げた病院の先生の言葉は、わたしに与えられた最後の課題だった。命の期限が半年と宣告された後、両親はそれまでとは比べ物にならないほど、頻繁に病室に来てくれた。母は、泣きながらわたしが食べたかった外の食べ物を買ってきてくれたし、父は、わたしを抱きしめて、何度も謝った。
両親の愛が罪悪感から来ていると知っていても、そのぬくもりは、冷え切っていたわたしの心を、少しだけ温めた。
そして、わたしは、病院から、自由に外に出ていいと許可された。もちろん、無茶はしないという条件付きで、ポータブルの酸素ボンベは常に用意されたままだ。心臓がいつ止まってもおかしくない状態ではあるけれど、ドクターは、「最期の時間を、白い病室だけで終わらせたら嫌でしょ?」と言ってくれた。
わたしが選んだ悔いのない過ごし方。それは、高校に行くことだった。
もう、入学式の日にもらった真新しい制服を、ただ枕元に飾っておくだけでは終わりたくなかった。あと半年なら、せめて一週間だけでも、一日だけでも、普通の高校生として生きてみたかった。
父は泣いて反対したけれど、母が、「真礼の好きにさせてあげて」と、わたしの肩を抱きながら言っている。
母のその一言が、わたしを白い世界から外へ押し出した。
わたしは、念願の高校の教室の扉を開けた。四月の入学式の日以来、一ヶ月ぶりの、「普通の世界」だった。
教室に入ると、一瞬、ざわめきが静まり、クラスメイトの視線が一斉にわたしに集まった。わたしは、入学式の集合写真で見た、あの屈託のない笑顔の輪の中に入ろうと、少しだけ震える声で挨拶をした。
「笠原真礼です。心臓が悪くて、長い間休んでいました。今日から、短い間だけど、仲良くしてください」
担任の先生が、わたしを空いている席に案内する。わたしの隣の席は、あの時、クッキーを持ってきてくれた葵だった。葵は、満面の笑顔で、「真礼ちゃん!また会えたね!嬉しい!」と言ってくれた。葵の周りの数人の女子たちも、優しく微笑んでいる。
授業は、わたしには全てが難しかった。一ヶ月の遅れを取り戻すのは不可能だけれど、友達とお弁当を食べ、放課後に教室で笑い合う日常の音の中にいることが、ただ、幸せだった。
わたしは、この短い時間の中で、「普通の高校生」の景色を、五感の全てに焼きつけようとした。
しかし、その小さな幸せは、長くは続かなかった。
数日後、わたしがトイレの洗面台で、薬を飲もうとしていると、クラスの目立つグループにいる、百合という女子生徒がでてきた。
入学式で、わたしの隣に立っていた、もう一人の女子生徒だ。
百合は、わたしを品定めするような、冷たい目でギロりと睨んだ。
「ねえ、笠原さんてさ、本当に心臓悪いんだってね。ドクターに『あと半年で死ぬかも』って言われたんでしょ?」
わたしは、言葉が出なかった。クラスの誰にも、自分の命の期限は話していなかったはずだ。
「うちの親、病院の関係者なの。あんた、高校生ごっこしに来たの?迷惑なんだけど」
百合の口から出る言葉は、毒のように、わたしの心を侵食した。
「あんたがいると、みんな気を使うんだよ。体育もできないくせに、何しに来たわけ?みんな、可哀想な人扱いするのが疲れてるの。どうせすぐ死ぬんだから、大人しく病院のベッドにいろよ。それが、あんたの役割でしょ」
「あんたの役割」という言葉が、わたしの心臓を、ナイフで抉るように突き刺した。わたしは、ただの「欠けた存在」で、クラスの平穏を乱す「異物」だったのだ。葵の優しさも、クラスメイトの笑顔も、全部わたしへの「憐れみ」と「遠慮」で塗り固められたものだったのかもしれない。
わたしは、その場で呼吸が苦しくなり、酸素ボンベのマスクに手を伸ばすのが精一杯だった。
次の日から、わたしはまた病院に閉じこもるようになった。
両親は、「もう少しだけ行ってみたら」と励ましてくれたけれど、わたしは首を横に振った。わたしには、「普通の世界」に、入ってゆく資格なんてない。わたしの人生は、白いシーツの上で終わるのだと、絶望した。
わたしは、毎日、ベッドの上で泣いた。心電図の「ピー、ピー」という音が、まるで百合の声のように、「あんたの役割」「あんたの役割」と繰り返しているように聞こえた。
「あと半年」という命の期限よりも、世界から拒絶されたという事実の方が、わたしにはずっと辛かった。わたしは、誰にも愛されず、誰の記憶にも残らずに、ただ、この白い部屋で朽ちてゆくのだ。
明け方、父も母も帰った後、わたしはベッドから降りた。トイレに行きたかった。点滴のスタンドを慎重に引きながら、病室の奥にある洗面台に向かう。
壁に取り付けられた鏡には、酸素マスクを外した、青白い顔のわたしが映っている。その顔は、涙の跡でぐしゃぐしゃだった。
わたしは、蛇口をひねり、冷たい水を手のひらに溜めた。その水を顔につけ、一瞬だけ、冷たさで現実から逃れようとする。
もう、生きているのも、死ぬのも辛いし怖い。
どうして生まれてきてしまったのだろう。わたしなんて、いない方がみんな幸せだったのだ。
そんなことを考えていると、冷たい水に触れたわたしの手のひらに、急に、異様な圧迫感が伝わってきた。
ぬるりとした、皮膚ではない、何かの冷たい感触が、わたしの手を強く掴んでいる。
洗面台の鏡に映るわたし自身の目が見開かれた。
水は、まだ蛇口から細く流れ続けている。けれど、わたしの手のひらを掴んだ見えない何かが、急に、わたしを下へ、下へと引きずり込み始めた。
「ひっ……!」
わたしは、声にならない悲鳴を上げる。足元から冷たい空気が這い上がってくるような、強烈な水の感触が、わたしの体全体を包み込んでいった。
点滴のスタンドが、ガシャンと大きな音を立てて、倒れた。
わたしの手首に、氷のように冷たい指が食い込んでいる。
どんなに逃げようと手を手前に引いても、動かない。抵抗すればするほど、腕が痛む。
「や、め……て……」
わたしは、そのまま、洗面台の鏡に映る自分の顔が、歪んだ絶望の表情を浮かべるのを、ただ見つめていた。水面が、黒い穴のように渦を巻いて、わたしをどこかに引きずり込んでいった。
水が、ばしゃんと音を立てて、水面が迫ってくる。
洗面台の鏡には、最後に、水しぶきと、わたしが着ていた白いパジャマの袖の残骸だけが、一瞬だけ映り込んでいた。心電図の「ピー、ピー」という音は、誰もいない病室の中で、虚しく、鳴り続けている。
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