第2話 愉快な船旅


 乗船開始のアナウンスがされる少し前、ライダー達は一人二人と移動を既に始めていた。少し眠っていた男は若干出遅れた気がして、早足でバイクへ向かった。

「出航すると車両甲板へは入れません。お荷物や貴重品は船内へお持ち下さい」

 係員が拡声器でアナウンスしている。バイクの待機列の先頭は既に動いており、一台一台と係員の誘導で船内へ入る長い坂道を渡っていた。

 この航路の船は後部右側にハッチがあり、そこから車両を搬入する。地上からは軽く十メートルくらい上にあり、そのために緩く長いスロープが必要なのだ。

 男は準備をしながら、あっけに取られていた。あんなに大きな船を見たのも初めてだし、何より到着時には建物だと思っていたからだ。

 一台一台とバイクを積載している中、向こうではトラックやトレーラーが列をなしている。よく見るともう一つスロープがあり、別の入り口から積載が行われている。

 よくもまあ沈まないのだな、それが感想だった。バイクなんてたかだか二百から三百キロくらいだけど、トラックは軽く十トンは超えている。

 確かにこの船はトラックの何十倍も大きいからそれが可能と言われたらそうなのだが、浮力という物の凄さ、自動車航送の高い技術を肌で感じ、ますます気分が高揚していた。

「準備が出来た方から前へ進んで下さい」

 感動し過ぎて自分が何をしているかわからなくなっていた。前に並んでいたバイクの列はそこになく、自分が出遅れている事にやっと気が付いた。

 とりあえず船内に持ち込むバッグを再確認して、ヘルメットをしてエンジンをかけた。そしてすぐにエンジンはスンと止まってしまった。おかしい、こんな事今まで無かった。何かトラブルだろうか。そう思いながらキーを一度オフにしてもう一度エンジンをかけようとした時、サイドスタンドが仕舞われていない事に気が付いた。

 すっかり興奮して当たり前の事を忘れていた。トラブルじゃなくてよかったと言うより、当たり前の事を忘れていた事に対する恥ずかしさが勝った。

「乗船券を確認します」

 ここをパスしなければ船には入れない。さっとデジタルの乗船券を見せると、端末でぴっと読み込んで完了だった。

「ゆっくりどうぞ」

 既に誰もいないスロープは、近くで見ると結構急に見えた。脇にある時速十キロの看板が、やけに気になった。

 その理由はすぐにわかった。スロープは金網の様な構造でとても滑りやすいのだ。こんな所で止まってしまっては、発進にかなり手こずるだろうな。それでも何とか、バイクを所定の位置へ納める事が出来た。周りは手練れの者が多い様で、皆足早にバイクを後に客室へ続く階段を上がって行く。

 この光景はいつまでも見ていられる気がした。車両甲板はまるで映画やSFの世界みたいな、非日常空間に思えた。光る棒を持った係員があちらこちらに立っており、自動車が一台一台と入って来る。

 車両甲板の明るさからなのか、外から見た時よりも少し狭く感じていたが、それでも車はどんどんと入って来る。誘導員は前の車ギリギリまで隙間を詰めさせている。あまり運転に慣れて居なさそうな者からスポーツカーに乗っている者まで、皆誘導員を信頼しているのだろう。

 流石に排気ガスの匂いがきつくなってきたので、客室へ上がる事にした。シートの左右に付いているバッグは着いてから使う道具を収めているので、リアシートのバッグを一つだけ持った。

狭い階段は人ひとりの幅しかなく、すれ違うには踊り場で待たなくてはならない。前に人がいたら、当然追い越しは出来ない。そんなに大きなバッグではなかったが、どうしても窮屈さを覚えた。

 人の流れに身を任せながら通路を進んで、やっと広い場所に出た。中央に螺旋階段があるここら辺が船内の中心スペースだ。そして次に迷った、自分はいま何階にいて自分の部屋はどこなのかを。

「ここは四階でございます。よろしければお伺い致します」

 慣れた様子のスタッフだった。

「五○一四って、どこですかね」

「一つ上の階ですね」

 スタッフの示す先に従い、螺旋階段を昇る。ちらほらとすれ違う人達はまるでコマーシャルの様に両手一杯に缶ビールを抱えていたり、お風呂道具を持って足早だったり、目的が明確に見て取れるのがいかにもバイク乗りらしいと思った。

 ハイシーズンなのに個室が取れたのは、本当によかった。部屋は小さな机に背もたれの無い丸椅子、それとシングルベッドがある簡単な造りだ。ここまで広いなら冷蔵庫でもあるとなお良かったのだが、半日ちょっとなので贅沢は言わない。

 先達に習って早めに風呂に行くか、それともデッキに出て積込風景を肴にこんな明るい時間からビールでも飲むか、そんな事を考えてうっかりベッドに座ってしまったら、少し眠ってしまった。


 揺れている感覚がしているなと思っていたら、警笛が鳴って、はっと目が覚めた。船内放送が部屋の中までばっちり聞こえて、賑やかで楽しそうな声も聞こえる。ああ、もう出航したのか。

 寝起きだからか、それとも暑さのせいか、喉の渇きを覚えた。

「小樽到着は明日の朝四時三十分を予定しております。波は穏やかな予報です。天候は……」

 大音量のアナウンスは個室でさえ聞こえるのだから、二等船室ならもっと聞こえがいいのだろう。船内を歩くと少しだけ揺れているのがわかった。

 なるほど、これは自ら酔ってしまった方がいいかもしれない。そう思って売店を目指したら、既に閉まっていた。次の開店時間まで大分時間があるのは、少ない人員でやりくりしているからだろうか。隣の食堂はオープン前なのに既に長蛇の列。自動ドアの向こうでは慌ただしく働いている様子が見える。

 そんな食堂の脇に、自動販売機コーナーがあった。種類は豊富でまだ到着していないのに北海道限定商品も楽しめる。ここは迷うことなく、北海道限定のビールを選んだ。

 最上階の後部デッキに出ると、まだ陽も高く、暑かった。潮風の香りと重油の燃える匂いがした。風が強かった。空はどこまでも高くて、まだ陸地が見えて、何人かが手を振っていた。停泊している海上保安庁の船、わざわざ甲板に出て二人の隊員が笑顔で手を振り返していた。嫌いじゃなかったが、暑さにやられそうだったので場所を変える事にした。

 案内図に目を凝らしていたら、良さそうな場所を見つけた。船の側面にもデッキがあるのだそうだ。徐々に汗をかいてきた缶ビールはそこで飲もう。そう思ってデッキへ出たら、大正解だった。

 船が水を分ける音が心地よく、涼しさを覚えた。そして日陰だ、これはいい。手すりにもたれながら缶ビールを開けると、待たせ過ぎた様で、泡が溢れて来た。もったいないと思いながら迎えに行くと、やけに濃い味に感じた。

 一口はいつもより多かった。それだけ喉が渇いていた。少しだけ解放感による影響もあると思った。目の前に広がる日本海、どこまでも青い。水平線に特別な思いを抱いた事は無かったが、目の前に広がる景色を見ていると、詩人の気持ちがわかる気がした。

 まだ陸地が近いからだろうか、ウミネコが船に並んで飛んでいる。そう言えばさっき上でエサをあげてる人がいた様な。流石にアルコールを与える訳には行かないので、期待には応えられないのを少しだけ申し訳なく思いながら、酔いを回した。

「……楽しそうだな」

 気のせいだろうか、少女の声がした。まあ自分以外に誰かいてもおかしくない、そう思って辺りを見回してみたが、誰もいない。

 外階段に小さな人影が一つ、立ち入り禁止のロープが張られたその下の段に座っていた。

 それとさっき少女と言ったのは撤回、既に何本もの空き缶が並べられていた。少女に見えたのは膝上位まである裾の真っ白なワンピースと長く黒い髪、そして小さな背丈のせいだった。

「おお、ウミネコじゃん。今日も来たのか」

 よたよたと酔っ払いの足取りで手すりから手を出すではないか。

「危ないですよ」

「だいじょうぶだって、私は……え、今なんて」

 振り向いた少女は、そのままのしのしとやって来て、男の両肩をがしっと掴んだ。

「痛いんですけど」

 しかも酒臭い。

「あんた、いやあなた、どこから来たの?」

男は少し嫌そうな顔をして見せたが、女の目から滴がこぼれたのを見逃さず、危ないからと適当な事を言って、とりあえず船内に入る事にした。

 船内は賑わっていた。あちらこちらで酒盛りが行われ、子供たちが楽しそうにはしゃいでいる。両手一杯に持っていた空き缶をゴミ箱に入れると、

「今日も賑やかだね」

 少女、いや女はしみじみと言った。

「とりあえず私の部屋に来てよ」

「いきなりですか」

「いいや、違うよ。ちょっとしたお礼がしたくて。おつまみくらいなら出せるから」

 なんだか不思議な気分だったが、乗り掛かった舟だ。厚意に甘える事にした。彼女の後を付いていったのだが、すれ違う子供と背丈が同じか、少し大きいくらいだった。よくもまああんなにお酒が入るものだな、そう思わずにはいられなかった。

 部屋は個室だった。それもツインルーム。連れでもいるのだろうか。でも荷物の類は見当たらなかった。

「そこ座って」

 そう言われたが、ベッドの上に座るのは文化の違いだろうか、男には受け入れられなかった。

「いや、椅子でいいかな」

「そう? まあどこでもいいからさ」

 女は冷蔵庫に手をかけて、しゃがんでいる。

「折角だし、近い方が嬉しいかな」

 両手にビールを持った女は、やっぱり少女の様に見える。

「あなた酔ってるから。一緒に来てる人いるでしょう?」

 少し他人行儀な言い方だったが、他人である事は違いない。

「だいじょうぶだって、一人だから」

 右手に持っていた缶ビールを目の前に突き出されて、

「もう一杯くらい、飲めるよね」

「あなた程じゃないけどね」

 優しく受け取った。ちょっとだけ指先が触れた。

「あなた、温かいのね」

「角田です、角田(かくた)衛(まもる)」

「じゃあカクエイだ」

 そう略すのか。

「あんまり恐れ多いから、衛で頼むよ」

「いいや、カクエイだよ。えぇー、私がぁー」

 本物を見た事はないけれど、急に言われたので思わず笑ってしまった。と思ったら、凄い勢いで距離を詰められ、見つめられて、たじろいだ。

「いや、あー、えーっと」

 凄い近い、息が当たる。お酒臭い。

「とぼけないで」

 あんまり必死だったので、

「誰かと間違えていたりしないですかね」

 男の言葉に返答もせず、嬉しそうに笑った。

「そうか、そうかそうか。うんうん」

 なんにも理解できず、男はぽかんとしていた。

「いや、ごめんごめん。ちょっと、嬉しくてね」

 なんだか弄ばれてる、でも相手はすごく楽しそう。とりあえず飲みかけのビールを一気に飲み干してから、

「よし、乾杯しよう」

 女から貰ったビールを開けた。

「うしうし、乗って来たね」

 女もすかさず缶を開けたから、連続的に二つ音がした。

「何に乾杯?」

 角田の問いに、

「そりゃあ、決まってるでしょう」

 女は楽しそうに言って、頬にキスをした。

「私達の出会いに。あと、カクエイに」

 この女の元気さには振り回されそうだ、そう直感が言っているのがわかった。

 彼女はとても楽しそうに話をしてくれた。角田も負けじと話を広げた。面白い事に彼女はどんな話でも笑っていた。ありふれた話だと自分でも思ったが、彼女には新鮮だったのだろう。

 だからあっという間にお酒が無くなって行った。一本、また一本とお酒を貰った。その度に申し訳なく思って謝ると、満面の笑みで気にするなと言ってくれた。見た目より大分年齢は上なのかもしれない。

「ねえ、ちょっと外の空気吸わない?」

 角田はすっかり酔いが回っていて、

「いいですね、行きましょう」

 女と変わらない程上機嫌で、握りこぶしを顔の前でぐっと作って見せた。

「いいね、いい感じじゃないの」

 ぱたぱたと駆け寄る女、そのまま腕を抱かれた。

「大丈夫だって、これくらいしたって誰も見てないって」

 そういう問題ではなかったが、旅の恥は搔き捨てと言う言葉が浮かんだ。

最上階の後部デッキに出ると、夕焼けが広がっていた。既に太陽は沈んでしまった様だが、まだ明るさが残っている。夏の陽が長い事はわかっていたが、ここは洋上。障害物が無いとこんなにも空は高く広いのか、地球が丸い事を思い出していた。

 さっきは近かった陸地が、今は遠くに見える。そして段々と、その姿がぼんやりとしている。

「綺麗だね」

 角田は言った。

「写真撮らないのね」

 言われて思い出した。でも同時にスマホを女の部屋に置いてきた事も思い出した。

「部屋に置いてきちゃった」

「あれま」

 二人は酔っ払い特有のそれで、馬鹿みたいに笑い合った。

「でも、本当に。綺麗だ」

 手すりにもたれる女、やっと手が届いている様に見える。

「不思議だよ。ずっと見ているのに、今日は特に綺麗だ」

 まるで口説き文句だ。

「おれが女の子だったら、惚れちゃうかも」

「どうだか。言葉一つで落ちるなら苦労しないんじゃなくて」

 日が暮れていく、ゆっくり、ゆっくりと。

「カクエイは、どうなの?」

「どうって」

「そりゃあこの後の予定よ」

「ああ、そうだな。まずは一気に最北まで行っちゃうかな。その後は……」

 女は高笑いをして、

「ほんと、バイク乗りはいつもそうね」

 楽しそうに言った。

「だってそうじゃない」

 この船に乗っている者は漏れなく、明日の朝までやる事は限られている。出来る事と言えば、食事と入浴、あとは睡眠くらいだ。

「私、嬉しいの。今日はすごく、とっても。とにかく嬉しいのよ」

 白いワンピースの裾が風に煽られひらひらと揺れる。

「この嬉しさを、もっと伝えたいの」

 両腕を真横に広げ、くるくると回りだした。まるで白い花が咲いたかの様に、裾が楽しそうに遊んでいた。そうして、流れる様に角田の背中に抱き着いた。

 ちょっと待って、そう言ったら、

「つつじ、私の名前よ」

 風の音に負けない様に、耳元でそっと囁かれた。聞こえないなんて言い訳は、出来なかった。


 つつじの部屋でスマホと再会した時、気が付いた事が二つあった。部屋に窓がない事と、電波が圏外になっていた事だ。でもそんな事どうでもよくなるくらい、つつじの笑顔が眩しく私を照らした。

「嬉しい、嬉しいなあ」

 酔っ払いのスキンシップは激しく、並んでベッドに座っていたかと思ったら、いつの間にか彼女は私に覆いかぶさっていた。小さい小さいと思っていたが、それは背丈だけだった。私を押し倒した力は強く、呼吸量は多くなっていた。ワンピースは既に役割を果たしておらず、腰を挟んでいる両の太ももからは、適度な柔らかさと確かな熱さを感じる。

「嫌なら、今のうちだよ」

 身体の割に大きなそれが、オレンジの照明に照らされて、眩しい。

「時間、足りるかな」

「もちろん。この船は定刻通りに到着するよ」

 見下ろされるのは、新鮮な感覚だった。それにこの期に及んでも冗談が言える自分が、いつもと違う気がした。

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