夜と暁を分かつもの

神弓(Kamiyumi)

神域結界の巫女姫

プロローグ Water'd heaven 

00

 人は、大きな時代の流れの中では、の葉のように無力なものだと思う。

 たとえば、戦争なんてのがそうだ。平時に生まれていれば天才ともてはやされただろう才能も、戦時なら、ただの一兵卒として命を落としたりする。それよりはずっと小さな景気という波でさえ、人の人生を容赦ようしゃなく翻弄ほんろうしたりもするのだ。

 年次就職率という指標があって、景気がよければ新卒採用が多くなって上がるし、悪化すれば下がる。極端に悪い年は氷河期なんて呼ばれるわけで、まあ、まさにおれが社会に出た年が大当たりのそれだった。

 一流大学でもなく、一芸もない、おまけに本好きというだけで文学部を選んだおれのような学部出身者の就活は、じつに惨憺さんたんたるものだった。あんまりひどすぎたんで、ちょっと記憶も飛んでるくらい。……ああ、自分という存在を全否定されたかの、つらく悲しき日々よ……。

 ――で、息も絶え絶えに滑り込んだ地元の小さな出版社は、これがまた見事に大当たりのブラックだった。サービス残業はあたりまえ、深夜残業はなんと終電がでたあとまでときた。そこで三年持ちこたえたおれは、マゾか仙人の域かとも思うが、ついにホントに身体をこわしてやめてしまった。

 急場しのぎにはじめたのが、リユース店のエンタメ部門のバイトである。本、音楽、ゲーム、フィギュア……おれの愛するものがいっぱい。……そんなで癒やされ、いごこちもよく、社員未満の身分に甘んじたままあっという間に幾年月か過ぎ去り。おれ、須佐 隆一すさ りゅういちはこの店で、すっかり使い勝手のいい便利屋と化した。長くいて、仕事もそつなくこなし、同僚に頼られてもいる。

「須佐さん! お疲れした!」

 同じ遅出シフトの大学生のバイト生が声をかけてくる。

「おう。またな」

 時間は深夜の十二時をまわったところ。いっしょに従業員出口から戸外にでた文系の彼は、この春から中堅企業への新卒採用が決まっている。あれから、政治や経済はおれの関係ないところで勝手に動き、なんでも今年の有効求人倍率は近年の最高水準にまで達しているという。未来ある若者よ、希望に向かって雄々しく歩いていくがいい。ふふっ、寒さが骨身にこたえるなあ……。


 ……とまあ、不甲斐ふがいない半生をかみしめた、非正規雇用、独身、オッサンなりかけのおれは、深夜の家路を辿った。

 親を起こさないように、そっと静かに玄関を閉め、入った自室の中には、パソコンにネットゲームのための最新の周辺機器、本だのコレクションだの趣味のものがあふれている。ヨメは二次元の中にしかいないけど、なまぬるく生きていけてはいる。

 ネットの向こうでは、おれの分身みたいなヤツらがつぶやいたり毒づいたりしている。うんうん、みんな満たされないよな、友よ。さあ、おれも参戦だ! ……みたいな調子で小一時間もすごし、さすがに疲れてきてごろんとベッドにころがった。

 ……こういうときはマズい。……おれ、この先、どうなるんだろう……とか、ふだんやり過ごしている、不安とか絶望感がわき上がってきて、気力がえそうになるからだ。

 そしたら、またむしょうにあの曲が聴きたくなってきた。あの、美しい曲。いつまでも心に残る。

 その楽曲を見つけたのは、偶然だった。以前、動画サイトでMADを漁り歩いているときに、なにかのリンクで飛ばされた、その先にあったのだ。

 表記は、【Seagreez】のみ。画像も、シンプルなスクリーンセイバーのような幾何学図形。

 大して期待もせず聴き始めたところ、びっくり、でてきたインストゥルメンタル曲は、とんでもなくよかったのだ。――まだあれはあるだろうか。取り下げられてはいないだろうか。……ぜったい手元におきたいと思っているのに、なんでどうやってもデータを落とせないんだ……? スマホをポチポチやってるいまの心境は、さながら隠したおやつを掘り起こしてるワンコのごとし。

 そして今日も、ちゃんとネットの片隅に、その曲が置かれているのを確認して、ほっとする。


 目を閉じて、イヤホン越しに聞こえてくる音楽に耳をすます。

 静かにシンセサイザーの序奏が流れ始める。

 すぐに主旋律がそれにかぶり、次第に大きくなっていく。

 曲名? アーティスト名? 検索してもなにもひっかからないし、いっそ自分でこの曲にぴったりの名前をつけてみるってのはどうだろう。文学チックに、漢字二文字とか三文字とかで。

 主旋律が幾重にも変奏されていく。イメージが喚起される。いろんな色彩が浮かぶ。青、蒼、紫、紫紺…

 ――紫紺の夜空の、その向こうの……涙で満たされた何とかってあったな。……えーと、水で満ち満ちた星々のヘヴン、だっけ? うーん、もとネタが思い出せん。でもぴったりじゃないか? ……水でいっぱいの天空の星々から、溢れてこぼれてくる雫とか。

 ひらめいた! ……《星雫ほししずく》だっ!

 暗い夜空。星々の螺旋の軌跡。その先にある、水に満ちた、遠い清浄な天空の楽園。おおおおいい感じ! うまいぞ、おれ! 

「今日からこの曲の名前は、《星雫》となった!」

 真夜中にひとり、悦に入ってつぶやくオッサンなりかけ。

 ささやかな満足感に浸りつつメロディーに聴き入っていると、重層的な音の中にが聞こえた。……声? 人工的な合成音の中に、女性のハイトーン・ヴォイスが混じっている。……ボカロ曲――ではなかったはずだが…… 言語としては判別不能の歌声はどんどんはっきりしてきて、生身の声帯が発するソプラノだとしか思えなくなった。

 ……あれ? 歌っているのは自分じゃないのか? ヤバっ、恥ずかしっ! 深夜にノリノリかよっ! ……いやいや、こんな高音域の声でねーし。……しっかし、気持ちいいな。声が出るってのは、こういう気分なのか。――朗々と歌い上げる、高く、澄んだ、あまやかで、はかなげな美声――

 頭がじんと痺れ、手足の感覚がなくなっている。自分がどこにいるのかもわからない。ただ、浮遊感だけがある。

 まずい、寝落ちしかけているのか、と思う。まだ風呂にも入ってないのに……歌っている感覚はまだ咽喉のどを満たしていて――

 ――!!?…?!?っ…!

 突然、喉の奥から水とおぼしき液体が迫り出してきて、おれはえずいた。苦しい。息ができない。その拍子にまた水が鼻と咽喉に入り込み、それを吐き出そうとしてできず、腹筋に激痛がはしった。

 水? 水の中? ええっ?

 その瞬間、大量の水に押し出されるように、体が前方に投げ出された。

 前のめりに床に倒れこみ、激しくむせた。体をよじりながら咳き込み、何とか息を整えようとする。ものすごい勢いで全身の感覚が戻ってくる。水、水に濡れた感触。というより全身、水浸しだ。鼻の奥がつーんと痛んで、涙がにじむ。咳が止まらない。

 何が起こったのかがわからず、まぶたを何度もしばたたかせながら、手をついて前方を見る。

 ――は? なんだ、ここ……

 そこは見慣れた自室ではなかった。それどころかおれが見たことのある、どんな場所の光景とも違った。

 お堂のような――と思ったのは、そこが窓のない、にしてはやけに広い四角い空間だったからだ。天井には、まるで水面の波紋のような光輪がいくつもあり、淡く白い光が室内に落ちている。磨き込まれた石敷の床。側面の壁には、竜とか鳥とかを抽象化したような図案の、年代を感じさせる古めかしい彩画。――中央付近には、凝った造りの木製の台座があった。その手前に、床に直置きされた木組みに供物台があり、紙札、水差し、大きな丸鏡など――いかにも祭事用といった品々が並んでいる。――対角線上に、透かし彫りの入った、巨大な木製の一枚板の開き戸。――あっちが出口、なら今いるここが、部屋の奥側ということだろう。

 混乱したまま視線を後ろに向けてぎょっとなった。

 背面の壁は、まるごと奇怪な岩盤だった。一見すると鉱物の原石のような――濁った乳白色で、凹凸のある表面に無数の剥離片がこびりついた岩塊が、雪崩れ落ちるように床を占拠し、その前にきれいな布がしめ縄みたいに張られている。――だがこれは、鉱物のような、だ。なにしろ、濁った結晶の内部に、大きな丸い影がいくつも見えているばかりか――かすかに動いているようでもあったのだ。――これ。パカッと割れて、なんか出てくるヤツでは……?

 ……拉致。監禁。生け贄。ホラーなクリーチャーの餌。……ろくでもない想像が脳裏をかすめる。いやいやいや、それより現実的な話として、いったいどうやってここへ来たと……

 よくよく見ると、おれの真後ろあたりにある岩の一部がぽっかりと割れている。開いた空洞からは水が滴り落ち――おれのいる場所まで、結構な量で広がっていた。

「………」

 濡れた自分に視線を落とす。ぱっと目に飛び込んできたのは、細い肩、小ぶりで形のいい、ふたつの乳房… 

 反射的に目をそむける。見てはいけないものを見てしまった。犯罪になるんだろうか、これ。そんな場合か。――おそるおそるもう一度、自分の身体があるはずの場所にある肉体をじっくりと見る。――どうやっても男のものではない胸のふくらみ、きれいな淡いピンク色の乳首、その先に引き締まった腰があって、ぺちゃんこの下腹部の下の淡い茂み。――床についている、とにかく細すぎる、長くて白い四肢。……

「……そ……バカ……な……」

 高くて愛らしい声がした。おれの喉から。華奢な肩から床にまで垂れているのは、現実には見たこともない、長くかがやくような銀髪だった。その髪からもぽたぽたと水滴が伝っている。

「……さむ……」

 急に震えがきた。ずしっと身体が重い。――まるで、ようやく神経が体の抹消までつながったみたいに。

 おれは床を這い始めた。ただ手足を動かすだけのことが、こんなにも困難で重労働だったとは。たった数メートルの距離を、ぜっぜっと息を切らせながら懸命に進み――ようやく供物台までたどり着いて、大きな丸鏡に映った己の姿を見た。

 扇のように広がる長い銀髪の――この世のものとも思えないほどの、美貌の少女がそこにいた。

 ほっそりとした肉付きで、思春期ぐらいの年齢に見える。顔かたちは人形みたいに整っていて、長いまつげに縁取られた大きな瞳は、印象的な紫。小さくすっとのびた鼻筋、受け口のきれいな唇。――誰だよ、これ…… ――ハハッと引き攣って笑ったら、鏡の中の少女の口もとも魅惑的にほころんだ。

 頭がぐるぐる回る。

 ――パカッと。……出てきたのはおれ? ……いや、この……? とにかく動いて逃げないと……逃げるって、何からだよ。そもそもここはどこだよ…… 

 寒気は耐えがたいほどで、目の前が暗くなってくる。その時になってようやく、前方の引き戸が開いていることに気付いた。逆光の中に二つのシルエット。一人は後方に走り去り、もう一人が一直線にこちらに走ってきた。

「……さま! ……ですか!?」

 耳の調子も悪いのか、言葉の意味がうまく伝わらない。女性。女性の声だ。おれの前で膝をつき、抱きかかえるみたいにして顔を覗き込んでくる。

「アズリーンさま。大丈夫ですか?」

 燃えるような、その髪の色……

 ヴァーミリオン……

 真っ先に頭に浮かんだのは、その単語だった。あざやかな朱色の髪をライオンのたてがみのようになびかせ、真摯におれを見つめる若々しいその顔――。

 強い意志を感じさせる、大きなはしばみ色の瞳。太めに整えた眉。凛々しくてきれいな顔かたちに、そこだけは強く女性を意識させる、官能的な唇。――顔の彫りの深さは西洋人のようでもあるが、肌色や肌質はアジア人のようでもあり、国籍を感じさせない。筋肉質な肉体。身につけているのも、およそ非現実的な暗紅色の鎧だった。――ああ、こんな女性を幾度も見た、と思う。現実ではなく、大好きだったゲームや映画の画面の向こう側で。男よりもかっこよく、身のこなし鋭く、タフでクールな女主人公として。

 おれは、ひと目で彼女に恋をした。

「アズリーンさま。……お召し物を……ます。すぐに……から。……アズリーンさま?」

 いかにも彼女にふさわしい、低いトーンの落ち着いた声。だが、彼女が語りかけてくる名前は、おれのものではなかった。おれは、必死で伝えようと試みた。

「ち……がう。おれ……名……」

 それとても、か細い少女の声。「名……は……さ……りゅう……」

 須佐 隆一、と伝えたと思ったその時、喉の奥から何かがせり上がってきて、おれは激しくむせた。頭がじんと痺れ、彼女の腕の中で、意識が急速に遠のいていく。

 真剣な表情でおれの口もとを見つめていた彼女がうなずいた。

「――サリュウさま。それが今生こんじょうのアズリーンさまのお名前なのですね。大丈夫、どうぞゆっくりとお休みください」

 ちがう、ということは出来なかった。


          *


 おれ、須佐 隆一は、この時から、サリュウ・アズリーンとなった。



 


 神域結界の巫女姫

 Innocence Caged in Sanctuary



 神代かみよ――人間があふれんばかりに地に満ち満ちた時代――己の力を過信した人間は、大いなる竜に戦いを挑んだ。”神竜大戦”――人と大いなる竜との戦いによって、天は裂け、地は割れ、地上の数多あまたの文明が瓦解した。戦いの炎は大地を灼きつくし、そして、静零せいれいのときが訪れた――


 滅びの淵に瀕し、人と竜とは魔導の取り決めを交わした。

 人間〈智の番人〉と、大いなる竜、神竜との契約により、人界じんかいと、不可識神域ふかしきしんいきは分かたれた。

 これよりのち、大いなる魔力の源たる不可識神域を出でて、人界に渡りし竜に、神竜は罰を課すこととした

 竜は、人界で、人のしもべとなる


   〈智の番人〉教会 神竜経典より   




 花冠六島かかんろくとうは、海に沈みし大陸の名残なり

 滅死大陸より、はての海を西に船で進むこと五十日、神竜の加護を受けしその海域に至る

 不可識神域の五界――山界、水界、空界、さらに上位二界になぞらえ、

 花冠六島に五体の守護聖獣を置くという

 山界の火華かか竜 水界の海棲かいせい竜 空界のこう

 さらに雷竜、赤竜によって守られし祝福の地

 そこには、人界に生まれつく竜がいるともいう

 太古の竜は、人界にあって、不可識神域を恋うて仲間を呼ぶ

 太古の竜は、人界で、美しい女性にょしょうの姿をとるという


         花冠六島縁起   

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