02

「リジー、リジー、ありがとう! ごめんねっ、あの、ちょっと走るのに失敗しちゃって……」

 リジーの顔を必死に見上げて、髪を乱したままの少女は照れたように笑った。

 愛らしい声。愛らしい姿かたち。長く輝くような銀色の髪に縁取られた顔立ちは、人形のようにきれいに整っているのだが、よく動く表情が少女をずっと人間くさく見せている。生き生きとした紫水晶のような瞳。……これが、当代の銀鈴の巫女姫アズリーン。

「サリュウさま。体調がよくなられたばかりでしょう。もう少しお気をつけて」

 リジーの言葉に、サリュウが明らかに落胆したような表情を浮かべた。

「……あの、あのさ。その、バカ丁寧な敬語みたいなの、やめない? ……ほら、もう結構、顔を合わせてるし」

「サリュウさま。私は警護官なんですよ? 本国からこの神殿に赴任してきているだけで、厳密にいえばここの人間ではありません」

「うん。衛士とは違うんだよね。だからよく下町にも行くし、……竜機も持ってる! コマ、すごいイカしてるよね!」

「……本来なら、巫女姫さまのお話し相手は、神職の中から選ぶのが習わしです。私が務める立場にはないのですが……」

「務めるじゃなくって! なってほしいのは、ともだちっ! 友達だから」

 少女は大あわてでリジーの発言を遮った。あきれたことに、巫女姫である少女がもっともこわがっているのは、リジーと会えなくなることなのである。

 神殿の上層部に頼まれているのだから、リジーにとってはこれも仕事である。どうにも不適格な役回りだが、一方的には打ち切ることはできない関係だ。だが、ここで友達を連呼する少女には、そもそも組織の上下関係であるとか身分関係に配慮するという発想自体が欠如しているのだろう。

 案の定、まじめな顔をして、ピント外れなことをいいはじめた。

「リジーは自立した女性だよね、すごくステキだと思う。私もね、明日、体調がよかったら、踊りの手習いを始めてみようかって言われてて。職業レベルに上達すんのか不安だけど、頑張るよ! ……あ、そうだ、リジーは今日、どこに行ってたの? ……えーっと、帰ったばかりだったっけ? あの、あの、……よかったら、また夕食後にでも話しにきてよっ!」

 首まで真っ赤にしての、懸命な誘い。……今日は疲れているし、ここで顔を見せて、もうそれでいいだろうと思っていた。

 ――だが、男であっても、女であっても、これを拒絶して、悲しい顔をされるのはあまりにもこたえるのではないだろうか?

「そうですね。じゃあ、あとでお部屋の方に伺いましょうか」

 約束を交わして離れると、リジーの背後からきゃあっと歓声が上がった。サリュウと、お付きの女の子ミアシュとの笑い合う声。年の近い少女たちは仲がよく、素直で、未来の何をも怖れていない。

 だがリジーは、無邪気な子供ではなかった。前任から警護官を引き継いで、竜機とともに真白島にやってきて3年目。

 未来の可能性を推し量れるぐらいにはおとなで、それを怖れるぐらいに現実主義者だ。


          *


「サリュウさま、足もと! 気をつけてくださいねっ!」

 階段を上がってくる途中でも蹴っつまずいたので、ミアシュに注意をうける頻度が増した。中身のおれは、ミアシュの倍どころじゃなく年上なんだが……、まあいいか。

 ここ、宿殿は、大きな洋館風の建築物で、庭園への外通路、社務所側からつづいている長い柱廊も、大きな階段ホールに続いている。そこから3階に上がって、もっとも奥まった場所にあるのが、アズリーンの居室――例の、おれが運び込まれて、看護されてた部屋である。

 扉を開けてくれたミアシュについて、中に入る。

 手前が居間。奥が、中庭に面したバルコニーのある寝室。内部は薄暗い。

 ミアシュが、入り口横の壁にはめ込まれた、手のひらサイズの球形の石に触れた。石のなかに透かし模様がいくつもあって、それ自体は、豪華な部屋の装飾のようにしか見えない。

 球を右回りに小刻みに動かしていく。と、壁や天井に何本もの光る帯が点いた。

 さらに吊り下げ型の、天井照明内部の発光体も灯る。

 電灯でも、ましてやろうそくや石油ランプでもない、灯り。魔術光である。

「んー、やっぱり蒸し暑いですね」

 明度を調整し終わったミアシュは、今度はつづき間の中央あたりにある飾り台に向かった。

 卓上には、花を象ったオブジェのような物体が載っている。丸い貴石と、それを囲むような金属に似た質感の造形物。小さな取っ手を動かすと、花が開くみたいに細工部分が動き、しばらくすると室内の空気が冷えてきた。

 もうここに住んで、それなりの日数が経っているので、おれはあたりまえのように言った。

「ひゃー、涼しいー。気持ちいいーっ」

 いまさら、エアコンの吹き出し口を探すようなマネはしない。

 魔術を発動させる道具を魔具といい、たとえばこの温度調節用の魔具なら、貴石の部分が魔導体で、細工部分が発動体になっているのだそうだ。魔力の流れ込む道をつくるのが魔導体で、そこに熱や光といった現象の術式を書き込む。発動体には制御術式が書き込まれ、最適な状態で魔術を発現させる――のだという。

 つまりこの〈神竜世界〉では、魔具を用いた調理器具だの、湯沸かし、冷温庫、生ゴミ排泄物飼料化槽等々によって、現代文明とさほど遜色ない日常生活を送ることが可能なのである。それどころか、むしろこっちのが凌駕りょうがしている部分もチラホラ。軟弱な文明人として、心の底から叫んでもいいだろうか。よかった、目が覚めた場所が、酷暑極寒に無防備に耐え忍ぶしかない、劣悪環境のサバイバルワールドでなくって。魔術師万歳、魔術文明の利器、ブラヴォーっっ!!

「それじゃあ、サリュウさま。夕餉までもう少し時間がありますから、ゆっくり休んでてくださいね。ムリしちゃダメですよっ」

 心配性ミアシュが出て行ったあと、

「……さて、と」

 おれはさほど気乗りしない作業にかかるべく、ふかふかのソファーを離れ、寝室側に移動した。広い部屋の一角に、濃茶の無垢材を使った本格的な書きもの机が用意されている。抽斗ひきだしを開け、まっ白な紙の束と、黒筆こくひつ――とここでは呼ばれている、おれの世界でいうところの鉛筆っぽいものを取り出した。

 机の上には、装丁も立派な厚めの書籍が数冊、立て掛けられている。そちらには目もくれないで、やっぱり下から引っ張り出した、薄い教本を開く。

「ふふ……ふふふふ……」

 そして黙々と書き取りを始めた。書き取り! 小学生かっっっ! 衝撃の事実! アズリーンの翻訳脳は、発話限定だった!!

 現代人おれのなじみ深いネット界隈では、情弱はバカにされる風潮にある。ここが異世界なら尚のこと、ものを知らないままでいるのは危険だ。――とはいえここには、スマホもパソコンもテレビさえもない。じゃあどうするかというと、そりゃあ本しかないのである。ひとつのコミュニティのあり方は、それがよっぽど原始的なものじゃない限り、すべて書籍に文字情報として記録されている。歴史、文化、科学技術、人の考え方から価値観まで、本さえ読めばわかるのだ。

 ということで、おれは神秘の巫女姫っぽくナルーシャに頼んだものだ。

「……書物……ですか?」

「はい。この世界のことをもっと知りたいんです。歴史書とか……手広く読まれている文学書とか……」

 そうして運ばれてきたのが、いま机の上に載っている立派な書籍の数々なのだが、開いた瞬間、のたくっている謎の文字列に絶句する羽目になってしまった。

 真っ赤になって冷や汗をながしているおれに、年齢不詳、知的な雰囲気を漂わせた長いヴェールに神官服の女性は、顔色ひとつ変えず、

「今日から、読み書きの練習を始めましょう」といった……。


「ふ……ふふふふふ」

 衝撃的もいいところである。情弱からの脱却どころか、自分の現在地が身体面以外でもミアシュ以下だとわかった。神殿から叩き出される日が来ないとも限らないから、備えあれば憂いなし、色んなことを知っときたいと思ったのに、意外と深い落とし穴……! 字が読めないとなると、食堂の注文取りにさえ雇ってもらえまい。ここを追い出されたら、一夜の宿の為に身体を要求されるなんていう最悪の家出少女パターンに転落してしまう……!!

「ふふ……ふふふふ……」 

 ……このような危機感に駆られて、三十分ぐらいは集中できていたのだが、やがて思考が空転し始め、おれは黒筆をぽいっと卓上に放り投げて、ベッドにいって大の字に転がった。

「は――っ、らく――っっ、晩ご飯なにかなあぁぁ」

 神殿の料理長の作るご飯は、やたらクオリティが高い。女性向きの、手の込んだスイーツなんかも毎回ついてて、これがまた絶品である。

「まあ、ぼちぼちやってけばいいよね、ぼちぼち……」

 ……人間とは、なぜこんなにも、楽な方、楽な方へと流されてしまう生き物なのか。

 このあと顔を出してくれるはずのリジーのことを思った。リジーは見た目どおり生真面目な女で、ミアシュみたいによくしゃべるタイプではないが、なにしろ毎日会えるんだから、お茶を飲みつつどーでもいい話で盛り上がる日もそう遠くはないだろう。仲良くなりたい一心で、彼女の前では、女の子らしい口調とか態度にとりわけ気をつけている。

「うふふ……うふふふふふ」

 ……たぶんそのせいで、ひとりっきりの部屋でまで完璧な女の子笑いをしてしまった。


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