右眼の残響探偵・夜代真陽

古木しき

プロローグ『右眼の残響』 ― 夜代真陽という影

 その夜、私はまだ“刑事”になる前だった。


 大学の講義が長引き、帰りは十時近くになっていた。

 雨がぱらつきはじめた空気は冷えていて、私はいつもの近道――表通りから一本外れた裏路地を急ぎ足で抜けようとした。


 その角を曲がった瞬間、私は息を飲んだ。


 路地の中央に、ひとつの影が立っていた。


 黒いコート。

 黒い眼帯。

 杖を片手に、街灯の真下でじっと動かずにいる。


 濡れたアスファルトの上で、影だけが異様に長く伸びていた。

 まるで夜そのものが、そこに実体を持って立っているみたいだった。


 足が止まった。心臓が強く跳ねた。


(……だれ?)


 こんな時間、こんな場所に人なんていないはずだ。

 それに――


 黒い眼帯。


 その一点だけで、背筋に冷たいものが走った。

 映画の悪役か、怪談の登場人物か、そんな印象だった。


「……すみません」


 逃げ道を探しながら、小さな声で言った。

 自分の声がこんなに掠れていることに、驚いた。


 その人影は、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。


 左の瞳だけが光を受け止め、右は白い眼帯で隠されている。

 雨粒が落ちる音の中で、その瞳の静けさだけが場違いなくらい澄んでいた。


「……ん? こんな時間に、ひとり?」


 低く、乾いた声。

 どこか他人事のようで、それでも奇妙に優しい響きがあった。


 私は思わず一歩、後ずさった。


「あ……あの、近道で……」


 男は、すこしだけ苦笑した。


「いや、君のことじゃないさ」


 そこで、ことで区切るように言葉を落とす。


「夜の路地には、ときどき“変なもの”が見える」


 変なもの――。


 他愛ない言い回しなのに、背中がひやりと冷えた。

 男は眼帯に軽く触れ、その指先がほんのわずか震えたように見えた。


「右眼にね……少し、厄介なものがあるんだ」


「……厄介なもの?」


「死んだ人間の……最後の視界さ。|見たくもない景色ばかりでね」


 笑っているようで、笑えていない声だった。


 冗談にも聞こえるし、冗談では言えないようにも聞こえる。

 その曖昧さが怖かった。


 遠くでサイレンが鳴った。


 男はそちらへ顔を向ける。


「……そろそろ行かなきゃいけないみたいだ」


 杖をつき、一歩踏み出す。

 その足がわずかによろけた。


「あっ……だ、大丈夫ですか?」


 反射的に手が伸びた。

 男は振り返らず、片手をひらひらと上げた。


「大丈夫。……慣れている」


 その声があまりにも自然で、私は言葉を失った。


 男はゆっくりと歩き出した。

 杖の音だけが、雨音に混じってしずかに響いた。


 そして、十歩ほど進んでから――なぜか、ふいに振り返った。


「……俺は夜代真陽よしろまよう


 名乗り方は淡々としていたが、その名だけは耳に鋭く残った。


「元刑事で、いまは警察庁の嘱託捜査官。ついでに弁護士もやってる。まあ、“探偵小説に出てくる探偵のようなモン”とでも思ってくれればいい。いや、こんなことをわざわざ君のような子に言っても仕方がないかもしれないな」


 自嘲のような、皮肉のような響き。


 私は、ただぽかんと立ち尽くすしかなかった。


「……あ、あの――」


 声が出たころには、夜代はもう背を向けていた。


 濡れた路地に、杖の音が遠ざかっていく。


 名乗りそびれたことに気づいて、ひとりで苦笑した。


 でも、胸の奥では別の感情がふくらんでいた。


(……この人には、また会う気がする)


 理由なんてない。

 ただの予感だった。


 ――けれど、その予感は後に、本当になる。


 私はあの夜、“死者の視界を見る男”と確かに出会っていたのだ。


 その名は、夜代真陽よしろまよう

 雨の夜の匂いとともに、私の記憶に深く沈んだ。

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