第33話 エピローグ
二度目のプロポーズからしばらくして、エリシアは再びアルベルト公爵家で過ごすことになった。
「お帰りなさいませ、奥様」
ブルーノとベルタをはじめとするアルベルト公爵家の面々が、笑みを浮かべてエリシアの帰宅を迎えてくれた。
変わらない光景に、思わずほっとしてしまう。
不思議と帰ってきたという気持ちの方が強い。
いつからかここは、エリシアのもう一つの居場所になっていたようだ。
けれど、一つだけ訂正しておかなければならない。
「いえ…………まだ奥様では…………」
そういえば、この屋敷に来た時も同じやりとりをしたような気がする――そんなことを思っていると、ベルタがくすりと笑った。
「失礼いたしました。エリシア様」
絶対わざとだ。
ハルトヴィヒに対する『坊ちゃま』と同じアレである。
エリシアがリヴェール家に戻っている間も、部屋はそのままになっていた。
もちろん手入れは毎日してくれていたらしい。
物の配置も変わっておらず、エリシアの輿入れ後はアルベルト公爵家に仕えることになるチェルシーも、すぐに調子を取り戻していた。
*
それからまた数日が経ったある日のお昼時。
エリシアはハルトヴィヒの案内を受けながら、まだ踏み入れたことのない場所へと向かっていた。
(てっきり、あの庭園かと思ったのだけど)
エリシアは自室から見える、白いガゼボがある庭園を思い浮かべていたのだが――足は真逆の方向に進んでいる。
実は朝食の席で、ハルトヴィヒからランチの誘いがあったのだ。
「リーシャ。今日は一緒に庭園で昼食を取らないか?」
もちろん、二つ返事で頷いた。
一緒に昼食を取る。たったそれだけのことなのに、午前中はずっと気持ちがふわふわしていた。
ふと気づけば、部屋の置き時計を何度も確認してしまい、チェルシーに笑われてしまったほどだ。
「ここだよ」
「ここは――――」
案内されたのは、青の絨毯が一面に敷き詰められたかのような、美しい庭園だった。
風にそよぐ花々が波のように広がり、その中心に、白いテーブルと椅子が佇んでいた。
まるでハルトヴィヒの瞳のような、青の世界が広がっていた。
「僕のプライベート・ガーデンだ」
「ハルト様の……」
「リーシャが来たばかりの頃、連れて行きたい場所があると言っただろう? それがここだ。さ、座って」
そういうと、ハルトヴィヒ自ら椅子を引いてくれた。
それからハルトヴィヒが目の前に腰をかける。
ほどなくして、使用人たちが食事を運んできた。
テーブルの上には、小ぶりなサンドイッチが几帳面に並べられる。パンは軽く焼かれ、香ばしさと柔らかさのバランスが絶妙だ。一口で頬張れるよう工夫されていて、フォークやナイフを気にせずに会話を楽しめるよう配慮されている。
そして、ティーカップにお茶が注がれる。
立ちのぼる香りは、柑橘と花のやさしい甘さを含んでいた。
「リーシャはこの花知ってる?」
「ネモフィラですか」
「ああ、そうだ。ネモフィラは母が好きだったんだ」
そういえば昨年この屋敷に来たばかりの頃、エリシアの部屋から見える庭園にもネモフィラが花を咲かせていたことを思い出す。
「両親が亡くなって、全て刈り取られてしまったのだけどね。こうしてまた見ることができて嬉しいよ」
刈り取られた。
誰にとは言わなくてもわかった。
ただ、幼くして両親を亡くした上に、母親が好きだった花を全て刈り取られたというのは、幼い彼の心がどれほどの傷を負ったのだろう。想像するだけで胸が痛む。
ハルトヴィヒは今は容姿的にも実力的にも社交界で名を馳せている有名人だが、社交界デビューは遅かった。
それまで没落寸前の公爵家を立て直すために奔走していたのは知っているが、その全てを聞いたわけではない。
きっとエリシアなどが想像もできないほどの苦労をしてきたはずだ。
「それが今はこれだけ多くの花を咲かせているのですね……。なんだか、ハルト様の瞳のようですね」
「ああ。母は碧眼ではなかったんだが……その、父が碧眼だったから」
なるほど。
ハルトヴィヒの両親が政略結婚なのか恋愛結婚なのかはわからないが、きっとハルトヴィヒの母親は少なからずハルトヴィヒの父親を想っていたに違いない。故人ゆえに会うことは叶わないが、可愛らしい人だったのだろうと思う。
それが刈り取られたままとあっては、両親が浮かばれないだろう。
けれど――ここまで見事に咲かせているとは。
「――庭師に感謝しませんと」
「そうだな。彼は両親が跡を継ぐ前から仕えてくれていたからね。僕が当主になって、彼を迎えに行って、この母の庭をまず手入れしてもらうよう頼んだんだ」
エリシアは目を見開いた。
「庭師もそうだったのですか」
「庭師も?」
エリシアの反応に、ハルトヴィヒも目をぱちくりとさせる。
ハルトヴィヒには彼の過去の話を聞いたとは言ったが、ブルーノとベルタの話まではしていなかった。
「いえ。その、以前ブルーノとベルタが言っていたんです。一度解雇されたけど、ハルト様が当主になられてから迎えに来てくださったと。だから庭師もなのかと……驚きました」
「ああ、そうなんだ。今働いてくれている使用人のほとんどが、先代から暇を出されたものばかりだ。だから僕が再雇用したんだけど……いまだに坊ちゃま扱いしてくるから困ったものだよ」
肩をすくめて、どこか照れたような、けれど本気で困っている様子を見せながら小さくため息をつく。
その口調は軽やかでも、根底には使用人たちへの深い信頼と絆が滲んでいた。
やれやれと首を振るその仕草も、どこか楽しげに見える。
「みなさんにとってはいつまで経っても、可愛い坊ちゃまなのですよ」
「それは困るなあ。だって僕とエリシアの子どもが産まれて、その子が男の子だったら?」
「子どもっ!?」
唐突に投げかけられた言葉に、反射的に声が上ずった。
手の中のティーカップがぐらりと揺れ、慌てて持ち直す。
頬に熱が広がり、ハルトヴィヒの顔を直視できなかったが――。
「『坊ちゃま』と呼ばれたら、僕も一緒に振り向いてしまうかもしれない」
「…………それは……面白いです」
ベルタに呼ばれて、小さな金髪の男の子とハルトヴィヒが同時に振り返るところを想像してしまう。
きっとハルトヴィヒは顔を赤く染めて――けれど、きっと幸せそうに笑い合っている。
「けど、もしかしたら子どもは女の子かもしれないな。いや、案外子沢山かもしれないが――」
――子沢山!?
一体何人想像すればよいのか。男の子と女の子とそれから――。
「そこには当然リーシャもいるからね」
「……はい」
未来の家族の中にエリシアをいれていないことを、見透かされてしまった。
金の髪の中に交じる、銀の髪の自分。小さな手を握りしめる自分。小さな子から向けられる微笑み。
それはこの上ないほど幸せだろう。
だって想像だけで、こんなにも胸が温かくなるのだから。
「まずは、結婚式かな」
「そう、ですね……」
先日、兄とサラの結婚式があった。その時の二人の姿を思い浮かべる。
結婚式は盛大に執り行われ、ようやくサラの晴れ姿が披露されると、兄は目を細めており、サラもまた愛しい人を見る眼差しで兄を見ていた。その二人を見ているだけで、こちらも幸せをわけてもらったような、胸の奥から温かいものが込み上げてくるような気持ちになったことを覚えている。
そして今度は自分の番なのかと頬を赤らめる。
「リーシャのウェディングドレス姿はきっと可憐で、愛らしいんだろうなあ。ああ、また複雑な気持ちになるな。僕の大切な人の美しい姿を見せたい気持ちと、誰にも見せずに僕だけが見つめていたい気持ちで僕の心はせめぎあってる」
「……何を仰っているのですか」
また意味のわからないことを言っていて、途端にエリシアの瞳は冷たくなる。
けれど、悪い気はしないから不思議だ。
「そうとなれば、またマダム・カミラに頼まないと!」
「そうですね」
花嫁本人よりも意気込んでいるハルトヴィヒを、エリシアは見つめた。
穏やかな昼下がり。
ネモフィラの青が揺れる庭に、柔らかな陽の光が差し込む。
どれだけ季節が巡ろうと、これからの日々にはずっとハルトヴィヒが隣りにいる。笑い合える時間があって、すれ違ってもまた寄り添える場所がある。
手と手を重ね、名前を呼び合いながら、共に歳を重ねていく――そんな未来に、エリシアは自然と微笑みを浮かべていた。
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