第25話 消えたエリシア2

 ――身体が痛い。


 目を覚ましたエリシアは、まずそう思った。

 視界に入ったのは、古びてはいるものの手入れの行き届いた床だった。

 エリシアは床に横たわり、後ろ手に腕を縛られていた。


 ここはどこだろう。


 身体をひねり辺りを見回すと、どうやら小さな部屋にいるようだった。

 けれど、室内には一脚の椅子がぽつんと置かれているだけで、寝台も、机も、棚もない。人の気配も、生活の匂いもない。あるのは、壁に開いた小さな窓と、そこから差し込む月明かりだけ。静かな月光が斜めに差し込み、エリシアの影を細く長く伸ばしていた。


 エリシアはぼんやりとする頭で状況を整理する。

 最後に見たのは、燃えるような髪とは正反対の冷たい男――マルコだった。

 刺激臭のする布を押し当てられ、視界がぼやけて意識を失った記憶が蘇る。

 足は自由になっているが、両腕はきつく縛られている。とてもじゃないが一人では起き上がるどころか、座ることもできない。仮に歩けたところで、窓にも扉にもきっと鍵がかかっているだろう。逃げ出す道はない。


 自分はこれからどうなってしまうのだろう。

 マルコの玩具として弄ばれるのか、奴隷として売られるのか、それともいつかの子ウサギのように――――。

 

 エリシアはぎゅっと身体を縮こませる。






 そのとき、扉の向こうからガチャガチャと金属が触れ合う冷たい音が響いた。

 思わず全身がこわばり、生唾を呑み込む。

 扉が開くと、赤い炎のようなものが揺らめいて見えた。


「目が覚めたか、エリシア」

「……マルコ様」


 やはり外から鍵をかけていたらしい。

 マルコは入ってくると、エリシアの前でしゃがみこみ、頬を一撫でした。その瞬間、エリシアの背筋にぞくりと冷たいものが走った。


「ここは……」

「俺の父上が仕事で使っている屋敷の一つだ。もっとも、偽名を使っているから足もつかない。つまり、お前を取り返しに来る者など誰もいないということだ」


 マルコは誇らしげに言ったが、なにか棘が刺さったような妙な違和感を抱いた。

 それが何なのかはわからないが、まずはマルコが何をしようとしているのかを知りたかった。


「……どうしてこんなことを?」


 思い切って訊ねると、マルコは心底驚いたように目を丸くした。


「わからないのか?」


 わからない。わからないから訊いている。

 頷いた瞬間、破裂音と共に頬にひりつくような痛みが走った。


「お前が悪いんだ。さあ、何が悪かったか考えるんだ」


 マルコは、這いつくばるエリシアの前に椅子を置いた。見下ろすように腰を掛け、足を組む。


 熱を帯びた痛みが頬をじんじんと伝う。エリシアはそれを押し殺すように、必死で思考にしがみついた。

 あの日から――目の前でうさぎを縊り殺されたあの日から、エリシアは笑みを見せないよう努めていた。

 一度だけ、エリシアの誕生日パーティーに来ていたあの子につられて、ほんの一瞬だけ笑みを浮かべてしまった。気が緩んでしまったのだと思う。それがマルコの逆鱗に触れた。


 それからはとにかく表情を出さないよう徹底した。

 ゆえに『鉄仮面令嬢』などと不名誉なあだ名まで付けられたが、それでもマルコを怒らせるより、幾分もマシだった。

 ならば、今、マルコを怒らせている原因はなんだろう。それを探り当てなければ、さらなる逆鱗に触れることは間違いない。

 だが、いくら考えを巡らせても――全くわからない。


 エリシアは恐る恐る見上げる。すると、マルコの目がわずかに細められた。

 獲物を観察するような冷たい眼差しに、本能的に身体をすくめた。


「……お前が悪いんだろう? アルベルト公爵なんかの言葉を真に受けて。俺から離れて公爵家で暮らすなんて真似をしたお前が悪いんだ。お前が黙って公爵の婚約者になった時点で、俺に対する裏切りなんだよ。許されるわけがないだろう?」


 マルコは椅子に腰を下ろしたまま、ゆっくりと脚を動かした。磨かれた靴のつま先でエリシアの輪郭をなぞり、顎をぐいと持ち上げる。

 無理やり顔を上げさせられた瞬間、目が合った。

 ぞっとするほど狂気を秘めた瞳がそこにあった。

 

「エリシア。お前は愚図で無知で無能だ。だからこんな簡単なこともわからない。俺が教えてやらなければ、お前はまともに生きてすらいけない」


 マルコは諭すように、穏やかで優しげな微笑みを浮かべた。

 けれど、愚図で無知で無能なエリシアには、やはりわからない。


「……どうして私の婚約が、マルコ様に対する裏切りになるのですか?」


 むしろマルコにしてみれば、エリシアというお荷物から離れられるのだから清々する話だろう。

 だが、その思惑とは裏腹に、マルコは微かな含みを秘めた笑みを浮かべた。


「お前には俺がいないと駄目だろう? お前は世間というものをまるで知らない。だからこうして教えてやってるんだ」

「……マルコ様がいなくても、私は――――っ!」


 その言葉を遮るように、マルコの手が素早くエリシアの髪を掴んだ。

 鋭い痛みが走り、エリシアは思わず声を漏らす。


「お前が俺に口答えするのか? 俺が送った手紙を無視し、俺の誘いを全て断ったお前が? お前のことを誰よりも理解している俺がいながら、アルベルト公爵と婚約したお前が偉そうに。お前はどこまで俺を愚弄すれば気が済むんだ」


 異様に見開かれた瞳に、額には青筋が浮かんでいる。

 息を潜めた獰猛さが、その顔の隅々に刻まれている。

 だが、エリシアにはその意味がまったく理解できなかった。


「手紙……? 誘い……? 一体何のことです?」


 エリシアには心当たりがなかった。

 マルコから手紙が届いたことなど、一度だってないのだから。


「――――っ!」


 ぱんっと、激昂したマルコの手が頬を打った。


「とぼけるな!! お前ごときが俺を馬鹿にしやがって!」


 決して馬鹿にしたつもりはない。けれど、エリシアにはまるで分からない。マルコは一体何を言っているのだろう。


「全部、全部、全部、お前が! お前のせいなんだ!」


 髪を掴まれたまま、何度も何度も叩かれる。

 口の端が切れ、血が滲む。鉄の味が口の中に広がる。


「――――っ!」


 強烈な一撃が走り、その衝撃で勢いよく床に叩きつけられた。

 ようやく痛みから解放された――と思った。だが、それは束の間の安息に過ぎなかった。


「お前が大人しくリヴェール家にいないからだ! いればこんなことにはならなかった!」


 今度は足で、まるで塵を踏み潰すかのように嬲る。

 マルコはハルトヴィヒのように剣術に秀でているわけではないにしろ、大の男に踏みつけられれば圧力で臓器が潰れてしまいそうだ。抵抗など出来るはずもなく、ただ一方的な暴力を受け入れるほかない。


「お前の父親が、兄貴が、俺の言うことを聞いていれば、よかったんだ!」


 マルコは、執拗にエリシアをいたぶり続ける。


(お父様とお兄様?)


 痛みに耐えながらも、必死にマルコの言葉に耳を傾けた。


「そうすれば、お前がアルベルト公爵の元へ行くこともなかった。俺がここまで手をかける必要なんてなかったんだ!」

「なん……の、こと……」


 痛みで声が震え、言葉は途切れ途切れだった。

 身体中が熱く焼け付くようで、思考は霞みがかっている。

 それでも、訊かなければいけない気がして、残った力を振り絞った。


「知らないのか? 本当にお前は何も知らないんだな」


 そうだ。エリシアは何も知らない。

 頭は混乱し、体の芯が冷たくざわつく。まるでこれから降りかかる嵐を予感するかのように、呼吸が浅くなる。それでも、エリシアが知るには、目の前の男の言葉を待つしかなかった。

 

「お前の兄貴はいつも俺の邪魔をする。昔からお前に微笑みかけられて、図に乗っていたよな。お前がパーティーに来る時はいつもぴたりと張り付いて離れない。目障りだったよ。それなのに、カルデコットの女と結婚? 俺の邪魔をしておきながら、自分だけが幸せになるなんて、許されるわけないだろう? だから、教えてやったんだよ。カルデコット侯爵に。リヴェール家には、”鉄仮面令嬢”と名高い、無表情で、愚図で、無知で、無能な令嬢がいるとな。それを正すこともしないリヴェールの無能さを。だが、カルデコットの女も物好きだな。それでも結婚した。だが、結婚式は挙げられていないだろう? それは全部お前のせいなんだよ、エリシア」


 指先から、すうっと熱が引いていく。

 息が詰まり、目の前の景色がほんの少しだけ遠のきそうになるのを、必死で食い止める。


「カルデコット侯爵は、リヴェール家の令嬢の悪名を払拭しない限り、挙式は認めないと言った。そんなことできるわけないのになあ! だが、愛を貫き通した二人のために、俺は試練を与えることにした。リヴェール領に野盗をうろつかせ、王宮に上告書も出しておいた。文官としては優れていたようだが、領民の不安を仰いだあいつに、文官としても次期当主としても居場所はないんじゃないか?」


 エリシアのせいで兄は――結婚式を挙げられていなかったのか。

 エリシアのせいで兄は――仕事にまで影響を与えていたというのか。

 それなのに兄も義姉も、エリシアには何も言わなかったのか――。


 頭も、視界も、真っ白だった。

 声を出そうとしても、喉が震えるだけで音にならない。

 沈黙が空気を凍らせる中で、マルコの声だけが静かに響く。


「アルベルト公爵領にも、俺とはわからないよう手を出したな。まあ、アルベルト邸の守りが固くてお前を取り返すことはできなかったが。公爵の魔の手からお前を引き離せただけでも収穫だ」


 そういえば――ハルトヴィヒは一時期多忙で、屋敷に帰れないことがあった。あれは、ちょうど公爵夫人の仕事を教えて欲しいと頼み込んだあたりだった。

 エリシアのせいでハルトヴィヒは――長い間対応に追われたというのか。

 エリシアのせいでアルベルトの領民は――危険に晒されたというのか。

 それなのにハルトヴィヒは、エリシアには何も言わなかったのか――。


 胸の奥が凍りつくようだった。多くの人が傷ついていたのに、それを知らなかった罪はエリシアの心を深く蝕んだ。

 それでも、マルコは語るのをやめない。


「俺に相談もなく、結婚前に男の屋敷に住まわせるなんて選択をしたリヴェール伯爵の焦る顔が見たくてな。これを伯爵の執務室から拝借した」


 マルコは懐から二枚の紙を取り出すと、エリシアに見えるよう広げた。

 そこにはエリシアも見覚えのある「婚約合意書」と、見覚えのない「附帯条項書」があった。


 附帯条項書には、こう記されていた。


 ――婚約期間内にエリシア・リヴェールがハルトヴィヒ・アルベルトに好意を抱かなかった場合、本契約は無効となり、以後一切の関係を断つものとする。


「つまり、お前の気持ち次第でこの婚約は破棄できるんだ! お前のことを本当に愛していれば、そんなこと言わないだろう!」


 マルコは高笑いをあげた。その声には、底知れぬ狂気が潜んでいた。まるでこれからエリシアに訪れる破滅を、心底楽しんでいるかのようだった。

 たかだかこんな紙切れのために――リヴェール家に住む皆が危険に晒されたというのか。

 エリシアの身体中に、皮膚の奥から凍てつくような感覚が波のように広がった。全身が粟立ち、細かな針で刺されるような痺れに襲われる。

 震えが止まらない。自分を責める声が頭の中で響き渡り、胸の奥で苦しみが波のように押し寄せる。どうして気づけなかったのか、どうして守れなかったのか——逃れられない自責の念が、エリシアを支配する。



「全部お前のためにしたことなんだ。わかるだろう? エリシア」

 

 マルコの言葉に、違和感が胸を掠めた。

 これまでのことは全て、エリシアのためというのか。

 子ウサギが縊り殺されたことも。

 兄と義姉が挙式できないことも。

 兄の仕事の邪魔をしていることも。

 リヴェールの領民とアルベルトの領民が危険にさらされたことも。

 すべて、エリシアのためというのか。


 そうだと言うのなら――――。


「わかり……ま、せん……。少しも……」


 マルコは目を血走らせた。

 一瞬で怒りに染まったその瞳は、うさぎを狩り取る猛禽類のように、鋭く光っていた。

 息遣いが荒くなり、全身から怒りがほとばしっているのがわかる。

 マルコは勢いよく椅子を掴むと、ぎしりと軋む音を立てて大きく振り上げた。

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