第23話 密談

 エリシアは一人、落ち着かない面持ちで大広間を見回していた。


(顔を合わせるのは気まずい。けれど――)


 馬車は一台しかない。

 一言だけ伝えておかなければ、ハルトヴィヒの帰宅手段がなくなってしまう。そう考えた末、ハルトヴィヒを探しているのだが――。


(いらっしゃらない……)


 あれからそう時間は経っていないはずだが、ハルトヴィヒの姿がどこにも見当たらない。

 話し合いのために借りた部屋にもおらず、会場にいるのかもしれないと大広間を探しているが――どこにもいない。


 じっとりとした不快感が胸に広がる。

 うっすらハーブの香りが胸元から漂い、濡れた感触が冷たくて気持ち悪い。

 エリシアはそっと吐息をついた。

 胸元を押さえる手が、ほんのわずかに震えていたのは、冷たさのせいか、それとも別の感情のせいか――自分でもよく分からない。




 ふと視界の端に、落ち着いた雰囲気の紳士の姿が映った。手入れの行き届いた髪にはわずかに銀が差し、深紅の袖口から覗く手は節くれ立っている。王太子に仕える側近の一人で、さっき空き部屋を用意してくれた人物だ。

 エリシアは姿勢を正して近づくと、失礼のないよう声をかけた。


「申し訳ありません。ハルトヴィヒ様をお見かけになりませんでしたか?」


 側近は一瞬考え込むような素振りを見せた後、丁寧に答えた。


「先ほど、王太子殿下と共に庭園の方へ向かわれたかと存じます」

「ありがとうございます」


 エリシアは小さく頭を下げると、庭園へと向かった。











 扉を抜けて外に出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。

 庭園には、幾何学的に刈り込まれた生垣と円形の花壇が並んでいる。

 鉄製のランタンが柔らかな橙色の灯を灯し、その光は彫刻が施された噴水の水面に揺らめいていた。夜風に乗って花の香りが柔らかく漂い、闇に沈む噴水の水音だけが静けさを破る。


 緩やかな石畳の道を進みながら、周囲を注意深く見渡す。

 何気なく視線を向けた先、大きな生け垣越しに金色の髪がちらりと見えた。ハルトヴィヒだ。声をかけようとしたが、彼は誰かと話し込んでいた。側近の言葉どおり、王太子と一緒のようだ。王太子との歓談を邪魔してはいけないと思い、その場で静かに立ち止まった。

 会話が一段落したころを見計らい、声をかけようと様子を伺っていたところ、二人の声がかすかに聞こえてきた。



「あのことは、話したのか?」

「いや、本当のことはまだ言えないだろう」

「だとしても、家のことは知らせておくべきだったろう」

「……そう、だな」


 話の流れからして、リヴェール家が襲撃を受けたことだろうか。

 あれほど言い合ってもなお、歯切れの悪いハルトヴィヒの返答に、胸がチクリと痛む。

 そんなハルトヴィヒを見て、王太子は呆れたような吐息交じりの笑い声を漏らした。


「それにしてもお前がするとはな。お前はいつも突拍子もない行動を取る」


 ――本当に婚約?


 その王太子の言葉が、妙に引っかかる。

 どこか意味が深いような気がして、その先を知ってはいけない気がして、心の内で警鈴が鳴り響く。

 それなのに、その場から立ち去ることもできない。聞きたくないのに、確かめたいと思う気持ちがある。

 エリシアは影に身を潜め、息を殺してじっと耳を澄ます。


「……ああ、本当だな。あの場でプロポーズなんかしなきゃよかった。そうすれば――」


 ハルトヴィヒの自嘲を含んだ言葉は、冷たい刃物でエリシアの心を深く抉った。


 聞きたくない言葉だった。

 この人からは聞きたくなかった。

 つい、動揺して、扇子を落としてしまう。


「誰だ!」


 王太子の怒号に、エリシアはぬらりと姿を見せた。

 恐る恐る二人に視線を向けると、王太子はエリシアをじっと見つめ、ハルトヴィヒは驚いたように目を見開いている。


「エリシア?」


 ハルトヴィヒがこちらへ歩み寄ってくる。

 エリシアは、震える手を抑え込むようにして、そっと頭を下げた。


「申し訳ございません」

「いや、その、僕の方こそ――って、そのドレスどうしたんだ?」

「わ、私の不注意で汚れてしまいました。せっかくいただいたのに、申し訳ありません」


 俯いたまま、静かに息を吐く。

 ハルトヴィヒの顔をまともに見られない。

 ドレスを傷つけたことよりも、ハルトヴィヒの言葉を聞いたときのあの痛みのほうが、ずっと心に残っていた。


「それは構わないが、震えているじゃないか。顔色も悪いし、寒いんじゃないか?」


 ――どうして、この人は。

 さっき自分でプロポーズを後悔していたくせに、どうしてそんな優しい言葉をかけられるのだろう。

 エリシアは、知ってしまったというのに。


「……それは、問題ありません。ただ、このような姿では場にふさわしくありませんので、先に失礼しようと思いハルト様を探しておりました。立ち聞きするような真似をしてしまい、重ね重ね申し訳ありません。それでは、失礼いたします」

「エリシア? ちょっと……」


 ハルトヴィヒの困惑した声が、背後から彼女を引き止めようとする。

 けれど、エリシアは振り返らず、ただ歩みを速めた。

 背中を向けたまま、こぼれ落ちそうな感情を唇を噤んで、そっと呑み込んだ。








 初めからおかしいと思っていた。

 完全無欠の公爵閣下が、鉄仮面令嬢のエリシアなんかに求婚なんてありえないと、分かっていたのに。


 毎朝花を贈ってくれたことも、愛の言葉を紡いでくれたことも――いいや、そもそも最初のあのプロポーズさえ、全部嘘だったのだ。

 人付き合いの苦手なエリシアは、まんまと勘違いして信じてしまった。


 生温かいものが目から溢れて止まらない。

 ぽたぽたと雫が落ちて、頬を濡らす。

 胸がぎゅっと締め付けられるように痛くて苦しい。


 月明かりも届かない、茂みの影に隠れるようにうずくまった。

 いくら鉄仮面のエリシアでも、こんな顔で馬車には乗れない。

 とめどなく溢れるものを止めようとして、でも止まらなくて、その感情に押し流されそうになる自分が、ただ情けなくて――。


 その時、不意に強い手が腕を掴んだ。


「エリシア」


 見上げた先にいたのは、マルコだった。

 今、一番こんな姿を見られたくない人だ。


「そんな顔して、どうした?」

「……別に何でもありません」


 マルコは斜に構えた表情でじっと彼女を見据え、口の端を軽く上げて冷ややかな笑みを浮かべた。


「当ててやろうか?」

「やめてください」


 エリシアは必死に腕から逃れようとするが、許してくれない。

 嫌だ、やめてほしい。

 そう願えば願うほど、マルコの目が細められ、口元にぞっとするような笑みが浮かぶ。


「お前は騙されてたんだよ! お前なんかがアルベルト公爵に見初められるわけないだろう!」


 マルコは、まるで心の臓に刃を突き立てるかのように――容赦なく言葉を突き刺した。


 ああ――自分以外は皆知っていたのか。

 いや、エリシアも最初こそ見初められるわけないと思っていた。けれど、ハルトヴィヒと過ごす甘くて眩しい日々が、そうなのだと言ってくれているように感じた。


「大勢の前で完全無欠の公爵閣下にプロポーズされて舞い上がったんだろう。自分の価値を見誤るほどに」


 そうだ。その通りだ。

 エリシアは自嘲気味にそう思った。

 困惑しながらも、あの時の自分はもしかしたら舞い上がっていたのかもしれない。

 ただの勘違いに過ぎなかったと、今ならはっきり分かる。


「頭が悪くて愚かなエリシア。からこうなるんだ」


(逃げる?)


「どういう意味で――」


 突然、口元を布で塞がれた。


「お前には俺しかいないって分からせてやるよ」


 鼻を刺す鋭い刺激臭が広がる。

 金属を思わせる冷たさと、消毒液のようなツンとした嫌な匂い。

 息を吸い込むたびに喉が締め付けられ、視界がぼんやり霞んでいく。

 その異様な臭気が、エリシアを静かに蝕み――


 ――――意識を手放した。

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