第18話 静かな夜の穏やかなひととき1
ハルトヴィヒは久しぶりに公爵家の門をくぐった。
あの日――再び領内の調査に出たハルトヴィヒは、しばらく屋敷に戻ることができなかった。
領地周辺に不穏な動きが見え始めたのは、エリシアとの婚約を発表した後のことだった。報せでは、小規模ながら連携の取れた盗賊団が村々を襲い、農民たちの間に動揺が広がっているという。単なる盗賊にしては、奇妙に用意周到だった。
それはハルトヴィヒが統治して以来、初めての出来事だった。
だからこそ、ハルトヴィヒは自ら動いた。視察と称して、アルベルト公爵家の騎士団の半数を連れ、隣接する村落から順に見て回った。表向きは治安維持のためとしていたが、実際にはもっと深いものを探っていた。敵の影とその意図を。
背後に誰がいるのか、おおよその見当はついている。だが、証拠は掴めないままだ。
ふいに馬車の窓の外に視線を向けると、前庭の様子が変わっていることに気づいた。もっとも三週間も離れていれば、季節も移ろい、花が替わっていても不思議ではないのだが。
薄紫色のラベンダーが夜風に揺れ、その香りは車内にまで届いていた。ハルトヴィヒが出立したころまで咲いていたバラは跡形もなく消え、代わりに緑豊かな葉が庭を静かに彩っている。
変わりゆく庭の様子を見つめながら、ハルトヴィヒはエリシアのことを考える。
あの日、ぎこちなく別れてしまった彼女の顔を、せめてほんの少しだけでも見たいと願う。しかし、時計はすでに日付を跨ごうとしている。
もともと今日戻れるかも定かではなかったため、エリシアには知らせないよう伝えていた。きっとエリシアはもう眠っているだろう。
馬車が止まり扉が開くと、懐かしい屋敷の気配が押し寄せてきた。
「お帰りなさいませ」
遅い時間にも関わらず、玄関前に立っていたブルーノは姿勢を正すと、深く頭を下げた。
周囲に視線を巡らせると、ブルーノをはじめとした必要最低限の使用人だけが控えており、彼に続くように頭を下げた。
「ああ。長い間帰れなくてすまなかった。何か変わったことは?」
「……おひとつ、ご報告がございます」
ブルーノが目を見て言う。
手紙で知らせるほどの緊急性はないものの、翌朝を待たずに報告しなければならない事案だと感じた。
「わかった。聞こう」
ハルトヴィヒは上着をブルーノに預けると、そのまま執務室へと向かった。
「――エリシアが、直談判してきた?」
ブルーノからの報告に、ハルトヴィヒは思わず聞き返した。
「はい。公爵夫人の務めを教えてほしいと、自ら申し出られました」
あの日、エリシアはハルトヴィヒにも直談判してきた。
「だが、僕は……」
ハルトヴィヒはエリシアの気持ちを無視するような形で、強引にこの屋敷に連れてきたようなものだ。
エリシアはこの婚約に否定的だった。だからこそ、彼女の気持ちの整理がついてからでも遅くはないと、ハルトヴィヒは思っていた。
「エリシア様が何をお考えかは、エリシア様から直接お聞きになるべきでしょう。ただ、ハルト様のお気持ちについては、すでにご理解されているご様子でした」
「そんなはずは……」
穏やかに話すブルーノの言葉は、にわかには信じられなかった。
「それは、エリシア様が仰った本当のお気持ちなのですか? 直接お聞きになられたのですか? 確認もせず、勝手に心の内を決めつけてしまうのは、エリシア様に対してあまりにも失礼です」
「…………」
ハルトヴィヒは何も返せなかった。
ブルーノの言葉は、まさに核心を突いていた。
自分は、エリシアの心を理解したつもりでいた。だが、それはただの思い込みにすぎなかった。
「エリシア様は、公爵夫人としての務めを果たそうとされています。公爵夫人のお仕事は、ただの義務感だけではできません」
――この屋敷では、安らかな日々を過ごしてほしかった。
リヴェール家に向けられる狂気の目から、少しでも遠ざけてやりたかった。
エリシアがここへ来た
だからこそ、ここで穏やかに過ごしてくれさえすれば、それでよかったのだ。
けれど――彼女は違った。そうではなかったのだ。
ハルトヴィヒは自分の気持ちを押し付けていただけだった。これでは、あの男と何も変わらないじゃないか。なんて愚かなことをしてしまったのだろう。あの男の言動を心底軽蔑していたくせに、自分もまた、同じことをしていたなんて。
胸の奥で後悔と自己嫌悪が重たくのしかかり、ハルトヴィヒは静かに目を伏せた。
そんな沈黙を破るように、ブルーノがふと口を開いた。
「それにしてもエリシア様があまりにもお出来になるので、私もベルタも少々驚いてしまいました。伯爵家でもなさっていたそうですね。あれほどのことを、若くして身につけているとは思いませんでした。お教えすることがほとんどございませんでした」
「なぜ、僕も知らないことをお前たちが先に知るんだ……」
ハルトヴィヒは顔を上げ、思わず小さくため息をついた。
ブルーノは、ハルトヴィヒの祖父の代から仕えてきた忠臣だ。人を見る目は確かで、その言葉に偽りはない。
そんな彼に婚約者を褒められて、嬉しくないはずがなかった。だが同時に、その婚約者の魅力を最初に知ったのが自分ではなく他人であるという事実に、どうしようもない嫉妬もまた湧き上がってくる。
――自分が、エリシアからの申し出を拒んでおきながら。
そんな思いを抱いてしまう自分の醜さに、ハルトヴィヒは苦く自嘲した。
その様子を見たブルーノは、どこかいたずらっぽい、柔らかな微笑みを浮かべた。
「もしかすると今は我々とのほうが、仲が良いかもしれませんね。なにせあんな変な空気で別れておられましたから」
「うぐっ」
人の傷を遠慮なく抉り、さらに塩を塗りつけてくるような言葉に思わず声を漏らす。
「何はともあれ、まずはエリシア様のお気持ちをきちんとお訊きになるべきかと存じます。ハルト様が今、すべてをお話できないのは私共も承知しておりますが、それでも一方的に決めつけるのではなく、相手の心に耳を傾けることは大切なことですよ。たとえ思いやりのつもりでも、相手にとってはそう受け取られないこともございますから」
「――そう、だな」
ハルトヴィヒは小さくうなずいた。胸の奥で、ブルーノの言葉がじんわりと染み渡るのを感じていた。
ブルーノは話題を変えるように「ああ、それから」と静かに封筒を差し出した。
「こちらが届いておりました」
「ああ。招待状か」
厚手の上質な羊皮紙に、封蝋で厳重に閉じられている。表には、鮮やかな金の箔押しで王家の紋章があしらわれていた。
これだけで差出人が誰かはすぐにわかった。
「いかがなさいますか?」
「これは僕が預かろう」
ハルトヴィヒは一瞬だけ書状に視線を落とすと、静かに執務机の引き出しに収めた。
エリシアに訊くことがもう一つ増えた。
早くエリシアとの対話の時間を作らなければならない。
「では、私はこれで」
全ての報告を終えたブルーノが、控えめに声をかける。
部屋の空気がゆるみ、ハルトヴィヒは少し肩の力を抜いた。
しかし、そのとき――。
「……あ、一つ忘れておりました」
突然、ブルーノが振り返って声をかけてきた。
報告が終わったと思っていたハルトヴィヒは、少し眉をひそめる。
「どうした?」
「間違ってもお嫁入り前のお嬢様の寝室に無断で入り込んだり、寝顔を覗き見するような無粋なことはなさらぬように。いくら
ブルーノは近頃「坊ちゃま」とは呼ばなくなっていたが、今回ばかりはわざとだろう。ベルタに至っては、それを直す気配がまったくないことがひしひしと伝わってくる。いつまでも「坊ちゃま」と呼ばれるのは正直恥ずかしいが、それはまだ自分が未熟ということかもしれない。
「……わかっている」
まるで幼子を諭すような、どこか懐かしさを感じさせるブルーノの言葉に、思わず苦笑を浮かべた。確かに寝顔でもいいからエリシアの顔が見たい気持ちは胸にあった。さすがに無断で寝室に入り込むような真似を実行しようとはしない……と思う。
断言できないのは、疲れているせいか――――思考がおかしい気がする。
ブルーノは一礼すると、今度こそ静かに執務室を後にした。
明日もきっと忙しい一日になるだろう。ハルトヴィヒはふうと息をつき、突拍子もない行動を起こす前に、早めに体を休めることにした。
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