第17話 公爵夫人のお仕事3

 まずは、屋敷の管理を理解し、まとめ上げることから学んだ。

 ブルーノは帳簿や書類を手際よく取り出し、屋敷の経理や使用人の配置について説明を始める。ベルタは侍女たちの日常業務や身の回りの世話、そして公爵家の慣習を伝えた。

 エリシアは真剣な表情で話に耳を傾け、手元の羊皮紙の束を広げては、羽根ペンで淡々と要点を書き込んでいった。少しずつ屋敷の仕組みが見えてくるのを感じていた。


 そうしている間に、気づけば午後のひとときになっていた。何かに集中していると、時間があっという間に流れていく。覚えることはあるが、久しぶりに充実した時間だったとしみじみ思う。

 ベルタがほころんだ笑みを浮かべ、軽やかな声で声をかけた。


「そろそろお茶にしましょうか。少し休憩をとったほうがよろしいかと」

「そうね。ブルーノもベルタも疲れたでしょう」


 エリシアは軽く頷くと、チェルシーにお茶の準備をするよう伝えた。




 暖かな陽光が窓から差し込み、部屋の中は穏やかな空気に包まれる。三人はテーブルの周りに集まり、小さな銀製のティーカップを手に取った。湯気の立つ紅茶の香りが、静かな安堵をもたらす。


 ふと、ベルタが口を開いた。


「エリシア様は、ご生家でもこのようなことをなさっていらっしゃったのですか?」


 エリシアは少しだけ視線を落とし、控えめに答えた。


「……少しだけ。母が早くに亡くなって、父は後妻を迎えなかったから」


 母、ユージェニーはエリシアを生んだことにより、身体に無理がたたったと聞いたことがある。

 父は生涯、母ただ一人を想い続け、どれほど後妻を迎えるよう進められても、断固として頷くことなかった。ゆえに伯爵夫人の席は空いたままだった。

 だからこそエリシアは、淑女教育の一環として屋敷の管理をはじめとする夫人の務めも学んでいた。


「そうでしたか。あまりにもご理解が早くて、驚いてしまいました」


 ベルタは感慨深げに微笑んだ。

 ブルーノとベルタは顔を見合わせると、一つ頷き、ベルタが口を開く。


「それでは、さっそく明日からお願いしてもよろしいでしょうか」

「ええ」


 エリシアは内心晴れやかな気持ちで、けれど表面上は静かに頷くと、ベルタは安堵の色を浮かべた。ブルーノも静かに深く頷いている。


「そうとなれば坊ちゃまがお戻りになったら、ご報告いたしませんと」

「……その、坊ちゃまというのは?」


 エリシアは思い切ってずっと気になっていたことを訊ねてみた。

 このひと月しか知らないが、ベルタは侍女長の名に恥じない仕事ぶりだ。だからこそ、ハルトヴィヒに言われても直す気がないのか、はたまた昔からのクセなのかはわからないが、どうにも珍しいと思っていたのだ。


「あら、申し訳ございません。つい、昔のクセで……」


 ベルタははっとしたように一瞬息をのみ、どこか懐かしむような口調で言葉を濁した。その表情からは、ハルトヴィヒとの長い付き合いと彼女なりの敬愛が伝わってくるようだった。


「そう。ベルタは長くお仕えしているのね」

「先々代のころ――坊ちゃまのご両親がご存命のころからです。ブルーノは坊ちゃまの祖父にあたるお方がご存命のころからです」


 ベルタの言葉に、ブルーノが「ただ」と口を開いた。ゆっくりと、思い出をなぞるような口調だった。


「先代――ハルト様の伯父君の時代、我々は一度屋敷を離れております」


 エリシアは、思わず目を見開いた。

 静かな語り口ではあったが、そこに含まれた事情の重さを感じ取らずにはいられなかった。

 踏み込んでよいことなのか――言葉を探すように唇がわずかに動く。だが、声にはできなかった。


 ブルーノは、エリシアの唇のわずかな動きを見逃さなかったのだろう。その戸惑いを受け止めるように、穏やかな口調で続けた。


「これはアルベルト公爵家の歴史ですから、知っておいたほうがよろしいです。ちょうどいい機会です。――エリシア様、アルベルト公爵家で跡を継げる者には、どういった条件があると思われますか?」


 唐突な問いかけに、エリシアは考え込んだ。

 伯父――つまりはハルトヴィヒのお父様のお兄様ということだ。

 通常、家督を継ぐのは長兄が多いが、実際に当主の座を継いだのは次兄であるハルトヴィヒの父親だ。つまりこの家では、長兄が跡を継ぐというわけではないのだろう。ならば、手腕か、あるいは人望か――。

 思考を巡らせるが、答えは見えてこない。

 そんなエリシアに助け舟を出したのは、ベルタだった。


「ヒントは坊ちゃまの外見です」


 ハルトヴィヒの外見――。

 エリシアは彼の顔を思い浮かべた。


 長身で、人目を引く端正な顔立ち。あとはその甘い微笑み。だが、それが跡継ぎの条件になるとは思えない。

 何か、もっと特徴的な要素があるはずだ。

 記憶をたぐるように、ゆっくりと口を開いた。


「金髪、青い瞳、それから黒子……?」


 ハルトヴィヒの特徴をそのまま言っただけなのに、ブルーノは静かに頷いた。

 どうやら正解だったらしい。


「アルベルト公爵家は代々、金の髪か青の瞳、それからお顔のどこかに黒子があります。初代アルベルト家の祖となるお方が、金髪碧眼で、左目の下に黒子を持っていらっしゃったそうです。以来、どれか一つでもその特徴を受け継いでいれば当主とされてきましたが、その全てを持って生まれれば、上にご兄弟がいようと、その者がより当主に相応しいと認められてきました」


 エリシアは、はっと息をのんだ。

 ――金髪、碧眼、左目の下の黒子。

 ハルトヴィヒには、そのすべてが揃っている。まさに、初代当主と同じだ。


「お見せしましょうか」


 ベルタは小さな冊子を棚から取り出すと、数ページめくって一枚の絵を指し示した。

 そこには、夜空に輝く星々のようなきらびやかな金の髪と透き通った淡い海を閉じ込めたような青い瞳を持ち、左目の下に泣き黒子を浮かべた青年の姿が描かれていた。

 エリシアは、自然と息を呑んだ。


 ――驚くほど、似ている。


 瓜二つだ。生き写し、生まれ変わりといっても過言ではないだろう。


「先々代――ハルト様のお父上、ルートヴィヒ様も、金髪に碧眼、そしてハルト様とは反対の右目の下に黒子がありました。一方、伯父君は碧眼こそお持ちでしたが、黒子はなく、髪も栗皮色だった。そのため、当主には選ばれなかったのです」


 そこまで語ったあと、ブルーノはふと目を伏せ、小さく息をついた。


「伯父君はずっと機会を伺っていたのでしょう。先々代の公爵夫妻が馬車の落下事故で亡くなってすぐ、実権を握られました。そのときハルト様は十歳。まだ当主となるには若すぎました」


 言葉を結んだブルーノの横顔には、静かな悔しさが浮かんでいた。


「金髪に碧眼、それから黒子。その全てを持って生まれたハルト様が目障りになるのも、仕方のないことだったのかもしれません。伯父君には、ハルト様よりも二つ年上のご子息がいらっしゃいました。当然、我が子に跡を継がせたいと思うのが親心でしょう。あの方は公爵家に入るや否や、我が子の髪をアルベルト公爵家の象徴である金に染め、当主の条件を満たしたハルト様の金の髪をわざわざ染めて消そうとしたのです。その日を境に、ハルト様の待遇は一変しました。我々は……我々は、あの方をお守りすることができなかった」


 ブルーノの声には、悔しさと自責の念が滲んでいた。

 ハルトヴィヒに肩入れしようものなら、その者は翌日にはいなくなっており、彼の味方は一人、また一人と消えていったのだという。

 だが、ブルーノとベルタだけは違った。彼らは当時すでに家令と侍女長として、アルベルト公爵家にとって欠かせない存在となっていたらしい。もっともこの二人であれば、他の使用人より立ち回りも上手かったのだろうと、エリシアは思った。


「いっそのこと切り捨てたほうが、ハルト様は幸せだろうと思うほどの仕打ちでした。普段はまるで存在しないかのように振る舞いながらも、年頃の子が集まる社交の場にはご子息に加えハルト様も連れていき、我が子こそが正当な後継者だと見せしめるために、ハルト様を蔑み貶めていたと聞いています。伯父君は私利私欲にまみれ、正当な後継者を蹂躙し続けていたのです」


 ブルーノの口調は淡々としていたが、その奥には長年胸に秘めてきた怒りが込み上げていた。

 礼儀正しいブルーノが頑として伯父とその子どもの名前を呼ばないことに、彼が長年アルベルト公爵家で務めてきた者としての矜持が感じられた。


「もう私共は見ていられませんでした。ちょうどご子息が十六歳の誕生日を迎えたあの日、あの方々がハルト様を置いて屋敷を開けたのです。チャンスだと思いました。私とベルタで、ハルト様をこのお屋敷から逃がしました」


 エリシアは思わず息を詰めた。

 なんて勇気のある行動だろう。反逆に等しい行動だと言えるのに、それでも彼らはハルトヴィヒを救うことを選んだのだ。

 ブルーノは、その言葉に込めた覚悟を思い返すように、そっと目を伏せた。


「実は……奥様が亡くなられる前に、私にとある書状を預けておいでだったのです。内容は見ておりませんが、自分たちにもしものことがありハルト様が窮地に立たされたとき、これをお渡しするようにと。我々にできたのは、逃がすことだけでした。その書状と、ほんの少しの金貨をお渡しして……あとは、すべて運に任せるほかありませんでした」


 長年の重荷を思い返すように、どこか遠い目で静かに語る。


「その後、ハルト様がどうなさったのかは、私共にもわかりません。逃がしたことで、我々は揃って解雇されましたから。あの後のことは、一切耳に入らなかったのです。……ただ、あの方がハルト様に懸賞金をかけていたことだけは風の噂で知っておりました」

「ただただ私達は、坊ちゃまが無事で生きていてくださればそれでいいと、そう願っておりました」


 ブルーノの言葉に、ベルタがそっと続ける。

 二人の語りには、悔しさも悲しみも混じっていたが、それ以上に祈りのような深い思いがあった。


「それから何年経ったのでしょう……。ある日成長したハルト様が目の前にいらっしゃったのです。ハルト様はあの方を廃嫡し、実権を取り戻し、我々を探しに来たと仰っていました」


 語るブルーノのその瞳には、深い感慨と、ほのかな希望のような光が差していた。


「あの時の光景は忘れられません。……私はもう隠居の身だったのに、ハルト様の行く末が見たくなって、ついあの手を取ってしまった」

「私もです。いえ、私達だけではない。この屋敷の皆がそうなのです」

「あの小さくて可愛らしいハルト様が先々代の意思を継ぎ、領地を立派におさめ、奥様まで見つけてきて、私は、私は……」

「…………」


 ブルーノは感極まって涙をこぼし、ベルタも目を潤ませていた。

 心打たれるいい話だが、エリシアはまだ奥様ではない。だが、そんなこと指摘できる雰囲気ではない。

 それにこの空気では、仕事の話に戻すのも難しそうだ。



 それにしても――。

 完全無欠の若き公爵閣下に、そんな過去があったとは思いもよらなかった。

 二年前、突如社交界に顔を出したのは、伯父から家督を取り返した後だったのだろう。

 誰もが驚いたその登場の裏に、これほどの事情があったとは。


 しかし、ブルーノもベルタも知らない”空白の彼の過去”がある。

 それがどうしても気になった。

 ハルトヴィヒ自身が話そうとはしなかったため、二人はあえて訊かなかったのだという。

 ハルトヴィヒがどこで、どのようにして過ごしてきたのか――それは、エリシアが聞いても良いものなのか。

 だが、そもそも昨晩から続いているあのぎこちない空気が、まだ二人の間に漂っていてそれどころではないというのが率直な感想だ。


 朝、顔を合わせて見送ったはずなのに、言葉はほとんど交わせていない。

 どこか距離があるまま、ハルトヴィヒは屋敷を後にした。


(お戻りになったら、きちんとお話しましょう)


 気持ちの整理はついたこと――。

 公爵夫人の務めを学びたいこと――。

 それから、もう少しだけハルトヴィヒについて知りたいこと――。

 そう心に決めたのに、この日ハルトヴィヒが戻ることはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る