第16話 公爵夫人のお仕事2
翌日。
一日の始まりにはまだ早い薄明のころ、公爵家の馬車が門をくぐって出ていった。
出立するハルトヴィヒの背を、エリシアは屋敷の前で見送っていた。
いつもにこやかで飄々としているように見えるハルトヴィヒだが、昨日の夕食後からはどこか固い雰囲気を醸し出していた。
今朝も恒例となっている贈り物のブーケをもらったが、なんだか気詰まりするようなぎこちなさを感じた。
――気持ちの整理がついたら。
ハルトヴィヒの言葉を心の中で反芻する。
あの後エリシアは、自室で一人じっくりと考えた。
ハルトヴィヒの言う”気持ちの整理”とは何なのかと。
そして一つの結論を出した。
「……行きましょう」
エリシアはある決意を胸に、屋敷の中へと戻って行った。
「お二人に、お願いがあります」
エリシアは自室近くの書斎に、家令であるブルーノと侍女長であるベルタを呼び出していた。そばにはチェルシーが控えている。
少し緊張しながらも、エリシアははっきりと言った。
「私に、公爵夫人としての務めを、公爵夫人の立ち居振る舞いを教えてください」
「坊っ……ハルト様からは、そのようなことは仰せつかっておりません」
ブルーノはすぐに首を振り、返答した。老齢の彼の声にはアルベルト公爵家の忠実な使用人としての責任感が込められていた。
「坊ちゃまも仰っていた通りです。今はまだ、この屋敷に慣れることが一番大切ですよ」
ベルタも諭すように微笑みながら言う。
二人の言葉に、エリシアの胸に重く冷たいものが落ちた。だが、それを顔に出すことはなく、いつもの無表情のまま強い決意を胸に秘めていた。
「もう慣れました」
「まだ、お気持ちの整理ができていらっしゃらないのではないでしょうか」
「気持ちの整理――」
それは昨日ハルトヴィヒに言われた言葉だ。
だが、それについては自分の中で結論を出した。
「それは私の意思で、こちらへ来たわけではないからですか?」
エリシアの言葉に、ブルーノは一瞬目を伏せ、ベルタはそっと視線を逸らした。二人とも一瞬、言葉に詰まったように見えたが、エリシアは続ける。
「もちろん最初はそうでした。急に決まった婚約。私の心の準備など置いてけぼりで、決まってしまいましたから。ですが、私はこちらへ向かう馬車の中で心を決めていました。その、私がハルト……様に相応しくないことは自分でもよくわかっています。私には足りないものが多すぎることも理解しています」
「「そんなことはございません」」
ブルーノとベルタが、息を合わせるように即座に否定する。二人の視線がエリシアに向けられる。その瞳には、一切の迷いや気休めの色がなかった。
その反応は予想していなかっただけに内心驚いてしまい、言葉が一瞬喉につかえる。けれど、もうここまで来たら引き下がるわけにはいかなかった。
「……きっとお二人もご存知でしょう。私は社交界には顔を出しておりません。貴族の娘としての役割は果たせておりません。それでも最低限、自分が出来ることをリヴェール家ではやってきました。みなさんも、働いた代価をいただいているはずです。なぜ、私だけ何もしないことを命じられるのでしょう? 私はお客様のつもりでここへ来たわけではありません。このままでは私は何もしていない、ただの穀潰しになってしまいます」
その声には、抑えた静けさのなかに、強い意志と切実な願いが宿っていた。
だが、その想いがどれほど真剣でも、エリシアの顔には何ひとつ表れない。ただ、冷静に、淡々と語るだけ。
ゆえに伝わるかはわからない。
しばしの沈黙の後、ブルーノが静かに口を開いた。
「……わかりました」
彼なりの覚悟が、その短い言葉に滲んでいた。
「奥様は芯がおありなのですね」
柔らかな声で続けたブルーノの目には、どこか安心したような色が浮かんでいる。
「……まだ、奥様ではありません」
エリシアは冷静に返したが、胸の奥がくすぐったいような感覚に満たされていた。
なぜかブルーノとベルタが微笑んでいる。それもどこか幼子を見守るような眼差しで。これはあれだ。アルベルト公爵家へ初めて来たあの時と同じ雰囲気だ。なんだか温かくて、居心地が悪い。そばで控えているチェルシーも同じ雰囲気を醸し出している気がする。
「ハルト様のご意向は尊重せねばなりませんが、エリシア様のその覚悟は確かに受け止めました。私たちにできる範囲から、少しずつお教えしましょう」
「そうですわね。まずは簡単なことから始めてましょう。ですが、無理は禁物ですよ」
ブルーノは穏やかながらも責任感の強さを感じさせる声で言い、ベルタは優しく微笑みながら頷いた。二人の視線は揃って真剣で、エリシアの決意を受け止めているのが伝わってきた。
「ありがとう。どうかよろしくお願いいたします」
エリシアはブルーノとベルタの目を見つめ、感謝の気持ちを込めて丁寧に言葉を紡いだ。表情には出ないが、胸の奥にふわりと温かいものが広がった。
ようやく、エリシアの新しい学びの日々が始まった。
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