第15話 公爵夫人のお仕事1
サラが屋敷を訪れてから、数日が過ぎたある日のこと。
エリシアは自室で庭園が見える窓際に座っていた。
窓から見える景色は、この屋敷にやってきた頃とは変わった。華やかに咲いていたライラックの花はすでに散り、緑の葉だけが風にそよいでいる。今は初夏らしく鮮やかな紫のラベンダーが主役として風に揺れ、優しい香りを庭いっぱいに広げている。
けれどエリシアは、その美しい景色を静かに眺めているわけではなかった。端から見ればそう見えるだろうが、実際のところエリシアは思い悩んでいた。もっとも、頭を抱えるようなこともしなければ、深刻そうな顔をしているわけではない。手を組み俯くこともなく、ただ無表情で考え込んでいた。
「エリシア様。もしかしてここ数日、何かお考えですか?」
そっと声をかけたのは侍女のチェルシーだった。
チェルシーはトレイに載せたティーカップをエリシアの前に置いた。そこから湯気が立ちのぼるとふんわりと甘く、リンゴのようなほのかな香りが部屋中に広がる。そのやわらかな香りは心を穏やかにし、静かな安らぎを運んでくれる。
エリシアは礼を言うと、カップを手に取り一口だけ口に含んだ。
やさしい温もりが舌先から喉へと伝わり、体の内側に静かに染み込んでいくようだった。
「………その、私って”公爵夫人としての振る舞いを学ぶため”に公爵家に来たはずでしょう? それなのに、今の今まで公爵夫人の仕事については何も教えていただけていないのよ」
そう。エリシアはこのひと月、ほとんど何もしていなかった。
ハルトヴィヒが外出するときは見送りに出ているが、エリシアがやっているのはそのくらいだ。
日中何をしているかと言えば、本を呼んだり、お茶を飲んだり、庭園をぼんやり眺めたり……公爵夫人らしい仕事は一切していない。
公爵家に来たばかりの頃、さりげなくハルトヴィヒに訊ねてみたこともあった。けれどその時は「まずは公爵家の暮らしに慣れること」と穏やかに言われただけで、それ以上のことは何も伝えられなかった。
それを拒まれたとは思っていない。ただ、ひとまず慣れるのを優先した結果、何をしていいのかわからないまま手持ち無沙汰な日々が続いていた。
「まあ、それは確かにそうですね。けれど、閣下はエリシア様に無理をさせたくないと思っておられるのかもしれませんよ」
もちろん、その気遣いも分かっている。きっとハルトヴィヒにも、何か考えがあるんだろう。けれど——。
「それは……わかるわ。気遣ってくださってるのも。けれど、婚約期間は六ヶ月なのよ。もう、そのうちの一ヶ月を費やしてしまった。これから何を学べばいいのか分からないまま時間だけが過ぎていくのは……さすがに、まずいわ」
エリシアは静かに手元のカップをソーサーに戻した。
このままでいいはずがない。
それなのに、誰も何も言ってこない。
宙ぶらりんのまま置き去りにされているような感覚は、想像以上に心を削っていた。
「閣下に、相談なさいますか? 本日のお夕食は、ご一緒できる予定だと伺っております」
「そうしましょう」
チェルシーの問いかけに、エリシアは短く頷いた。
その日の夕食時。
いつものように、ハルトヴィヒがその日の出来事を話し始めた。
「今日は少し領内を見て回ってきたんだ。ここしばらく落ち着いていたけど、ちょっと気になる動きがあってね。大ごとじゃないと思うけれど、念のため確認しておこうと思って」
言葉の端々に、領地を大切に思う当主らしい真面目さが滲んでいる。
没落寸前の公爵家を立て直した功労者と聞いていたが、誰かに任せきりにするのではなく、気になることがあれば自分の目で確かめる。その姿勢が、きっとアルベルト公爵家を守り続けてきたのだろう。
「まあ、何もなければそれに越したことはないんだけどね。そうだ、落ち着いたらエリシアも一緒に行こう。あのあたりの村は景色もいいし、領民たちも気さくでね。君にも見せたいと思ってたんだ」
そう笑って言うハルトヴィヒに、エリシアも小さくうなずいた。
ハルトヴィヒが話して、エリシアは聞くだけ。普段と変わらぬ穏やかな食事のひととき。
けれど、ほんのわずかに胸の奥がざわめいた。ハルトヴィヒの「落ち着いたら」という一言が、妙に耳に残る。もしかすると、これから少し忙しくなるのかもしれない。
それならなおさら、公爵夫人としての務めを学んでおいたほうが幾分か彼の力になれるかもしれない。
エリシアは会話が一息ついたのを見計らってナイフをそっと皿の縁に置くと、意を決してハルトヴィヒの顔を見た。
「あの……ひとつお願いがあるのですが」
「どうした?」
「私に公爵夫人の務めについて、教えていただけませんか?」
ナイフを口元に運んでいたハルトヴィヒが、わずかに手を止めた。
少しの沈黙のあと、ごく控えめに首を横に振った。
「今はまだ気にしなくていいよ。まだひと月しか経っていないんだ。まずは屋敷に慣れてくれればそれでいい」
ハルトヴィヒの声は穏やかで、不安を取り除くように優しかった。
だが、まるで「何もするな」と言われているようで、エリシアの胸には小さな衝撃が走る。
「もう十分慣れました。それに、私は“公爵夫人としての立ち居振る舞い”を学ぶため、ここへ来たのです。それなのに、何をすればいいのかも教えていただけないのでは、ここへ来た意味がありません」
プロポーズを受けて、その翌日にアルベルト公爵家へ行くことになった。準備もろくにできないままだ。それなのに、何も教えてもらえないのでは、あれほど急いで赴いた意味がわからなくなってしまう。
ハルトヴィヒは少しだけ視線を落とし、それから再びエリシアに目を向けた。
その目に宿るものが、理解できなかった。ただ、なにかをためらっているとだけは分かった。
「……君の気持ちの整理がついてからでも遅くはないから」
ハルトヴィヒはそう言うと、ナイフとフォークを静かに置いた。そしてそのまま食事を終えるように席を立つと、食堂から出ていってしまった。
(気持ちの整理って何?)
ハルトヴィヒの考えがわからない。
エリシアはその言葉の裏にあるものを感じ取れず、ただ胸のざわつきだけが募った。
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