第10話 朝食

 初めての晩餐は、以外にも素朴なものだった。

 テーブルには、湯気の立つスープにローストされた鶏肉、それから香草を散らしたパイが並べられていた。

 エリシアが席に着くと、給仕がパンを添えた。


「さあ、食べようか」

「……いただきます」


 エリシアはまず、スープを口に運んだ。

 滑らかで優しい甘みが舌の上に広がり、濃厚なとろみが喉の奥へとゆっくりと流れていく。喉を通る感触が心地よい。

 次にパンを一口大にちぎる。

 慣れ親しんだライ麦のパンは香ばしく、噛むほどにじんわりとした甘みと酸味が舌に広がる。


 エリシアはちらりとハルトヴィヒを窺った。

 視線が合うと、ハルトヴィヒは何も言わず、ただにこりと微笑んでみせた。


 どこまでも徹底した男だと、エリシアは感心する。

 このテーブルに並ぶ料理はすべてリヴェール伯爵家で出されていたものだ。付け加えるのなら、エリシアが好きな料理だ。

 用意された部屋もドレスも料理も――すべてエリシアが好むものばかりで、ハルトヴィヒの用意周到さに内心圧倒された。それなのに、それを微塵も感じさせないハルトヴィヒにエリシアはわずかに目を細めた。

 得意げに誇るでもなく、恩着せがましい素振りもない。ただそこに座り、穏やかに笑みを浮かべている。


 あくまでも自然に、当然のように――。

 まるで、初めからエリシアの好みなど知っていて当然だとでも言いたげな、そんな余裕の態度。


(……抜け目のない人)


 スープに再びスプーンを滑らせながら、エリシアは心の中でひとつ息をついた。



 





 エリシアの部屋の扉が叩かれたのは、翌朝の身支度の最中だった。


「まあっ!」


 部屋の前で呼ばれたチェルシーは、何やら別の侍女と言葉を交わしている。


「エリシア様っ!」


 手に何かを抱えたまま、チェルシーが振り返った。その瞳には驚きと興奮が色濃く浮かんでいる。

 エリシアはチェルシーの手にあるものを見て、思わず目を見開いた。


「これは……」


 エリシアは顔を上げると、そこにはどこか含み笑いを浮かべているチェルシーの顔があった。何が言いたいのか手に取るようにわかる。それと同時に、今日の支度がいつも以上に念入りに行われることも、確信したのだった。









 身支度を終えたエリシアが食堂に入ると、ハルトヴィヒは長いテーブルの端にひとり食事を始めるでもなく紅茶を傾けていた。


「おはよう、エリシア」

「おはようございます」


 エリシアはそっと一礼し、静かに腰を下ろすと、ほどなくして給仕がそばに控え紅茶を注いだ。


「今日の浅紫のドレスも似合うね。エリシアの美しさを存分に引き出している。絶対に似合うと思ったよ。つい、見惚れてしまうな」


 ハルトヴィヒは目を細め、柔らかく微笑んだ。

 完全無欠の公爵閣下から向けられる蜜のような甘い言葉に、エリシアの手元がわずかに揺れる。


(また……そういうことを)


 心の中でそっと呟く。


 今日は衣装室の中から、浅紫色の細身のドレスを選んだ。

 ドレスの裾には、透けるように薄い紗の布が幾重にも重ねられていた。歩くたびにふんわりと広がるその軽やかさは、華やかさを損なわないまま、動きやすさもきちんと確保している。

 袖口と胸元には控えめな刺繍が施されており、清楚な美しさと気品が際立つ仕立てだった。

 もっとも、エリシアが淡い色合いのドレスを選ぶはずもなく――このドレスを選んだのはチェルシーなのだが。


 初めて会ったあの舞踏会の時みたいに、社交辞令として聞き流せばいいはずなのに、そうできないのは――――。


 ――僕の気持ちは本気だ。


 昨日のハルトヴィヒの言葉を反芻し、胸の奥がひそかにざわめく。


(お世辞よね。ハルト……様は、どんなご令嬢にもそう言えるのでしょうから)


 そう思いたかった。ハルトヴィヒの名声、社交界での人気ぶりは紛れもない事実だ。自分が特別だなんて、勘違いしてはいけない。

 けれど、彼の言葉も微笑みも嘘のようには見えなくて。エリシアはティーカップの縁を見つめながら、思わず自分の指先を握りしめた。


(私より美しいご令嬢はたくさんいるのに……)


 それなのに――胸の内に、ほんのひとかけらの温かいものが生まれてしまったことが、なにより苦しかった。

 エリシアはティーカップの縁に唇を寄せながら、静かに息を整えた。


「……ありがとうございます」


 そう口に出した自分の声が、ほんの少し震えていたことには、気づかないふりをした。

 けれど朝のことを黙っているのもどこか不自然で、エリシアは一呼吸置いて続けた。


 「それから……お花も。とても綺麗なブーケでした」


 目を合わせるのが少しだけ気恥ずかしくて、言葉の最後はわずかに声が小さくなる。


 そう。エリシアの身支度の最中に届けられたのは、小さなブーケだった。ライラックをベースとして、スズランとカスミソウが添えられている。

 そういえば昨日、部屋に飾られていたのもライラックだったと思い出す。もしかすると庭園か温室に植えられているのかもしれない。


「気に入ってくれた? あれはうちの庭園に咲いているる花なんだよ。そうだ! 今日はエリシアさえよければ屋敷を案内しよう!」


 良案だと言わんばかりに満面の笑みを浮かべたが、すかさず扉の近くで控えていたブルーノが口を挟んだ。


「お話中申し訳ございませんが、坊っ……ハルト様はお仕事が溜まっております」

「屋敷の案内くらいいいだろう?」

「本日までのものがたんまりとございますよ」


 にっこりと、だが瞳の奥が笑っていない笑みを浮かべるブルーノ。


「だが……」

「私にお任せください」

「ベルタ。だが……」

「坊ちゃま」


 侍女長のベルタが名乗りを上げた。

 じぃっとハルトヴィヒを見つめている。目で会話をするとはこういうことなのだろうと、エリシアは思った。


「……ぐっ。坊ちゃまはやめろ。じゃあベルタ…………任せた。任せたくないけど。僕がやりたかったけど……」

「そういうことですので、エリシア様。私が案内させていただきます」


 心底悔しそうにしているハルトヴィヒの言葉を流したベルタはエリシアに頭を下げた。ブルーノといい、ベルタといい、主に対して強気である。二人の年齢からして、ハルトヴィヒが幼い頃から――先代、先々代の頃から仕えているのだろう。


「ええ、よろしく」


 項垂れているハルトヴィヒをちらりと伺いつつ、エリシアはカトラリーを手に取り食事を口に運んだ。

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