第4話
戴冠も近づいてきたある日、イベリスはガロットと共にふたりきりの茶会を楽しんでいた。
「ふふ」
「何かおかしなことでもあったか?」
ガロットは首を傾げる。彼の問いかけに、イベリスは首を振った。
「いいえ。ただ、ガロット様と穏やかに過ごす時間が持てるようになったことが感慨深くて」
「……そうか」
ガロットは眩しげに目を細め、イベリスの手の甲にそっと指を滑らせる。彼の手は以前は優しいばかりだったけれど、最近は明確な意図を感じさせる。色っぽく悪戯な指先を窘めながらも、イベリスの内心は歓びに咲き乱れていた。
物語の暗雲はまだ完全に晴れたわけではないが、サンドルの話はてんで聞かなくなった。別邸での軟禁が始まった頃は暴れ狂って人々の手を焼かせたが、今は糸が切れたように大人しく過ごしているという。
危機はもう殆ど感じられない。内政は安定し、外交も上手くやっている。戴冠の後は結婚式も控えている。ガロットもイベリスもそれらの準備のためにてんやわんやだが、ひたすら破滅を避けるために四苦八苦していた頃よりも充実した毎日を過ごしている。
(結婚したら、こういう時間はもっと増えるのかしら)
王宮の四阿で、木漏れ日を受けるガロットを眺めながらイベリスはほんのりと期待を膨らませる。
ついに愛する人と夫婦になれる。
物語の中では道半ばだったが、今世は絶対に添い遂げたい。
(だからこそ、備えは万全にしなければ)
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戴冠式当日、祝福に包まれた王都の空気は華やかだった。咲き誇る花々さえも新しい国王の即位を喜んでいるかのようだった。
荘厳な空気に包まれた教会の祭壇で、ガロットは恙無く戴冠の儀を終えた。黄金の王冠を戴き、威風堂々と玉座に腰を下ろす彼は、国王に相応しい威厳に溢れていた。
イベリスは配偶者用の席に掛け、そんなガロットを──未来の夫を誇らしくも感慨深く見守った。物語では策謀に負け追放されてしまったことを思えば、喜びもひとしおだった。
明日はいよいよ結婚式だ。
イベリスが胸を高鳴らせたその時、祭壇に凄まじい炎が湧き上がった。
熱波と轟音が室内を満たす。祭壇が、絨毯が炎に包まれる。列席者の悲鳴を聞きながら、イベリスは咄嗟にガロットの方へ視線を向けた。彼は既に立ち上がって剣を抜き、火元である祭壇へ向かっている。
「ガロット様!」
「イベリス、危ないから逃げろ!」
「いいえ! わたくしもお手伝いします!」
ガロットの鋭い警告を無視し、イベリスは阿鼻叫喚の参列者を誘導する。人々にまとわりつく火の粉を振り払い、どうにか全ての人を身廊から追い出した。
イベリスは予想が当たってしまったことに落胆する。
平和に終われなかったことに失望する。
そして、物語でも今世でも尊い命を弄ぶ、見下げ果てた根性の人間を憎悪する。
「はははははは!!」
聞きたくなかった笑い声が響く。振り向いた先には果たして因縁の者──第二王子サンドルが立っている。物語と同じ炎の魔力を纏わせた剣を片手に、狂気じみた笑顔を浮かべて。
「ああ、僕の王冠が穢れてしまった……おしまいだ…… 兄上……イベリス……ああ、全部全部全部お前らのせいだァ!!」
凄まじい剛炎が噴き出す剣を振り回しながら、サンドルが襲いかかってくる。ガロットは身を挺してイベリスを庇い、焔の刃を聖剣で受け止める。甲高い金属音が玉座の間に反響し、ぎらぎらとした火花が散った。
「サンドル……お前はいつまで妄執の中にいるつもりだ」
「妄執? 馬鹿を言うな! 僕は正しい! 僕だけが正しい!! 狂ったのはお前らのせいだ、お前らが……お前らの偽善がこの国を腐らせたからだッ!!」
口に出す言葉は支離滅裂にもかかわらず、サンドルの攻撃は激しくも的確だった。鍛錬を怠らないガロットが防戦を強いられている。
二人が持つ剣は直系の王族に一振ずつ与えられるもので、己の魔力を籠めて使うものだ。物語の中でサンドルに一方的に蹂躙されたのは、ガロットが廃嫡された時に剣も奪われたからに他ならない。
サンドルの属性は炎、ガロットの属性は聖、魔力量は双方互角。相性を考えれば、正直なところガロットの分はあまり良くない。
(でも……ただ手をこまねいていた訳じゃない)
イベリスはガロットの足手まといにならないよう身を翻しながら、サンドルに一発浴びせる方法に思考を巡らせる。
「ぐ……っ」
「ガロット様!」
ガロットの呻き声と共に剣が床に落ちる。気づけば二人は祭壇の隅まで追い詰められていた。ガロットは肩口を炎に焼かれ、苦痛に顔を歪めている。
「はははははは!! 死ねェ! 贄となれェ!!」
サンドルはガロットに止めを刺そうと近づいてくる。
イベリスはガロットを後ろに庇い、祭壇の華燭に手を掛ける。
たかが蝋燭、万策尽きた悪あがきに見えただろう。
だが、ここにいるのはイベリスだ。
サンドルを無力化しようと、何年も頭を絞り続けたしたたかな女なのだ。
「ぎゃああああああ!!!」
先ほどまで勝利の笑みを浮かべていたサンドルが、祭壇の床に崩れ落ちる。突然華燭の先端から凄まじい勢いの水が噴出し、サンドルの顔を抉ったからだ。
「……っ、痛い! 痛い! 痛い! 兄上ェ!!」
「死にはしないわ。むしろ健康になるのではないかしら? 泣いて感謝してくれて構いませんのよ」
「ぐッ、何をした……イベリス、貴様僕に何をした!!」
イベリスは目を押さえてのたうち回るサンドルを見下ろす。蠢く様子が気色悪いが、罵倒したいところをぐっと堪えた。虫に例えては虫に失礼になってしまう。
「何って? 貴重な王都の教会が火事なんですもの。ほんのちょっと聖水で消火しただけですわ」
「ッ、な……」
「ふふ、水がそんな勢いよく出るものかって? 魔法でもないのにって? サンドル殿下が大嫌いな『知恵』を駆使して作りましたのよ。わたくしは『消火器』と呼んでおります」
サンドルは言葉を失っている。イベリスは滔々と語る。
「サンドル殿下は覚えていらっしゃるかしら。ブラッドバス侯爵家が王室費で架空の軍需品を購入している……でしたっけ? 我が家のために素晴らしい書類を捏造して頂きましたわね」
イベリスは淑女の笑みを浮かべる。サンドルは屈辱なのか何も答えない。
「でも、嘘から出た真という言葉もあるでしょう? わたくし王室に陳情したのです。ブラッドバス侯爵家と共同で国防を強化しませんか? って」
「な……にを、」
「殿下がこちらにいらしたのもそうですけれど、王族の皆様は兎角狙われやすいですよね。ですので、儀式や公務に使われる場所の治安強化に力を入れましたの。避難経路を分かりやすくしたり、壁と床を防炎にしたり……警備と検問はゴミクズを通してしまったので、締め上げないといけないですが」
「不敬だぞ! 誰がゴミクズだ……っがアッ!」
イベリスはサンドルの顔に向け、消火器を再びぶっ放した。思い切り、眼球を抉るように丁寧に。
「うふふ、汚れはきちんと洗い流しませんとね」
サンドルは悔しげだが、憎まれ口を叩く余裕はないらしい。目を押さえて呻き声を上げ、床で小さく丸まっている。
イベリスは考える。多少大人しくなったが、サンドルの心はまだ折れていない。徹底的に自尊心を粉々にするにはどうしたらいいだろうか。
思案するうち、ふつふつと怒りが湧いてくる。
イベリスの中でサンドルを廃人にするための方針が固まった。
「サンドル殿下。わたくしとっても怒っているのです」
イベリスは決然と語り始める。淑女の体裁は大切だが、ごみくず以下の存在に敬語なんて勿体ないという思いが勝る。
渾身の思いを投げつけてやりたくて、イベリスは思い切り空気を吸い込んだ。
「『自然への冒涜』って何? あんたがその言葉を口にするたび吐き気がする。そもそも知性を否定できるほど勉強してないじゃない。愚図で馬鹿で怠惰な生き物のくせに、高尚な言葉で飾り立てちゃってばっっかじゃないの? だいたい自然ってあんたが言うほど人間に優しくないんだけど。知性を持たぬ人間は自然に放り込まれたらすぐに死んじゃうって、直轄地をぼろっぼろにしてわかったでしょう? だから人間は知恵と協力で乗り越えてきたのよ。 疫病を避けて、食糧を備蓄して、あんたみたいな害獣を捕らえる罠すら発明してね」
一息入れるが、イベリスの怒りはまだまだ収まらない。
「あんたの策が尽く失敗したのも、王としての器がガロット様の足元にも及ばないのも、あんたが才能もなけりゃあ努力もしないせいじゃない。それなのに自分の思い通りにならない現実から逃げて、『文明』って架空の敵を仕立てて、自分は不幸になったと被害者ぶって。自業自得のくせにガロット様とわたくしを焼き殺そうだなんてちゃんちゃらおかしいわ! 誰からも評価してもらえないのも慕ってもらえないのも、全部あんたが自分でそう仕向けたんじゃない。ガロット様は元々の才も素晴らしいけれど、弛まぬ努力ゆえに王に選ばれたの。あんたが軽蔑した『豊かさ』で民を救ってこの国の頂点に立ったの。そしてわたくしはあの方の隣で、あんたが否定した『
長い長い罵倒の果てに、イベリスは渾身の一言を添える。
「あんたって何のために生きてるの?」
サンドルからは答えが返ってこなかった。命に別状はないはずだが、怒りをあらわすことものたうち回ることもない。ただ、頬には音もなく涙が何筋も伝っている。
──ああ、これで終われる。
サンドルの自尊心が砕けたことを感じ取り、イベリスは前世の記憶を取り戻してからは初めての深い安堵を覚える。
「少しは気が晴れた? 君に徹底的な審判を下されて、サンドルは幸せだな」
「はい。でも、申し訳ありません……ガロット様のお役目を奪ってしまいました」
「まさか。君以上の適任はいないよ」
ガロットに声をかけられ、イベリスは相好を崩した。彼の背後には衛兵が控えている。ガロットが彼らに目配せをするや、サンドルはたちまち拘束されて身廊の彼方へ消えていった。
「お怪我はもう宜しいのですか?」
「問題ないよ。まあ……式典の衣装は駄目になってしまったけど」
ガロットはサンドルに切りつけられた箇所を示す。イベリスが検めると、火傷もなくすっかり綺麗になっていた。
「聖魔法ってすごいですね」
「昔はそれこそ炎が羨ましかったけどね。今回のことがあって、王族としてはこれが最善かも知れないと思ったよ」
ガロットは苦笑いする。この国において、魔力を保有しているのは王族直系の者だけだ。強大な力だが、数代前の国王が表向き潰えたことにしたのだという。平和な世において戦争の火種になることを避けるためだ。
とはいえイベリスは前世の記憶から間接的にそれを知ってしまったし、戦争はなくとも政争の道具にはなってしまったのだが。
「結婚式は延期だな」
ガロットは祭壇を見遣る。消し炭にこそならなかったが、壁や床は煤け、装飾は引きちぎれている。
「楽しみにしていたので残念ですが、仕方ありませんね」
イベリスも眉を寄せる。サンドルの急襲が頭の隅にあったとはいえ、結婚を待ち遠しく思っていたのだ。修繕が終わるまでは早くとも数ヶ月を要するだろう。
「でも……でも、ようやく終わりました」
イベリスはガロットに微笑みかけた。燃え盛る街でガロットと共に焼き尽くされる未来は回避できたのだ。物語の結末は変わった。もう一度、大切な人と生きることができる。
「そうだな、ようやく終わった」
ふたりはどちらともなく寄り添い、きつく抱きしめ合った。いつになく長い時間、これまでの苦しい歩みを思い出し、溢れた涙を拭いあって。
轟炎の惨劇が完全に消え去った教会では、割れた窓から差し込む夕日が二人の姿を優しく照らしていた。
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その後開かれた国王会議の場で、サンドルの処分が話し合われた。直轄地での惨憺たる失敗に加えて、戴冠式における王家への反逆行為。どう見積もっても死罪相当だが、サンドルは腐っても王族である。廃嫡と断種のうえで流刑に処されることが決まった。
流刑地であるグルーサムタスクは、王国の北東、万年雪の山脈の麓にある荒地である。夏も気温が上がらず冷たい風が吹き荒れるそこに緑はなく、急峻な崖が四方を囲んでいる。栽培も採取も以ての外、生きとし生ける物が裸足で逃げ出す土地である。
これからサンドルは独房に入り、小さな高窓から灰色の空を友とし、ガロットの直轄地で生産された保存食の配給を受けることになる。
大好きな自然の下、大嫌いな文明の力に命をつながれる矛盾にいつまで心が持つだろうか。
──荒れ地を抱く辺境の街は、その名をゴーリーエンドと言うらしい。
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燃え落ちた教会が白亜の輝きを取り戻したのは、サンドルの陰謀が阻止されてから半年後だった。石工師たちの尽力により、黒焦げの壁には純白の大理石が張り替えられ、煤けた天井には金箔の蔦模様が蘇った。
王と王妃の結婚式に湧く教会に、死闘の痕跡は影も形も見当たらない。
祝賀の鐘が鳴り響く中、イベリスはレースが幾重にも重なる繊細な衣装に身を包んでいた。髪には小さな白い花──己の名であるイベリスの花を編み込み、イベリスの花束を持ち、繊細な刺繍が裾に施された白いベールを纏っている。全身輝くばかりの白の中、胸元は清澄な青い貴石に彩られている。代々の王妃にのみ許された「星の涙」と呼ばれる青玉だ。
イベリスは祭壇を目指し、身廊の真ん中をゆっくりと進んでいく。見守る列席者たちは皆晴れやかな笑顔を浮かべている。はるばる隣国から寿ぎに来てくれたカルミアの顔もある。
イベリスは祭壇の前──ガロットと向かい合って立ち止まった。
ガロットもまた壮麗な衣装を身に纏っていた。金糸の刺繍が施された漆黒の地に、銀の縁取りがされた肩章。 艷やかな白の衣装には、同じ白の糸を使って蔦とイベリスを象った花の模様が縫い込まれている。胸元には金鎖の飾緒と共に「太陽の瞳」──代々の国王にのみ許された赤玉が輝いている。
ガロットが跪き、イベリスの手を恭しく取る。イベリスは満願の喜びの中、花のかんばせを綻ばせる。
これから夫婦になる。ようやく夫婦になれる。
二人で、国王と王妃として。
誓約の儀のあとで、イベリスは手にしていた花束から一輪抜き取って彼の胸元に飾った。太陽の瞳──王たる彼の隣に寄り添えるよう、願いを込めて。
言葉もなく見つめ合った後で、ガロットはイベリスのベールをゆっくりと持ち上げる。イベリスはじっと彼を待つ。今にも溢れそうな想いを胸に湛えて。
「これからも共に歩んでくれるか」
「もちろんです」
ガロットの顔が近づき、やがて唇が重なる。イベリスは陶然と目を閉じ、彼の優しい気配を噛み締める。
「主の御名において、今ここに神聖な契約が交わされました。主はお二人が歩まれた知恵と愛の道のりを讃え、永世を共に歩むことを望んでおられます」
甘やかで静謐な時間のあと、司祭が厳粛な声で告げる。
イベリスは思う。ガロットとともに歩いた長く険しい道を思う。サンドルの常軌を逸脱した凶行から逃れようと四苦八苦し、掴み取った尊い時間を思う。
決して楽な道ではなかった。
それでも、だからこそ、ガロットと幸せになりたい。
これからもずっと歩いていきたい。神様でさえも隣にいることを許してくれたのだから尚更。
「── 知恵と愛の王と王妃に、心からの祝福を!」
力強い司祭の声が二人を寿ぐ。やがて教会を割れんばかりの拍手と喝采が包み込む。
イベリスは恵みに満たされた歓びに涙を流す。ガロットは笑って頬を伝う涙を拭い、イベリスを抱きしめる。
「イベリス」
涙を流すイベリスの耳に、ガロットが顔を寄せる。
囁くような愛の言葉と二度目の口づけに、イベリスはますます涙を止められなくなる。
物語が終わっても、もう迷うことはない。
ないなら描けばいい。愛する人と描けばいい。物語じゃなくても、絵だって地図だっていい。
イベリスはガロットと手を取り合って身廊を歩き、扉の外へ飛び出す。抜けるような紺碧の空、王都は新しい国王夫妻を温かく歓迎する。
花びらのように降り注ぐ幸福を、イベリスはガロットと共に噛み締める。繋ぎ合わせた手に永世を誓いながら。
〈終〉
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