サイレント・サブマリン ―虚構の海―
来栖とむ
第1話 消えた科学者
1
令和八年、初夏。
国会議事堂の会議室では、またしても怒号が飛び交っていた。
「総理! 防衛費の大幅増額は国民への背信行為です! 憲法の精神に反します!」
「我が国を取り巻く安全保障環境は日々厳しさを増している。国民の生命と財産を守るのは政府の責務だ」
テレビの画面越しに映し出される国会中継を、前田香里奈は自宅のリビングで眺めていた。コーヒーカップを手に、深いため息をつく。
二十八歳の雑誌記者である前田にとって、この光景はもはや見慣れたものだった。東シナ海での緊張は日増しに高まり、C国の海洋進出は加速度的に進んでいる。北方では隣国が新型潜水艦の配備を進め、日本の排他的経済水域への侵入も常態化していた。
それなのに、国会は相変わらず空転している。
野党は防衛費増額に猛反対し、予算案の審議は遅々として進まない。「対話による平和的解決を」「軍拡競争を煽るな」——理想論は美しいが、現実はそれを待ってくれない。前田自身は政治的には中立のつもりだったが、この状況には苛立ちを覚えずにはいられなかった。
「また今日も進まないわね」
独り言を呟き、前田はテレビを消した。壁に掛けられたカレンダーには、今日の予定が赤ペンで書き込まれている。
『13:00 日本先端技術大学 水嶋准教授 取材』
前田が勤める科学技術雑誌「テクノロジー・フロンティア」は、最先端の研究を一般読者にも分かりやすく伝えることをモットーとしている。今日の取材対象は、船舶工学の分野で注目を集めている若手研究者だった。
2
日本先端技術大学工学部の研究棟は、都心から少し離れた緑豊かなキャンパスの一角にあった。五月の陽光が新緑を照らし、学生たちが行き交う様子は実に平和的だ。
「前田さん、お待ちしておりました」
研究室のドアを開けて迎えてくれたのは、三十代半ばと思しき痩身の男性だった。水嶋総——前田が今日インタビューする准教授である。
「お忙しいところ、お時間をいただきありがとうございます」
前田は名刺を差し出し、水嶋の研究室に通された。
部屋は書籍と資料で溢れていた。壁には船舶の設計図らしきものが何枚も貼られ、デスクの上には専門書が積み重なっている。しかし、その雑然とした中にも、研究者特有の秩序があるようだった。
「すみません、少し散らかっていまして」
「いえ、研究に没頭されている証拠ですね」
前田は微笑み、ノートパソコンとICレコーダーを取り出した。
「それで、今日は先生が研究されている新しい推進システムについてお伺いしたいのですが」
「ええ。電磁推進システムですね」
水嶋の表情が、僅かに引き締まった。
「現在の船舶や潜水艦は、スクリューを回転させて推力を得ています。しかし、この方式には限界がある。回転部分の摩擦、キャビテーション、そして何より——音です」
「音、ですか」
「そうです。スクリューは必ず音を発生させます。特に潜水艦にとって、これは致命的な弱点なんです。音紋を取られれば、その潜水艦は丸裸も同然。どこにいても追跡される」
水嶋は立ち上がり、ホワイトボードに簡単な図を描き始めた。
「電磁推進は、電磁力を利用して海水そのものを後方に押し出すシステムです。回転部分がないため、理論上は完全な無音が実現できる。さらに、駆動部が船体内部に収まるため、水の抵抗も劇的に減少します」
「それは……すごいですね」
前田は取材ノートにメモを取りながら、興奮を抑えきれなかった。これは単なる技術革新ではない。軍事バランスを一変させる可能性を秘めた発明だ。
「ただし」水嶋は言葉を続けた。「現段階では、エネルギー効率の問題があります。従来のスクリュー方式と同等の推力を得るには、膨大な電力が必要で……」
そこで、水嶋は口を閉ざした。何か言いたいことがあるようだったが、躊躇しているように見える。
「先生?」
「いえ……実は、最近になって、ある程度の問題は解決できたんです。小型のシステムなら、実用レベルに達しつつある」
「それは素晴らしい成果ですね! ぜひ詳しく——」
「ですが」水嶋は前田の言葉を遮った。「この技術は、軍事転用される可能性が極めて高い。私は純粋に科学者として研究していますが、それが兵器開発に利用されることは……複雑な思いがあります」
前田は頷いた。科学者の良心と、研究成果の行く末。この葛藤は、多くの研究者が直面する問題だ。
3
取材は順調に進み、約一時間半が経過していた。水嶋は専門用語を避けながら、丁寧に説明してくれた。前田のノートは、記事に使えそうなフレーズで埋まっている。
「ところで先生、最近、海外からのオファーなどはありましたか?」
何気なく尋ねた質問に、水嶋の表情が曇った。
「……なぜ、そのことを」
「いえ、優秀な研究者には海外から声がかかることが多いと聞きますので」
前田は慎重に言葉を選んだ。実は、事前のリサーチで、水嶋のもとにC国のある大学から接触があったという情報を掴んでいた。情報提供者は大学内部の関係者で、「かなり高額な条件を提示されているらしい」と教えてくれた。
「……確かに、いくつか話はあります」
水嶋は窓の外を見つめた。
「C国のとある大学から、教授職と研究費の提供を持ちかけられました。正直、魅力的な条件です。日本では研究費の獲得に苦労していますから」
「でも、技術流出の問題が……」
「ええ、それが一番の懸念です。向こうは私の研究に強い関心を持っている。おそらく、軍事目的でしょう。だから、まだ返事はしていません」
そこに、ノックの音が響いた。
「水嶋先生、少しよろしいでしょうか」
ドアが開き、五十代ほどの男性が顔を覗かせた。紺色のスーツに地味なネクタイ。一見すると大学職員のようだが、その立ち居振る舞いには独特の雰囲気があった。
「ああ、安藤さん。今、取材中でして……」
「失礼しました。後ほど改めます」
安藤と呼ばれた男は軽く会釈し、ドアを閉めた。しかし、その一瞬、前田と目が合った。鋭い、値踏みするような視線。前田の背筋に、冷たいものが走る。
「あの方は?」
「安藤さんですか。たまに大学に来られる方で……詳しくは存じ上げないのですが」
水嶋の説明は曖昧だった。明らかに、何かを隠している。
取材後、前田は大学の正門を出ながら、さきほどの男——安藤のことを考えていた。あの雰囲気、あの視線。大学関係者にしては、あまりにも場違いな印象だった。
前田はスマートフォンを取り出し、上司にメールを送った。
『取材終了。面白い内容が取れました。ただし、少し気になる点があります。追加調査の許可を願います』
返信は五分後に届いた。
『了解。ただし、深入りは禁物。防衛関係に触れるようなら、事前に相談すること』
前田は画面を見つめ、小さく息をついた。
防衛関係——上司のその一言が、妙に引っかかった。
4
それから二週間後。
前田のデスクに、思いがけない一本の電話がかかってきた。
「もしもし、前田さんですか。日本先端技術大学工学部の田村と申します」
田村——その名前に、前田はすぐに思い当たった。取材の際、大学内で情報提供してくれた研究室の助手だ。
「ああ、田村さん。どうされました?」
「実は……水嶋先生のことなんですが」
電話口の声は、明らかに動揺していた。
「先生、大学を辞められたんです」
「え……?」
前田は思わず立ち上がった。周囲の同僚が、怪訝そうにこちらを見る。
「いつですか? 理由は?」
「一週間前です。突然の辞職願で、理由は『一身上の都合』としか。研究室の整理もそこそこに、荷物をまとめて出て行かれました」
「C国の大学に行くことにしたのでしょうか」
「それが……どうも違うようなんです。C国からのオファーは断られたと聞きました。では、どこに行かれたのか。誰も知らないんです」
前田の脳裏に、あの男の顔が浮かんだ。
安藤——あの日、研究室に現れた謎の男。
「田村さん、安藤という人物について、何かご存じありませんか」
「安藤……ああ、あの方ですか。詳しくは知りませんが、防衛省関係の方だと聞いたことがあります。水嶋先生とは、何度か長い話をされていたようです」
防衛省。
その言葉を聞いた瞬間、前田の中で、バラバラだったパズルのピースが繋がり始めた。
海洋進出を強める周辺諸国。空転する国会。防衛体制の強化を訴える政府。そして、無音の推進システムを開発した科学者の突然の失踪。
「田村さん、もう少し詳しくお話を聞かせていただけませんか。今日、そちらに伺っても?」
「ええ、構いませんが……前田さん、これ以上深入りしない方がいいかもしれませんよ。何だか、とても大きな話のような気がして」
電話を切った後、前田はしばらく考え込んでいた。
記者としての本能が、何かが動き始めていると告げている。それは、個人の力では抗えないほど巨大な、国家レベルの何かだ。
デスクの引き出しから、水嶋の取材ノートを取り出した。そこには、あの日の会話が几帳面に記録されている。
『電磁推進——完全な無音。音紋を取られない潜水艦』
前田はページをめくりながら、一つの仮説を立て始めていた。
もしかしたら、日本政府は国会の承認を待たずに、秘密裏に新型潜水艦の開発を進めているのではないか。そして、水嶋総はその計画に組み込まれたのではないか。
それは、国民に対する裏切り行為なのか。それとも、国を守るためのやむを得ない決断なのか。
「前田、どうした? 顔色が悪いぞ」
上司の声に、前田ははっとした。
「いえ、何でもありません。ただ……水嶋准教授の件、もう少し調べさせてください」
「水嶋? ああ、あの電磁推進の研究者か。何かあったのか」
「大学を辞めたそうなんです。突然、行き先も告げずに」
上司は眉をひそめた。
「……そうか。分かった、調査は続けてくれ。ただし、慎重にな。こういう案件は、思わぬところから圧力がかかることがある」
「分かりました」
前田はノートパソコンを鞄に詰め込み、立ち上がった。
窓の外では、初夏の陽光が東京の街を照らしている。平和な日常の風景。しかし、その裏側で、何かが静かに動き始めている。
前田香里奈の長い追跡が、今、始まろうとしていた。
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