第七話:夜明けと月雫の実
どれくらい眠ったのでしょうか。
わたくしは、獣の残り香が染み付いた乾いた土の上で、身体の痛みと共に目を覚ましました。
洞穴の入り口から差し込む、乾いた朝の光が、ほのかに白んでいます。
…朝が、来たようです。
(…生きて、る…)
凍え死ぬこともなく、魔物に食われることもなく、わたくしは、確かに朝を迎えました。
二年間、塔の中でただ死を待っていた頃とは違う。
自分の力(…いえ、ほとんど先生の力ですが)で勝ち取った朝でした。
『《…フン。ようやく起きたか、寝坊助め。》』
脳内に、聞き慣れた皮肉めいた声が響きます。
(先生…!ずっと、監視を…?)
『《当然だ。貴様が食われたら寝覚めが悪い。》』
先生は素っ気なく言いますが、その声には疲労の色がありません。
きっと先生は、眠る必要がないのでしょう。
『《夜間、入り口を通りかかった獲物は二匹。ゴブリンの巡回が一体、大型の夜行性ネズミが一体。どちらも、この寝床の匂いを嗅いで、近づかずに去っていったわ。》』
(…ありがとうございます、先生。)
先生のナビゲートがなければ、わたくしは昨夜のうちに死んでいた。
その事実に、わたくしは改めて感謝の念を抱きました。
『《安心するのはまだ早い!貴様の根本的な問題は何一つ解決しておらんぞ!》』
『《深刻なのは空腹と脱水だ!》』
先生の言葉に、わたくしはハッとしました。
昨日で食料は尽きていました。
そして、喉も渇いています。
昨日から、あの水差しの水以外、一滴も水分を摂っていないのです。
今雨は降っておらず、この洞窟の中に、当然水などありません。
先生が、厳しく告げます。
『《追っ手から逃げ切ったと安心している暇はない。貴様は、今日中に水場を確保できねば、明日には動けなくなり、明後日には脱水で死ぬ。》』
『《
(…はい。)
わたくしは、ゴクリと乾いた喉を鳴らしました。
生き延びたという安堵は、一瞬で消え去り、渇きという、より現実的な恐怖が、わたくしの全身を締め付けます。
(どうすれば…先生。この森で、わたくしが飲める水など…)
『《フン。そのために、ワガハイと【
先生は、まるで新しい授業を始める教師のように、楽しそうに言いました。
『《いいか、小娘。この森は死だけではない。あらゆる生に満ちている。》』
『《貴様のスキルは、その生を見つけ出し、利用するための最強の鍵だ。》』
先生は、わたくしに厳命しました。
『《昨日のゴブリンとの遭遇で、貴様に決定的に欠けていたものを教えてやる!》』
『《戦う力だ!》』
(戦う…力?)
わたくしは、戸惑いました。
(ですが、わたくしはスキルは【
『《だから、「
先生は、わたくしの思考を遮りました。
『《貴様のその頭脳と知識を、武器に変えるのだ!》』
『《レッスン弐だ!まずは、生きるための水場、川か泉を探すぞ!貴様の渇きを癒すのが最優先事項だ!行くぞ、小娘!》』
先生に促され、わたくしは、空っぽになった懐を握りしめ、獣の寝床から、乾いた腐葉土が敷き詰められた黒の森へと、恐る恐る一歩を踏み出しました。
洞窟の外は、朝の冷たい空気に満ちていましたが、幸いにも日差しがありました。
ですが、痩せこけた身体で一晩寝ただけでは、体力はほとんど回復していません。
渇きが、思考を鈍らせます。
(…はぁ…っ…はぁ…)
歩き始めて、わずか十分ほどで、わたくしは木の幹に手をついていました。
足が、鉛のように重い。
『《この腑抜けが!》』
先生の叱咤が脳内に響きます。
『《その体たらくで、どうやって水場までたどり着く!ワガハイの【
(…!ゴブリン…)
昨夜の恐怖が蘇り、わたくしはビクリと身を竦ませました。
(でも、先生…水が、飲みたい…です…お腹も…)
『《…チッ。分かっている!》』
先生は、わたくしの衰弱を理解した上で、叱咤していたのでしょう。
『《いいか、小娘。ワガハイのナビゲートから逸れるな。危険は回避させる。だが、貴様は貴様の目で食料を探せ!》』
(食料…?)
『《そうだ!この森は魔物だけではない!恵みもある!貴様のスキルで、食えるものと食えないものを選別しろ!》』
わたくしは、言われるがまま、ふらつきながらも周囲の植物に左目を向けました。
[対象:赤いキノコ] → [構造解析:微弱の神経毒]
[対象:黒い木の実] → [構造解析:強烈な苦味成分]
[対象:緑の葉] → [価値:なし]
(…だめ、です。毒か、食べられないものばかり…)
『《焦るな!精度を上げろ!小動物の気配がする方角を追え!奴らが食うものは、貴様も食える可能性が高い!》』
(…!あちら、ですか。)
先生のナビゲートに従い、茂みの奥へと進むと、視界が開けました。
そこには、ひときわ日の当たる場所に、背の低い木が数本生えており、リスのような小動物が慌てて逃げていくのが見えました。
その木には、親指の先ほどの、半透明の青白い実が、まるで雫のように実っています。
(…あ。)
わたくしは、吸い寄せられるように、その実に【
[対象:月雫の実]
[状態:完熟]
[構造解析:水分含有量(高:85%)]
[毒性:なし]
[特記:小動物や森の妖精の主食。速やかな栄養補給が可能]
(…!先生!果実が!)
『《フン!当たりだ!急げ、ゴブリンどもが嗅ぎつける前に、採れるだけ採って食え!》』
わたくしは、夢中でその月雫の実をむしり取り、口に放り込みました。
粗末なワンピースの袖で、泥を拭うことだけは忘れませんでした。
わたくしとしての、最後の意地だったのかもしれません。
プチリ、と。
薄い皮が弾けた瞬間、甘酸っぱい果汁が、乾ききった喉に染み渡りました。
(…おいしい…)
公爵家で食べた、どんな高級なデザートよりも、甘く、美味しく感じました。
二年間、まともな食事を与えられなかった身体が、その水分と糖分を、貪るように吸収していきます。
わたくしは、夢中で数十個の実を食べました。
『《よし、そこまでだ。》』
先生が、冷静にストップをかけます。
『《腹が満たされたら、次は本命だ。水場へ向かうぞ!》』
(はい!)
月雫の実のおかげで、喉の渇きが和らぎ、身体に力が戻ってきました。
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