第二章:黒の森

第六話:黒の森

音もなく茂みに着地した瞬間、ほんの少し気が緩んで、わたくしは呆けていました。


『《何を呆けている!走れ、小娘!》』

先生の怒声が、わたくしの思考を現実へと引き戻します。


(は、はい…っ!)

わたくしは、急いで立ち上がり、もつれる足を叱咤し、黒の森の闇へと駆け込みました。

月明かりも届かない、本当の暗闇。

背後にある人間の世界と、今踏み入れた魔物の世界を隔てる境界線は、あまりにも曖昧でした。


衰弱した身体に、壁を登った疲労が鉛のようにのしかかります。

真理解析ルミナスアナライズ】が即座に周囲の情報をスキャンし、茨や木の根、ぬかるみといった障害物を、安全なルートとして脳内に提示します。


(…はぁ…っ、はぁ…!)

息が続かない。肺が痛い。

二年間の幽閉で衰え切った体力は、わずかな逃走でさえ、わたくしから全てを奪っていきます。


(もう、だめ…少し、だけ…)

わたくしが足を止め、荒い息を繰り返しながら木の幹に手をついた、まさにその時でした。


——カァン!カァン!カァン!


遠く。背後の屋敷の方角から、甲高い警鐘の音が、森の静寂を切り裂きました。


(…!)

全身の血が、一瞬で凍りつくのを感じました。

(…気づかれた…!)


『《フン!予測より30分も遅い!あの衛兵はよほどの間抜けだったようだな!》』

先生は不敵に言い放ちますが、わたくしの心臓は恐怖に掴まれたように激しく鼓動しています。

(追っ手が、来ます…!)


『《こちら側に逃げているとは奴らも思うまい、慌てるな小娘!だが歩みを止めるな!》』


その言葉に突き動かされ、わたくしは再び走り出しました。

泥に足を取られ、枝に頬を引っかけながら、ただ前へ、前へと。


どれほど走ったでしょうか。

もう屋敷の警鐘も聞こえなくなった頃、わたくしの足はついに限界を迎え、木の根に躓き、腐葉土の上に見苦しく転がりました。


(…もう、無理…です…)

指一本、動かせません。


『《…立て。》』

先生が、静かに、しかし有無を言わせぬ声で命じました。

(で、でも…)

『《立てと言っている!》』

先生の叱咤が、わたくしの精神を無理やり立たせようとします。


『《いいか、小娘。貴様が今いる場所は、貴様のあの甘っちょろい庭とは違う。ここは黒の森。弱者が最初に淘汰される、自然のことわりそのものだ。》』

(…!)

『《貴様のその鼻で、空気を嗅いでみろ。血の匂いが——》』


先生の言葉が、途切れました。

いや、違う。先生が、言葉を切ったのです。

まるで、わたくし以外の何かに気づいたかのように。


『《…小娘。》』

声のトーンが、先ほどまでの教師のものから変わっていました。

『《…動くな。息を殺せ。》』


(え…?)

言われるがままに、呼吸を止めます。

闇に慣れてきた目が、すぐそこの茂みが、不自然に揺れているのを捉えました。


ガサリ。獣ではない。

明らかに、二足歩行の何かが、枝をかき分ける音。


『《…【真理解析ルミナスアナライズ】、起動。ワガハイのナビゲートに集中しろ。》』


(は、はい…!)

わたくしは、震える意識を左目に集中させました。


茂みから現れたそれは、月明かりの中でも、その醜悪な輪郭をはっきりと浮かび上がらせていました。

緑色の、ぬらりとした皮膚。わたくしよりは小さい、子供ほどの背丈。

しかし、その手には、血に汚れた石斧が握られています。


[対象:ゴブリン・スカウト]

[状態:警戒]

[脅威レベル:E(セレスティナにとっては致命的)]

[弱点(1):視覚(暗視能力は低い)]

[弱点(2):首(骨格構造が脆弱)]

[弱点(3):極度の臆病(単独行動時)]


(…ゴブリン…!)

魔物図鑑に載っていた、最も下級の魔物。

——しかし、【真理解析ルミナスアナライズ】が示す致命的の三文字が、わたくしの喉を締め付けます。


『《…チッ。単独はぐれか。》』

先生が、冷静に分析します。

ゴブリンは、キョロキョロと辺りを見回し、鼻をひくつかせています。

わたくしが転んだ物音と、腐葉土に染み付いた匂いに気づいたのです。


(ど、どうすれば…わたくしは、戦えません…!)

覚えた術式は、全て非戦闘用です。


『《慌てるな!奴の弱点を見たか!暗視能力は低い!》』

先生の言葉が、わたくしの凍りついた思考に火を灯します。

(…!【灯火ライト】…!)


『《そうだ!だが、ただ点灯させるだけでは、貴様の位置を教えるだけだ!》』

『《魔力を練れ、小娘!奴が、あの岩の横を通り過ぎる瞬間、予測まで、3、2…》』


ゴブリンが、わたくしの方へ一歩、踏み出しました。石斧が、不気味に光ります。


『《…1!今だ!【灯火ライト】、最大光量で起動!》』


(術式起動—【灯火ライト】!)

わたくしは、残った魔力の全てを、その一点に叩き込みました!


——パァァァァッ!


一瞬、森が真昼のように白く染まりました。

至近距離で、いきなり最大光量の魔術光を浴びたゴブリンが、甲高い悲鳴を上げます。


「ギィィィアアアアア!?」


暗闇に慣れていた視覚が、完全に焼かれたのです。

ゴブリンは石斧を放り出し、両手で目を押さえて地面を転げ回っています。


『《…よし。》』

先生が、短く呟きました。

『《立て、小娘。立てるな?》』


(…はい…っ!)

わたくしは、震える足で、ゆっくりと立ち上がりました。


『《殺すか?》』

先生が、わたくしに問いかけました。

『《石斧は落ちている。弱点は首だ。あの岩で、今なら確実に殺れる。》』


(…!)

わたくしは、苦しみ悶えるゴブリンと、その手に届く距離にある、手頃な岩とを、見比べました。

殺す?わたくしが?この、生き物を?


イリスに虐待されていた二年間。

わたくしは、ただ、耐えていました。

誰かを傷つけることなど、考えたこともありませんでした。


(…いいえ。)

わたくしは、小さく首を横に振りました。

(…逃げます。)


『《…フン。》』

先生は、それ以上何も言いませんでした。

それが、肯定なのか、失望なのか、わたくしには分かりません。


『《ならば行け!奴の仲間が来る前に!》』


わたくしは、目を押さえて泣き叫ぶゴブリンに背を向け、再び、森の奥深くへと走り出しました。

先ほどまでの疲労が、嘘のように消えていました。

恐怖が、わたくしの身体を突き動かしていたのです。


生きるということは、殺すことか、あるいは逃げること。

アルクライド公爵家の北の塔とは違う、もっと根源的な生と死が支配する世界に、わたくしは今、立たされていました。


ゴブリンの甲高い悲鳴を背に、わたくしはどれほどの時間、闇雲に森を走り続けたでしょうか。

恐怖が麻薬のように身体を動かしていましたが、それも永遠には続きません。


そういえば、いつの間にか、雨が降り始めていました。

冷たい雨粒が、粗末なワンピース越しに、容赦なくわたくしの体温を奪っていきます。


もう、限界というところで先生から希望の言葉を聞きます。

『《左だ、小娘。左前方、岩陰に風の流れが途切れている場所がある》』

(…風が、途切れて…?)


『《【真理解析ルミナスアナライズ】で視ろ!》』


わたくしは、言われるがまま、左目に全神経を集中させました。

確かに、雨と風が作り出す流れの中で、一箇所だけ、明らかに澱んでいる空間が認識できました。


(…あそこ…!)

岩壁に、黒く口を開けた、小さな穴。


『《行け!そこが、貴様の今夜の城だ!》』


その言葉に背中を押され、わたくしは、這うようにして、その岩陰へと進みました。

それは、大人が一人、ようやく屈んで入れるほどの、小さな洞穴の入り口でした。


『《…待て。》』

わたくしが中に滑り込もうとした瞬間、先生の鋭い制止がかかりました。

『《この森で、安全な寝床が、そうそう空いていると思うな。》』


(…はい!)

わたくしは、洞穴の入り口に身を潜めたまま、再び左目に意識を集中させました。


[対象:洞穴]

[状態:未使用]

[内部構造:入り口は狭いが、奥はやや広い。小屋程度の広さ。]

[残留痕跡(強):大型の牙獣サーベルウルフの寝床跡。マーキング臭あり(約3週間前)]

[残留痕跡(弱):小動物の骨]

[特記:風雨は完全に遮断可能。内部は乾燥している。入り口のマーキング臭が、他の魔物(ゴブリン等)を遠ざけている可能性(高)]


(…先生!オオカミのような魔物の、寝床…!ですが、3週間、戻ってきていないようです…!)


『《…フン。縄張りを捨てたか、あるいは、他の魔物との争いで死んだか。どちらにせよ、我らにとっては幸運だ。》』

先生が、満足げに言いました。

『《マーキング臭が他の魔物を遠ざけている。これ以上の隠れ家があるか!》』


(…では。)

『《入れ、小娘。今夜は、そこが貴様の部屋だ。》』


わたくしは、恐る恐る、その獣臭い暗闇の中へと、身体を滑り込ませました。

中は、驚くほど静かで、そして何より——雨風が、まったく入ってきません。


(…あ…)

張り詰めていた緊張の糸が、プツリと切れました。

わたくしは、洞穴の奥、獣が寝床にしていたらしい、乾いた土の上に、倒れ込むように座り込みました。

雨で濡れた衣服を絞り、着直します。


(…暖かい…)

外の雨風に比べれば、ここは天国でした。


『《フン。感傷は後だ。》』

先生は、なおも厳格でした。

『《懐の糧を出せ。食えるうちに食っておけ。そして、寝ろ。》』

『《ワガハイが、見張り代わりになってやる。…貴様は、少しでも体力を回復させろ。本当の戦いは、明日からだ。》』


(…はい…先生。)

わたくしは、干し肉を無心で口に詰め込みながら、黒の森での、最初の夜を迎えたのです。

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